見出し画像

東電の社員だった私たち 福島との10年【前編】

10年前、原発事故処理のために福島に派遣された東京電力の社員たち。賠償や除染の現場で、彼らは会社が奪ったものの大きさを実感する。そして、罪悪感から生活を大きく変え始める人もいます。福島に移住して農業を始めた人もいる。風評被害を払拭するために農作物を売る人もいる。また、定年後も東京から福島に通い続ける人もいます。彼らは福島で何を経験し、何を背負ってきたのか。今まで語られることのなかった元社員の10年間のモノローグ。

⭐福島第一原子力発電所事故とは?⭐
東京電力福島第一原子力発電所は、2011年3月11日に発生した地震と津波により被災しました。国際原子力事象評価尺度(INES)では、この事故は当初、7段階中のレベル5に分類されていたが、その後、レベル7(重大事故)に格上げされた。レベル7に分類された事故は、チェルノブイリ原子力発電所事故と福島第一原子力発電所事故の2つだけです。

⭐このドキュメンタリーを見れば、今の日本がわかります。私はこのドキュメンタリーを見て泣きました⭐

画像1

インタビュー:北村秀城(元東京電力社員 賠償担当)、永井康統(元電力社員 除染対応)、矢島一男(元東京電力社員 賠償担当)

北村:とりかえしのつかないことが多すぎましたね。そうなんですよねぇ・・・おひとかたご請求者様でお母様を車椅子で窓口に連れてこられた方がいたんですね。仮設に避難をして生活をしているうちに体の機能も記憶も定かではなくなってきちゃって・・・「お金はいいからこれをなんとかしてくれないか?俺たちが直面していることはこういうことなんだからな」って伝えに来られたんですよね。償えないことはたくさんあるんだぞっていうことは見聞きするまで自分のことにはならないんですよ。恥ずかしいと言うか、わかっちゃいないんだって何度も、何度も思いましたね。

ナレーション:原発事故。福島では16万人以上が避難生活を強いられた。東京電力は賠償や事故後の除染対応のため、一般の社員を毎年一千人以上を福島に送り込んできた。

永井:例えばコンビニとかで「お前東電社員か?!」って言われたら土下座するしかないなって・・・袋叩きにあうんじゃないかって。後ろからバットで殴られるんじゃないかっていうくらい怖かった。

ナレーション:被災者と向き合う社員の中にはやがて福島へ移り住む者もあらわれるようになる。

矢島:少しでも何かやれることはないかなって。もっともっと何かやるべきだと思っていて・・・加害者としてやるべきことをやりきれていない。

ナレーション:福島に行った東電社員は何を背負うことになったのか。原発事故から10年。かつて東電に勤めていた社員がその重い口を開き始めた。



ナレーション:福島第一原発から北へ10キロ。南相馬市小高区。ここにひとりの元東電社員が暮らしている。矢島一男、54歳。埼玉に暮らしていた矢島が単身福島に暮らすようになって8年が経った。

矢島:自炊で少しでも節約していかないと・・・麦茶も自分で作っているので。

ナレーション:かつては地元埼玉で法人営業をしていた矢島。10年前に賠償担当として福島へ送り込まれたことで人生が大きく変わった。

⭐2011年10月⭐

ナレーション:原発事故の半年後、矢島は会津若松へ向かっていた。
矢島:不安はいっぱいありますけれども、行ってみて何かしなきゃいけないという気持ちはあって。

ナレーション:避難者は16万4865人。家族が離ればなれになるなどそれまでの暮らしが奪われていた。妻と娘を埼玉に残し、単身赴任。矢島は胸にひとつの思いを抱いていた。

矢島:福島に本当の空を返したい(言葉につまり、泣く)

ナレーション:原発周辺の大熊町や楢葉町が多く避難していた会津若松。

矢島:「賠償金なんて要らないんで放射能をどっか持っていてくれ」とか「仕事を返せ、家を返せ、家族を返せ」そういうことを言われる方もいらっしゃいましたね。

ナレーション:賠償の請求書を作るため窓口で聞き取りをおこなう日々。そこで矢島は避難者それぞれの現実を知ることとなる。

矢島:「実は子供にこんなことを言われちゃったんだ」っていう話があって・・・何かと思ったら小学校のお子さんに言われたんですけど「お母さんは子どもの頃どこに避難したの?」って聞かれたらしくて・・・その女の子がペシャンコのランドセルを背負ってたんですね。これは本当に失礼な言い方ですけど本当にペシャンコで・・・「もともとのランドセルは震災が起こったときに学校に置いてきちゃったんだ。こういう色でこういう形で」って言ってたんで。

ナレーション:不自由な避難生活。子どもの一言に我慢がにじんだ。住み慣れた家を離れての仮設暮らし。半年足らずで衰弱していくお年寄りもいた。

矢島:お会いする度に衰弱していっているのが目に見えてわかるんですよね。もともと農家をやっていたおじいちゃんが退院したときに見たら全然私のこともわからないようになっちゃってて・・・「東電の矢島です」って言っても「はぁ。」って感じでね。申し訳なくて床に額をこすりつけてお詫びをしたんですけれども・・・

ナレーション:矢島と同じく賠償を担当していた北村秀城。東京で原発事故の対応にあたっていた北村は2012年、自ら希望して福島へ入った。
北村:相対でしっかりお詫びすれば少しでも伝わるかな・・・っていう虫のいい気持もあったかもしれないですね。

ナレーション:着任してほどなくひとりのお年寄りの対応をした。

北村:もう・・・開口一番「あんた、煙草吸ってるよね?」って言われて・・・「そうです」って言ったら「飯を食うなとは言わないけれども煙草を吸う金があるんだったら自分たちの賠償に使え」と。「自分たちが一切合切失くしたのにお前たちはここ座って給料もらってるのっておかしくないか?もう一切合切賠償でみぐるみ剥いでやるからな。許さないから」って。多分事故の前だったらお家の周りのご自分の畑で毎日お仕事されて、多分日常の周りのことでそれをお金に換えて考えるようなことを何年もしたことがないような方がそういうことを口にするようにさせてしまったことが俺たちのせいなんだよね、自分たちなんだよね・・・っていうのがわからなかった、そのときは。うん、そうなんです。それを本当にそうだよな、って思うのは恥ずかしながら時間がかかりましたね。

ナレーション:電気が日本を照らすようになって140年あまり。この国の発展は常に電気と共にあった。戦後復興、高度経済成長、資源の乏しい日本で国は夢のエネルギーとされた原子力の導入に邁進する。

中曽根康弘(1960年当時の科学技術庁長官):万一、万々一、災害が起こったときにも国民の皆様に心配をかけないようにしよう。原子炉の設置者に責任を全部集中する。これで原子力産業も国民の皆様に心配かけないで上手くいくようになると思います。

ナレーション:日本列島に次々と原発が建設されていくようになる。原子力発電にも下支えされ、日本経済は世界のトップに躍り出た。ところが・・・

2002年8月29日放送・NHKニュース7
アナウンサー:東京電力が福島県と新潟県にある原子力発電所で行った点検で原子炉内部の部品にひびや摩耗の疑いがあることを確認したにも関わらず国に報告せず、今現在も八基の原発でひびがあることがわかりました。

ナレーション:東電の複数の原発で原子力の構造物にひびが入っているという事実を16年に渡り隠蔽。国への報告データーも意図的に改ざんしていた。それでも原発が安心安全であると立地地治体を口説いてまわった社員がいる。永井康統、当時永井は東電組合の委員長。人々の暮らしを豊かにするためには原発が不可欠だと信じて疑わなかった。

永井:日本は被爆国で原子力に対しては他の国とは安全の考え方が違うので5つくらい安全装置が付いているんだ、みたいなことを私自身も納得をしたし、それが違っているとか考え方が甘いとかそういう発想はなかったですね。

ナレーション:そして事故は起きた。連日、報道される原発事故。永井はその一切に向き合うことができなかった。中学卒業後、東電が運営する東電学園に入学。送電部門の技術者となり、22歳で社内結婚。組合活動を通じて働きやすい会社作りを後押ししてきた。その人生の全てが否定されているような気がしてならなかった。

永井:逃げてた。事実かもしれない、事実かもしれないんだけどそれを認めたくないというか、知りたくないっていう気持ちがあった。東電の広報、一広報マンみたいなものでしたから・・・それに携わった者として現実を見るに堪えなかった。逃げていたんだと思います。

インタビュアー:向き合いたくない福島に行こうと思ったきっかけは何だったんですか?

永井:やっぱり現場に行った人の話を聞いたり、普段福島に働かないような仲間もみんな福島に入って色々なことをやっていたので・・・自分もやらないという選択肢はあっちゃいけないなって思ったんです。

ナレーション:放射線物質を取り除く除染担当になった永井。最初の現場は原発から60キロほど離れた福島市大波地区(2011年11月)だった。大波は当時国の定めた基準値500ベクレルを超える米が出た場所。インターネットには心無い言葉が溢れ、連日報道陣も殺到した。静かな山村が不安と怒りでいっぱいになっていた。

大波の住民(当時ニュースVTR):ここらの住民はノイローゼになるくらい心配してるんだよ。自殺する人が出たらあんたたち責任とれるの?

ナレーション:汚染された故郷に見切りをつける住民も少なくなかった。その最中、大波の除染を担当するようになった永井。住民たちの対応は思いがけないものだった。除染をするにあたり、地域を取りまとめる住職に挨拶にいった。

永井:お前らのせいで避難するはめになったって少しは言われたけど、でも最後にこれはお前の会社に対して言ってるだけでお前に言ってないからな、って最後に言われたのが救いだったんだよね。

ナレーション:住職の佐藤俊道さん。

佐藤(住職):私は事故後の気持ちは変わらないよ。決して許されるものじゃないよって(永井さんに)話しました。でも社員と会社は別ですからね。社員のことを徹底的にやっつけても解決にならないもんね。組織を動かさないと。

永井:個人は責めないっていってくれたことは鮮明に覚えてますね。正直、救われたんですよね。だから救われた分しっかり仕事で返さなければいけないと思ったんですよね。

ナレーション:大波の除染を始めてから2年。安全な作物を作れるようになったのか?実際に野菜を作ってみたいと住職の元を訪ねた。

永井:「そうか、やってくれるのか!じゃ、わかった。そこに使う肥料とか苗とかは全部俺が買うから」って俊道さんが。「だからあなたたちはお金は一切かけなくていい。労力だけは出してくれ。俺は金と畑を出す」って。東電のせいなんだからお金も全部やれ、って言うんじゃなくて俺もやるから一緒にやろうってあのとき言われたんだと思うんだよね。

ナレーション:永井たちに農作業の指導をした佐藤秀雄さん。

佐藤(農家):都会のみなさんにはちょっと辛い仕事をきちんとやられた。たい肥、牛糞とか一般には汚いものって感覚があるかと思うけどそれをきちんと守ってみんなで素手でね。東電に対する異はあったんですけどこれはこれ あれはあれ 地域の復興を最優先しようということでこの人たちも地域のことへの想いは同じなんだって・・・

ナレーション:スイカ、トウモロコシ、枝豆。実った作物から放射性物質は検出されなかった。安全な作物を作れるようになったと大波の人に伝えるため、永井は祭りで野菜をふるまいたいと考えた。当時の夏祭り実行委員長の阿部さんに参加させてほしいと願い出た。

永井:安全なものができたのでやりたいんです、って言った時に阿部さんから「夏祭りを盛り上げてくれるのか、ありがとう」って言われて・・・「え?良いんですか?」って言ったら「ただじゃだめだぞ。ちゃんと売れ。野菜を売れよ」って「儲けなくてもいいけど施しをするんじゃねぇぞ」って言われたんですよ。対等にやれっていうことなのかな・・・だから東電の立場で施してやるっていう気持ちで夏祭りに参加するんじゃないぞっていうことなんじゃないかなって。

インタビュアー:凄いですね。

永井:凄いのよ。大波の人たちは凄いの。

阿部(当時の夏祭り実行委員長):そういう地区なのよ、ここは。なんで?どうして?って聞かれても答えようがない。理屈じゃないんだよ。許すとか許さないとか責任取れとかの感情じゃないんだって。参加してくれるんだ、力を貸してくれるんだ、じゃぁ力をかりましょう、と。

永井:屋台などの祭り会場のレイアウト図があって・・・そこに東京電力っていうコーナーがその図に書いてあって。これは震災とは関係ない時代になっちゃったんじゃないかなって勘違いするくらいに普通にやってくれたんですよ。大波のみなさんも買いに来て、食べてくれて。ほめてくれて。「お前らサラリーマンなのにこんな美味しいのを作れるのか」って。「これって本当に大丈夫なのか?」って聞かれて僕は「うちの孫は喜んで食べてますよ」って答えて。びっくりするくらい嬉しかった。

ナレーション:会津若松で賠償を担当していた矢島にもある出会いがあった。

矢島:ご自宅に・・・ご自宅って言ったら失礼ですね。避難先というか借り上げ住宅ですね。そこに直接お邪魔させていただいて対応させていただくことも増えていったんですけれども。食事まで用意してくれる方がいてですね・・・「せっかく作ったんだから食べて行ってよ」って。漬物だとか煮物だとか・・・テーブル一杯に並べていただいて・・・

ナレーション:芳賀ヤス子さん。原発事故で20年以上営んでいた定食屋を閉店。それでも矢島が訪ねて来る日には必ず手料理を用意していた。
矢島:そのおばあちゃんは、あるときに言ったんです。「周りは東電のこと憎いとかいろいろ言ってるけど、私は全然気にしてないから。矢島さんはそんな気にしないで遠慮なく来てね」って言ってくれたんです。でもそれがあのおばあちゃんの100%の気持ちではなく、当然他の気持ちもあったと思うんですけどそれを表に出さずに迎え入れてくれたことが凄くありがたかったし、申し訳なかったし。

ナレーション:福島で避難者と向き合って1年3ヶ月。矢島に埼玉へ戻るよう辞令が下る。引っ越しの荷物を抱え、アパートを出た矢島。担当していた避難者のひとりが待っていた。「駅さ、送ってくべ」

矢島:Carpentersが流れてたんですね。それが車の中で流れていて・・・僕はボロボロに泣いちゃって。大変な避難生活を送っている人たちを置き去りにしてしまう。本当に申し訳なかったです。


日々観た映画の感想を綴っております。お勧めの作品のみ紹介していこうと思っております。