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民藝の「用の美」とは心にも仕える美である——柳宗悦『民藝とは何か』を読む

真の実用品たることと真の工藝品たることとは同意義であるからです。用に叛いて美を迎える時、用をも美をも失うと知らねばなりません。  
だが私は注意深く言い添えておきましょう。ここに用というのは、単に物への用のみではないのです。それは同時に心への用ともならねばなりません。ものはただ使うのではなく、目に見、手に触れて使うのです。もし心に逆らうならば、いかに用をそぐでしょう。ちょうどあの食物がきたなく盛られる時、食慾を減じ、したがって営養をも減ずるのと同じなのです。用とは単に物的な謂のみではないのです。もし功利的な義でのみ解するなら、私達は形を選ばず色を用いず模様をも棄てていいでしょう。だがかかるものを真の用と呼ぶことはできないのです。心に仕えない時、物にも半仕えていないのだと知らねばなりません。なぜなら物心の二は常に結ばれているからです。模様も形も色も皆用のなくてならぬ一部なのです。美もここでは用なのです。用を助ける意味において美の価値が増してきます。  
工藝美はかくして二つの面よりなる一つの真理を語っています。(一)もし用から美が出ずば、真の美ではないと。(二)もし美が用に交らずば真の用にはならないと。工藝においては用美相即なのです。

柳宗悦『民藝とは何か』講談社学術文庫, 講談社. Kindle 版.

民藝運動の主唱者でもあり、宗教哲学者・美術評論家の柳宗悦(やなぎ むねよし、1889 - 1961)による1941年の著書『民藝とは何か』より引用。非常に分かりやすい口語体で書かれている。柳宗悦の『美の法門』についての記事も参照のこと。

冒頭で柳は「民藝をこそ工藝中の工藝と呼ばねばなりません」と述べ、いわゆる美藝・美術品とされるものと民藝・工藝の違いを明らかにする。「民藝とは民衆が日々用いる工藝品との義です」と述べ、民藝がいわゆる「民衆的工藝」という意味であるとする。普段使いするもの、いわゆる「雑器」がそれである。「下手(げて)」な品と呼ばれることもある。「民家、民器、民画、私はそれ等のものを総称して「民藝」と呼ぼうと思います」と柳はいう。

民衆的工藝(民藝)と貴族的工藝(美藝)の違いは、民藝品は、民間から生まれ、主に民間で使われるものであり、したがって作者は無名の職人であり、作品にも銘がないのが特徴であるなぜ民藝の意義を語らねばならないのかを、柳は4つの理由を挙げて説明している。第一に、民藝品の美しさがほとんど全く認められていないからであり、第二に、逆に上等の品(いわゆる美藝)が不当な過信を受けているのでそれを修正すべきだからである(この第二の点は、現代でいえば「ブランド物」に飛びつく審美眼のない人々と共通するものがあるだろう)。第三に、直観の前には美しいものは美しいからだという。つまり、直観で知る美の世界では民衆の品物である民藝にこそ美があるからである。第四に、上等品のうちにも本当に美しいものは民藝品と同じ基礎があるという。無駄をはぶいた簡素、作為のない自然さ、簡単な工程、無心の豊かな模様や形、色などである。

そうした民藝の美は(執筆当時より)約300年前、初代の茶人たちによってすでに発見されていたと柳はいう。つまり紹鷗(じょうおう)や利休のことを指している。彼らには工藝の美に対する真に稀有な直観と、卓越した鑑賞とがあった。茶器は元来、中国から渡った薬壺であり実用品であった。また茶碗は韓国の民衆がつかう飯碗だった。茶器に使うものは元来すべて実用品であり、その意味で「民藝」の品である。美術品として作られたものは一つとしてない。初代の茶人たちは鋭くもそれ等の茶器の美に心を打たれていたのである。いわば「茶」の美は清貧の美である。茶道の深さは清貧の深さであり、茶器の美しさは雑器の美しさであると柳はいう。

そうした民衆の工藝や雑器に真の美しさをみる感性が私たち日本人には元来あったはずなのだが、それは時代とともに失われていった。その理由の一つは私たちの生活の近代化である。「だが最近資本制度の勃興につれて、民藝の美が急速に沈み、私達はほとんどすべての器に美しさを失ってしまいました」と柳はいう。商業主義による利益中心の考え方や、機械主義による職人の手仕事の衰退である。だからこそ、民藝の美に対する認識を新たに復興させねばならないと柳は主張する。それは単に美の認識という狭い問題ではなく、社会全体の問題である。「工藝は美の問題であると共に精神の問題であり、物質の問題であり、兼ねて社会の問題」であると。民藝を通してこそ、これからの社会の展望も見えてくると柳は語る。

民藝の美を、柳は「偉大な平凡」とも表現している。「あの平凡な世界、普通の世界、多数の世界、公の世界、誰も独占することのない共有のその世界、かかるものに美が宿るとは幸福な報せではないでしょうか」と。この「偉大な平凡」の中に、幾多の逆理、つまり一見逆説でありながらも真理につながることが見えてくるという。つまり凡庸の中の真の美しさ、作為のない無銘の作品の美しさといったことである。そう考えると、民藝の美は天才が生み出すものではなく、「誰にもできた器」であり、誰もが作ったものである。宗教が善人のみへの福音ではないように(親鸞の悪人正機など)、同じその肯定の精神が、民藝にも示されていると柳はいう。「思えば民藝品は絶大な他力の中に抱かれている」と、柳は民藝のこころと宗教の精神が近いことを強調する。

さらに柳は「用の美」といったことを述べる。「美しさのために作った器よりも、用のために作った方がさらに美しい」というのである。これは初代の茶人たちが茶器に見出した美しさと同じものである。ただし、ここで「用」というのは、単に物として使用することを指すのではない。同時に「心への用」ともならなければならないと柳はいう。物として使用することだけを考えれば、不要な形や、色や模様は省かれるだろう。しかし心への用を考えれば、模様も形も色も必要となる。工藝においては「用美相即」であり、「用美一如」であると柳はいう。用は生命であるため、用を果たすとき、器は一層美しくなってくる。作りたての器より、使い古したものはさらに美しい。「手ずれ」や「使いこみ」といったものが器に味わいを添えるのである。

民藝の器は、民衆が作る平凡なものであり、無心に作られている。無心なものこそ美しい。「無心とは自然に打ち委ねる心です。作るのではなく生れるのです」と柳はいう。民藝の品は、安い廉価なものであっていい。安いからこそ、無心に作られ、奉仕する心で作られるからである。「用の美」は、無心の美、利他の美、奉仕する美というものにも通じている。


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