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「車輪の下」(ヘルマン・ヘッセ)を読んで①

 この作品を初めて読んだのは高校生の時だった。小学校から高校まで毎年夏休みに読書感想文を書かせられるが、これも課題図書の1つだったように思う。私は、感想文を書かせる側(教師、学校、教育委員会など)が求めるような内容を、例えば、「主人公のハンス・ギーベンラートは、詰め込み主義の教育や規則ずくめの学校生活によって追い詰められ、その結果として命を失なった。彼は、学校制度の犠牲者だ」みたいなことを書いたように思う。実際、本作には、著者による痛烈な学校(教育制度)批判が展開される。
 
だが、その後(何十年も経ってから)読み直すうち、別のことに驚いた。この内気だが負けず嫌いの少年、ハンスの境遇、その心情、エリートコースからの脱落、何から何まで私がたどった道とそっくりだったからである。
 
もちろん設定は違うところもある。受験当時、ハンスは父子家庭だったが、私は母子家庭だった。ハンスは、エリート養成校であった神学校への入学を目指して合格したが、私は東京の国立大を目指した。
 
大きな点では、時代も、国も、性別も何もかも違う。それなのに何故ハンスの内面と私の内面がこうも似ているのか? ひょっとして私はハンスの生まれ変わりか、などと、輪廻を信じているわけでもないのに思ったりした。しかも、ハンスは、作者の創作であり、実在の人物ではないのだ(勿論、ヘルマン・ヘッセ自身をモデルにはしているが)。
 
何よりも似ているのは、ハンスがクラス1、いや町一番の秀才となり、さらには州試験を経て、頂点である神学校を目指すところである。受験前のハンスは日本で言うと中学生くらいだろうか。私も中学の頃はクラス1、学年1の成績だった。そこに自分の価値のほとんどを見出していた。何せ、母はパート工員、家は二軒長屋の一室、容姿はぱっとせず、運動は苦手ときている。
 
立派な家に住んでいたり、異性にモテる容姿だったり、足が速かったりする同級生を見ては羨やみ、何故私はそんな境遇に生まれなかったのか、自分の運命を恨んだ。そんな私が唯一誰にも負けないと思えるのが勉強だったのである。勉強といっても、特に自分が興味を持って好きでやっているわけではない。将来何かを深めたいと思っているわけでもない。ただ、私を貫いている一本の芯、それが勉強だった。
 
学校で一番になれば、普段は見向きもしない、或いは用があるとすれば、女であることや家の惨めさをからかってくる同級生も私を見上げる。教師たちは私に一目置く。母の機嫌も損なわずに済む。ハンスも学校ではばかにされ、いじめられていた。だが、そんな連中を彼は心から軽蔑していた。自分はこんな連中の手の届かない高みに上るのだ、その資格があるのだと。思春期特有の傲慢さを私もハンスと共有していた。
 
ハンスの描写は神々しい。その姿を見れば、どんなに聡明か、上品か、他の子たちとはかけ離れているのがわかるという。なんの変哲もない古い小さな町に神秘な火花が天下った。穢れのない神童のような姿であったのだろう。私はそこまで自分を神格化する気はない。それでも、中学生の一時期、バレー部で鍛えられて、苦手だった運動も得意になり、アイドルの髪型や表情を真似たりして、ハンスと似たような自分自身のイメージを作り上げていた。
 
自分はこんな田舎にいるべきではない。もっと広い世界に出て、てっぺんを掴むのだ。野心に燃えて難関の州試験に臨むが、受験当日は周りの者がみんな賢そうに見え、怖気づいてしまうところも私と同じだった。絶対に落ちたとがっくり肩を落とし、故郷に帰るが、結果は合格。しかも2番という好成績だった。それまでのうじうじした気持ちは吹き飛び、やはり自分は特別だったと万能感に酔いしれるハンス。きっと自分の未来は輝かしいものであるに違いないと確信する。
 
ところが、である。てっぺんを上るための階段は、幻の如く崩れ去っていく。学校の寮で唯一心を開くことができた天才気質の友人ハイルナーに引きずられ、どんどん成績は落ち、得意なはずのヘブライ語でさえついていけなくなった。ハイルナーは、たびたび問題行動を起こして、先生たちの目の敵にされた。彼との友情を断てなかったハンスも、冷遇されることになる。入学した頃は、あんなに期待されていたのに。
 
ヘッセは、「学校の教師は一人の天才より十人のとんまを好む」と皮肉っている。ハイルナーは反抗的な少年で、教師たちに従うことを拒絶した。実際、学校に居続けたとしても、自分の天賦の才能を頼むハイルナーは、教師たちの手に負えなかっただろう。その結果、ハイルナーは不名誉な放校処分を受ける。
 
それからというもの、既にトップ争いから外れていたハンスは、成績も精神状態も転落の一途をたどった。同級生たちからは疎まれ、教師たちからは見捨てられた。校医から神経衰弱と診断され、学年末を待たず、休養という名目で家に帰されたハンス。そのとき故郷に降り立った彼の姿も、彼の眼に映る風景も、つい1年前のものとは似ても似つかぬものだっただろう。
 
疲れ果てて戻った故郷は予想通り彼に冷たかった。父親は小言こそ言わなかったが、無理していたわろうとする態度や、何かを探ろうとする眼がハンスをますます不安にさせた。受験勉強に没頭していた彼に友達は一人もいなかった。
 
そして、受験と入学の前に有利になるからと、あれほど熱心に、それも無償で勉強を教えてくれた町の牧師や教師たちも彼から遠ざかった。その理由を著者はこう述べている「彼(ハンス)は、もういろんなものを詰め込むことのできる入れ物ではなかったし、いろんな種を蒔くための畑でもなかった。彼のために時間と配慮を費やすのは骨折り甲斐のないことだった」からだと。
 
あまりに理にかなった理由、正当過ぎる理由だと思った。ここに学校教育の本質があるように思う。学校(又は教師)はその名誉や手柄になることなら、時間も労力も惜しまず与えるが、無意味なこと、ましてや不名誉なこと、問題の火種となることは排除しようとする。できれば、気づかれないようにそおーっと。

これは今でも全く変わっていない。不名誉なこと(例えば、不祥事、犯罪など)を起こした生徒(学生)は、学校から排除される。学校は彼らを更生させたり、挽回のチャンスを与える場所ではないのだ。
 
しかし、牧師は、学校に属していなかったのだから、ハンスに何か言葉をかけてもよさそうなものだが。それについても、著者は説明する。「牧師は、博識ではあったが、みんなが悩んで苦しんだとき、相談に行くような牧師の一人ではなかった」と。ハンスを最後まで気にかけてくれたのは無学な靴職人のフライスだけだった。
 
神学校を退学し、家でぼんやり過ごすハンスに、父親は、書記か機械工になることを勧めた。世間体というよりは、父親なりの配慮だろう。子供が学校へも行かず、このまま無職でぶらぶらしていたら、この子の将来は一体どうなってしまうのかと、一般的な親なら心配で仕方ないだろう。
 
ハンスは機械工になることを選び、工場で働き始める。これまで勉強しかしてこなかったハンスにとって、一日中立ちっぱなしの作業は相当な苦痛であっただろう。肉体的な苦痛もそうだが、つい一年前まで見下していた連中と肩を並べて、いや並べるどころか、一番後ろについて、彼らに教えを乞い、仕事を覚えねばならないのだ。実際、ハンスのことを「州試験に受かった錠前屋」と嗤う少年たちがいた。
 
ハンスは、2日間苦痛に耐えて働いた後、最初の休日に同僚に誘われて酒を散々飲まされ、酔っ払った挙句、帰りに足を滑らせて川に落ち、溺死してしまう。
 
よく解説書には、従順な秀才ハンスと、反抗的な天才児ハイルナーは、いずれもヘルマン・ヘッセの分身であると書かれている。ハンスは落伍者として死に、もう一人の分身ハイルナーは、放校されてから一切の消息を絶ち、紆余曲折の後、英雄ではないが、立派な男になったとある。
 
何故ヘッセは、一方の片割れ(ハンス)を死なせ、他方(ハイルナー)は生かしたのだろうか?
 
(続く・・・)

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