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映画を食べる:『トスカーナの贋作』アッバス・キアロスタミ監督作品

 
人は、不完全な関係性の中で、どれほど本音を曝け出せるのだろう?
この作品を観ながら、そんなことを考えていました。
 
この物語の舞台は、イタリアのトスカーナ地方。
この地で暮らす骨董品店を営むフランス人女性と、この地を著作の講演会のために訪れたイギリス人男性が出逢い、「9時までに戻らないと列車に遅れる」というタイムリミットを共有しながら、ここで結婚すると幸福になれると言われるルチニャーノという田舎町を訪れ過ごした一日だけの出来事が描かれている。
二人の初対面から感性や価値観の違いがやりとりされているけれど、ルチニャーノのカフェで、その店の女主人に夫婦に間違えられたところから、二人は偽りの夫婦としてそれからの時間を過ごすこととなる。
 
この物語の中の彼女は、ほぼ初対面とも言える相手に対して、相手の心情に警戒することもなく、自分の中に生まれる感情を口にしているように見える。彼の方はというと、彼女に対して一定の距離感を確保しながら、客観的な視点として論理的に自分の価値観を口にしているように見える。けれど、互いに相手の心情を受容しようとするという様子は感じられず、互いの理想のベクトルは、それぞれ別の方法を向いたまま、延々と平行線を辿るだけのような時間が過ぎる。
 
不機嫌なやりとりというのは当事者にとっても、見せられている側にとっても、かなりの苦痛を伴うと思う。こんなに想いのやりとりが平行線で続いていくなら、いっそのこと黙ってしまった方が無難なんじゃないか?とさえ思えてしまいそうなほどに。
けれど、そこから一歩引いた視線で見ていると、彼女の感情的な言動や行動も、見えていない背景に抱えてきた寂しさや悲しさの大きさからなのだろうか?と思えたり、「本物を証明する意味で贋作にも価値がある」と講演していたわりに“美しい偽物夫婦(贋作)”を一緒に作り上げようという意欲が感じられない彼の反応にも、実はそうせざるをえない背景を抱えているのかも?と考えたり。
感情の表し方にも国民性のような慣れ親しんだ感覚があって、この二人のやりとりは、日本人の私が感じてしまう不協和音的な印象よりも、もっと許容できている範囲内の姿なのだろうか?とも思ってみたり。
 
物語のテーマは、冒頭のシーンで紹介される彼の著作『贋作』の副題「本物より美しい贋作を」という言葉に込められているような気がするのですが、偽物(贋作)の夫婦として投げ交わされる言葉には、その場の思いつきで夫婦を演じている創作感というよりも、互いの実の夫や妻に対して言えずにいた言葉をぶつけているのではないかと想像させるような本物の夫婦像を感じられるようにも思えて、夫婦の関係性で捉えるなら、どんな会話が本物で、どんな会話が偽物なのか、わからなくなるような感覚になっていました。
 
人は、目の前にある出来事や人の口調や仕草を見て、そこにあるものの本質を判断しているけれど、それは自分自身の人生経験や感性という限られた可能性の範囲で、自分なりの答えを出そうとしているにすぎないのだと思うんですよね。
けれどその自分なりの答えでさえ、常に明瞭な答えとして確信を持てるものというわけでもなかったりする。
現実の出来事というものは、自分自身のことでさえ、不確かなまま理想や願いを優先させてしまっていることもあるように思うんです。
 
そんなことを考えさせられながら贋作としての二人の様子を見続けていくのだけれど、この二人についての答えも鑑賞者それぞれの胸の内に委ねられているかのように、贋作に装った二人の本心が見え隠れする曖昧さを漂わせたまま時間だけが過ぎていって...
そうした心情の浮き沈みに終わりを迎えたいと願うようになる頃、教会から互いを思いやり寄り添いながら出てくる老夫婦の姿が画面に現れる。言葉もなくその老夫婦を見つめる二人。こんな老夫婦になれるといいと思えるような理想(本物)の姿として見せられ、ほんのつかの間、鑑賞している者も心を癒されるような静かで穏やかな心地に包まれる。
こんな老夫婦の姿を見たら、感情をぶつけ合うだけの二人の心情も変わっていくのでは?とも思うけれど、シンデレラにかけられた魔法の時間にタイムリミットがあったように、偽物(贋作)の夫婦にもタイムリミットがあって、「言ったはずだ、9時までに戻ると」という彼の言葉で、彼女にとっても現実(本物)に戻る終わりの時間が来たのだと気づかされる。
 
ただ...ラストシーンで彼の背後から聴こえてくる鐘の音は8回。
鐘の音を数えながら8回ってことは8時ってことなのかな?と考えた直後、さらにたくさんの鐘の音が一気に響き始める。
ん?これってもしかして9時の鐘ってこと?
えっ?もう9時になってしまったの?
え~っ?じゃあ9時までに戻れなかったってことは...彼はどうするの?
という不確かな余韻を私の思考に残したまま映画のエンドロールとなりました。
 
 
この作品は、2010年に公開された作品で、予告動画を観てから、ずっと観てみたいと思っていたんですよね。でも、実際に手を伸ばすところまでには至っていなくて、先月ようやくDVDを購入して観ることができました。
全編通して、共感したり共感できなかったり、苦しくなったり面白く思えてきたり、説明されていない物語の余白部分を自分なりに想像すると、まだまだ語りたくなることがあちこちに散りばめられていると思える作品なので、人の心の動きや変化を探求するというテーマでも、まだまだ深掘りできそうです。
映画でも本でも美術品でもアートでも、もちろん人でも、どんなことでも、このタイミングで出逢ったから気づけたり受け取れたりするってことがあると思うんですよね。
そういうものとして、私にとってのこの作品との出逢いは、いま出逢うべきタイミングだったのだろうと思える作品でした。
 

 

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