見出し画像

心のきのこを食べてみる

誰かのやりすぎ

他人の為にと良いことをする自分
友達を守る為、嘘をつく自分
夜に一人で悩む自分
頑張る自分を労う自分

全部自分がやったこと。
何もかも全部自分。
いくら考えても。心で決めて動いても。
そこから出たものは自分の肉体から。
したのは自分だとはっきり分かっている。
もうあるの、本当の自分は。
割けていることを知っている。

試しに評価をしあってみる。
自分は他人に良い顔をする嫌な奴と言う。
だけど評価された方にとってみれば、それを私から投げかけられた言葉でどんな奴かを評価する。
人は出た物で全て評価される。自分が何をして、自分がどんな奴か評価したって、他人による評価が絶対に正しく、絶対に的を射ている。
そうした評価の二面性があると思っている。表に出たものが親切なら、いい奴。八つ当たりするようなら、嫌な奴。それだけだ。
本当の自分、ありのままの自分、そんなもの心にありはしない。自分を大事にしてなんて、自分がないのだから大切にする元の子も、そもそもない。

自分が本当に心にあるなら疲れはしないだろう。その心には誰がいる。


心は他人

自分が自分にどんな奴かを評価したって、他人に言われたことを気にして、そっちに考えが引っ張られる。
自分の心を心で考えて「自分ってなんだ」を問うても何にも出やしない。内側で内を、考えてもしょうがない。それはおおよそ、悩みに変わり、何かを殺し出す。心は自分の味方にはならない。誰かと関わり、誰かに何かを言って言われて、自分を推し進めるのが健全。心は無視してもなんとかなる。そもそも心が何処に在り、どんな形相(ぎょうそう)か分からないんだから。

一人で生きて、一人で籠って、一人で堂々巡りをしても、換気が悪いまま。どうせ心には、毒キノコしか生えてこない。ならば他人(たにん)を設けて、換気をよくして、しめじでもエリンギでも生やす。食べないかもしれないけれど、そっちの方が自分は死なない。食べて見れば案外美味しいもの。

自分は肉体と今している行動
心は内側
脳は判断

脳が心に作用することはない。推理と感情論ばかり。水掛け論。水と油。
心が脳に作用する。心を慮る(おもんぱかる)ため、脳が変化してそれに対応していく。
自分は心と脳に作用される、事実だから。
身体は他人(他人)に作用される、表に出す理由がここにあるから。


16-5

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?