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ポン・ジュノ ✖ 荻上チキ

12月25日(水)TBSラジオ「荻上チキsession22」にてポン・ジュノ監督へのインタビューの文字起こしです。

荻上:今回の作品は「地下」が出てくると同時に貧富の格差がビジュアルとして非常にわかりやすく表現されている。これは韓国の格差問題を取り上げられてらっしゃると思うのですが、日本でも大変共感できる作品になっていると感じました。この「格差」というのは韓国の中でも非常に大きなテーマになっている。だからこそ取り上げたのでしょうか?

ポンジュノ:韓国の中でも格差の問題はとても大きな問題となっています。韓国だけではなくアメリカやイエローベスト運動のフランスでも見られるように全世界で起きています。この映画ではこの格差の問題を視覚的にわかりやすく描くため空間的に垂直的に配列していきました。映画というのは未だに空間であると思っていて、この映画ではそれがシンプルに描かれています。裕福であればあるほど二階の丘の上など上の方へ存在する。そして貧しければ貧しいほど下の方にある。それが半地下であったりと垂直的に描かれています。そしてそれらを繋げていくのが「階段」です。映画の中では「階段」が重要なイメージとして描かれています。これは普遍的な全世界が抱えている階級の問題として描かれているのです。

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荻上:その階層の下の住人たち、主人公たちは貧困の状況でありながら非常にユニークなコミカルな人生を生きています。そうしたような彼らの姿が前半ではコメディータッチで描かれるわけですが、しかし彼らは実際の家族なんだけれども生き方としては家族ではないふりをすることでサバイブをしていく。私はこの映画の前半を観たときに、是枝監督の「万引き家族」を連想したんですね。彼らは疑似家族なんだけれども家族のふりをして生きている。この「パラサイト」の家族たちは家族ではないふりをして仕事を得ていくというようなそうしたコメディタッチのものを描きました。この家族描写、ポンジュノ監督にとって家族はどんなものとして映っているからこそこんな表現になったのでしょうか?

ポンジュノ:映画の中の家族がコメディタッチで描かれているとおっしゃいましたが、確かに笑える状況というのが多くあります。ですが私も俳優たちも無理に笑いをとろうとしているとかこのシーンは笑わせようといったアプローチで映画を撮っていたわけではありませんでした。ただこの家族が置かれている状況そのものに可笑しみがあるのではないかと思います。あの家族は太々しい家族ですよね?それが笑いをもたらしている部分であると思います。厳密に言えば詐欺を働いているわけです。私文書を偽造したりしているわけですけど、とてもあっけらかんと太々しく又、可愛さなんかも感じられます。何故なら彼らは罪の意識を全く感じていません。それを正当化することにも長けています。例えば、この家族の長男は大学の証明書である私文書を偽造しておきながら「来年、僕はこの大学に行くつもりだから良い」と言っています。それを観ている観客に対して「あぁそうか、そうなれば良いよね」という風に思わせてしまう。それは映画の持つ危険な魅力なのかもしれませんが、間違いなく法的にも倫理的にも誤ったことをしているにも関わらずその人間が醸し出す息遣いや人間が持つ魅力によってそれらを観客に受け入れられるようにしてしまう。そして彼らを応援したくなる気持ちにさせてしまう。そういった部分があったように思います。

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荻上:不思議なのは富裕層の家族もとても仲が良い家族であり、そして貧困層の家族も仲が良い家族だった。しかしそれぞれ家族規範といいますか「家族はこうあるべき」というような家父長制的なようなものが強調していたわけではなく、それぞれ生きるためにその居場所が必要だったんだというような説明しかなされていません。そういった簡素な仕方での家族描写といったようなものに対してポンジュノ監督の思い入れのようなものはあるのでしょうか?

ポンジュノ:この貧困層の家族の場合、本当に驚くほど一致団結している姿が描かれています。それは彼らが生活するために生きるために喧嘩している余裕すらないという状況だからかもしれません。生きていく食べていくために自分の職をみつけていくために皆、意外なほど一心不乱に動いている姿が描かれています。でも、富裕層の家族は少しニュアンスが異なるのかなと思います。一見この富裕層の家族はモダンで洗練された家族のようにも見えますが、この夫婦は垂直的な関係とも言えます。家父長的とはいかないかもしれませんが、まるで職場の上司と接するように妻がてんてこ舞いする姿が描かれています。これが夫にばれたら私は絞首刑だわ、又は引き裂かれるというように自分の業務上の失敗を悟られないように必死になっている。まるで自分の上司と接しているかのような姿が描かれています。彼女の業務は家事の労働や家の中をコントロールしていくことです。家政婦やドライバーなど彼女がしっかりコントロールしていきながら業務をこなしていく。又、その業務をしっかりこなしていき、それを上司に認められることによって褒められたがっている。それを部下の行動のようにもみえて面白いと感じられる部分ではないかと思います。

荻上:主人公の妻が食事をしているときに「私もこんな家に住んでいたら怒らなくてすんだ」といった発言をしていた。その人たちの関係性は、実は経済的な条件によって変わりうるんだと示唆していたわけです。一方で貧困の側にいなかったとしたらあの家族はその姿のままではいなかったということを観客は知らされるわけですよね。つまり家族というものは強固な愛で結ばれるだけではなく環境によって変化をする。そんなことも貧富の差の描写などで痛感させられたわけですが、その左右されていく家族像はどうお感じになられますか?

ポンジュノ:今の話というのはその気持ちが夫に対して恨めしい心情を吐露している場面ですね。あなたの稼ぎがもっとよかったら事業に成功してたら私だってもっと怒らなくてすんだ、もっと良い人になれたということですけれどもちょっと可笑しな論理ではあります。お金持ちであればあるほど良い人になれるというのは少し歪んだ論理といっていいかもしれませんが、観ている観客にとっては100%否定することはできない、そういった心情というものが悲しみをもたらせる部分かと思います。お金があれば裕福であればアイロンでその歪んだ性格の人は腕も伸ばすことができる。そのような極限の台詞を発したりもしています。ある意味で夫人の言葉というのはそこに至るまでの過程というものが込められている。論理的には望ましくないもの、道徳的には正しくない言葉かもしれませんが実際にこの女性が生きてきた軌跡を一つ一つ覗いてみるとこの女性の言葉に納得せざる負えない悲しみが込められた状況でもあると思います。全てがお金で解決するような拝金主義、又はお金を崇拝しているようなキャラクターでは決してないと思います。家族というのが経済的なものによって全て否定されるようなものでもないと思います。ただあのシーンで彼女というのはお酒もはいっていますし、これまでの人生の辛さをこぼしています。酔っぱらった母親とも言えます。

荻上:そういった時にどんなことを口にするかは人生に沁みた様々な想いというものが出てくるものですよね。

ポンジュノ:そうですね。周りの友人や家族とお酒を飲んでいた時に話をしていたり、ああいう言葉を言う状況というのはありますよね。そんなときに出てくる言葉というのはそれほど論理的なものではない。感情というものが空気の中に散り散りになってしまうようなそんな論理的ではない言葉を吐いてしまうことがあります。あのシークエンスというのはウィスキーに酔ったそんな状況だったのではないかと思います。

荻上:それから視覚的に貧富の差を表現された、そのきっかけの一つが「階段」だという話がありました。もう一つの仕掛けは「水」「雨」などの使い方だったと思います。後半部分では明らかに貧しい家が雨によってどうなるのか、富裕層の家にとっては雨はひとつの娯楽にすらなってしまうというようなそうした対比がありました。映画の中の水害の描写が私たちにとって台風19号などの生々しい体験として想起させるものだったわけですね。もしかしたら韓国でもセオル号の件などの「水と貧困」というものがなにか繋がっているものがあるかもしれません。水を使った表現についてどういった構造を思い描いたのか教えてください。

ポンジュノ:韓国でも毎年水害による被害が起こっています。水は上から下へ流れていく。それは世の中のやるせなさであり怖い部分でもあると思います。正に金持ちの富裕層の方から貧困層の方へと流れていく。雨の流れがそれを赤裸々に描いているといえます。また、映画の中で長い階段がでてきますよね?若者がぼんやりと立ち尽くすというシーンがありますけど、その立ち止まった足の隙間から水は滝のように流れていきます。それが正にこの映画の決定的なイメージでもあると思うんです。人間はそこで立ち止まることができますが水は止まることなくずっと流れ続けていきます。そしてその水は彼らが住んでいる家をのみこんでしまうような方法で下へ下へと流れていくわけです。この映画の全てのことがそこに凝縮しているふうにも思います。一方で翌朝、富裕層の妻は「昨日雨が降ったおかげで今日はパーティができるわ」とはしゃいでいるわけです。

荻上:「パラサイト」というタイトルが映画に付けられています。この映画は前半と後半でリズムもモチーフも変化をする作品になっていますが、前半部分で多くの人たちは「なるほど、泥棒家族や詐欺家族が金持ち家族に対してパラサイトしていくという痛快な物語なんだ」というふうに鑑賞します。ところが後半、色々な仕掛けによって誰が何にパラサイトしているのかというものを観客自身が考え直さなくてはいけないという構造になっているかと思います。この「パラサイト」という言葉に込められた想い、読み解いてほしいものはどんなものでしょうか?

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ポンジュノ:この貧しい家族は一人ひとり裕福な家に浸透していくわけですからこの4人家族が寄生虫、パラサイトだと考えたとしても否定することはできません。裕福な家の人々というのは労働という側面においてある意味なにかに寄生しているといえます。皿洗いや家事を他人の労働力に頼っている、その労働力を吸い込んで生活しています。運転も自分自身でしない。できないのかしないのかわかりませんが誰かの労働に依存して、又は誰かの労働を吸収して生きている人々です。クライマックスのパーティーの日曜日までその労働者の人たちを家に呼んで辛い状況に置かれているにも関わらず週末の手当てを渡せばそれでいいだろうと話す。パーティーでその労働力をこき使っています。ですのでそのような意味ではその労働者たちに裕福な人々は寄生しているといえます。寄生というのは悪い、否定的なニュアンスかもしれませんがそれを前向きに捉えようとしているのです。「共生」共に生きるという言葉がありますが紙一重なのかなとも思います。「パラサイト」寄生は搾取しているという意味合いもありますが人間と人間の礼儀の問題だと思います。この礼儀を人間同士がしっかりと守ることができればお互いに共に「共生」できると思うんです。しかし、そのぎりぎりの線というものを越えてしまったとき、礼儀が守られなかったときにどのようなおぞましいことが起こるのか・・・。それが崩壊したときに何が起こるのかというのをクライマックスで描いています。

荻上:わかりました。ありがとうございました。


日々観た映画の感想を綴っております。お勧めの作品のみ紹介していこうと思っております。