『ゲームは楽しいのに、なぜ現実は糞つまらないのか』~ゲームの現象学~その3

ハイデガーは『存在と時間』の中で、いわば私が高校生の頃「余りにもゲームに没頭してしまい、自分が誰だか忘れてしまった」と言う経験と良く似た構造が現実社会の人間にも存在すると指摘している。この現象をハイデガーは「頽落」(Verfallen)と名付けた。
どう言うことかと言うと、例えば「学生」と言う身分は一種の虚構であり、そういった存在が実在するわけではないが、
当人が学生であることに熱中する余り、その在り方が自己の本性であるかのように信じられてしまっているような状態である。
例えば、「大富豪」と言うのは、貨幣経済システムの中で、仮に生じた身分であるにも関わらず、
そのシステムの内側に居る限りは何でも思い通りに出来てしまうが故に、その権力が実体であるかのように勘違いしている状態だ。
ゲームに熱中しているとき、我々は擬似的にそんな心理になっている。
ハイデガーはこういった構造が「現実の世界」でも成立していると言うのだ。

ハイデガーによると我々は「現実という名のゲームしている」ということになる。ゲームに没頭すればするほど、ゲームは強固で固定的な「唯一の現実」に見えてくる。
誰しもが、会社に入り初日、二日目は「なんだか人々が一生懸命真面目な顔をして動いている様」を見て「なんとなく笑ってしまう」
まるで「機械のように決められた行動を取る人々」に何だか不思議な感覚を感じたことがあるのではなかろうか。まるでロール・プレイング・ゲームの「町の人」を見るかのように。(ロール・プレイング・ゲーム《役割・戯れ・遊び》という名付けは示唆的である)
しかし、あなたが一週間もその会社に勤めれば、あなた自身が、ゲームの「町の人」になっているのだ。プログラミングされたかのように決められた行動を何の疑問も無く繰り返すようになるのである。
人々は何も誰かに強制されてそんなことをさせられている訳ではなく、一種の情熱を持って、自主的に「町の人」を演じているのである。
この段階になると、自分がRPGゲームの「町の人」のような存在になっているとは、もはや想像することも出来なくなっている・・。

では、一体、どうしたら我々はこのような状態から逃れることができるのだろうか?
結論から言うと、ハイデガーは「死の自覚」(先駆的覚悟)ということを一種の処方箋として提示した。
この現実というゲームを生きている自分は、永遠の時間を生きている訳ではなく、必ず終わりが来る。
死を自覚した人間は、「有限な人生を生きる自分は、本当にこんなことをしていて良いのだろうか?」と、必ずこのように己に問いかけるようになる。(良心の声)
この時、すべてのプログラムは崩壊し、ゲームのキャラクターのごとく生きていた「自分」はゲームから脱し、「真に自由な選択」が可能になるというのである。

・・ところで、ゲームに熱中しているとき我々はゲームのキャラクターになりきってしまい、現実の自分が誰であるか忘却してしまっている訳だが、では、我々が現実を生きているとき、我々は何を忘れているのであろうか
ハイデガーはこれを「存在の忘却」と言った。
我々は己の本性が「存在」であることを忘れ、自分が「教師」だとか「父親」だとか「人間」であるというような「役割」と同一化している訳である。
しかし我々が我々自身の死を自覚するとき、目の前の「役割」を永遠に演じきれないということを悟る。死によって、演者である自分の存在を意識するようになるのである。
では、自分が演じているありとあらゆる属性を一つ一つ剥がしていくと最終的に何が残るだろうか?
剥がしても剥がしきれない最終的に残るもの。それが「存在」であるとハイデガーは言うのだ。(続く)

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