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疲れた日の読書論

まさに今日のような日だ。

「あー、疲れた。けれども、本を読みたい。だけど、内容が頭に入らんだろうな。」

と思いつつも、本を読む。


この記事の目的地は決まっていない。疲れているからだ。いや、疲れていなくても目的地は決まっらないだろう。とりあえず、思ったことを片っ端に書いていこうと思う。

「疲れたんだけど、本を読む」

これはもはや習慣でしかない。さらに言えば、積読があるから読む。それでしかない。私の積読は悪質で、返却期限という締切がある。

これに追われながらセカセカ読む。

さらには、内容が頭に入らないことを問題としている。これは、内容を理解したい本だけの問題だ。

「何を当たり前なことを?」

と言いたい気持ちは分かる。別に完璧に分からなくてもいい本が自分にはある。

先々月?くらいから寝床では小説・自己啓発本を読むことにした。こういった本は自分にとってライトな本に当たる。

ライトというのは、流し読みになったとしても、「あ〜、何となくこんな話ね」と分かるような本だ。

もちろん文体にもよるが、いちいち止まって「ん?」と考えながら読まなくてもいい本とも言える。

これが私にとっては、完璧に分からなくてもいい本だ。小説はおおまかな流れを知って、楽しめればいい。自己啓発本も元気が出ればそれでいい。

もちろん、ビビッと刺さって詳細まで知りたい本もある。そんな本は皮肉なことにライトな部類からは抜けてしまう。

そう、問題なのは内容を理解したい本なのだ。どーしてもエネルギーを使う。だが、そのエネルギーは残されていない。

「どうしたらいいの?」

と。この記事の目的地は決まっていないのだけれども、この中継ポイントは絶対に外せない。そして中継地点からはお先真っ暗なのだ。

疲れた日はライトなものを読む。それはいい。しかし、「いつ疲れていない日」が来るのかは分からない。未来の自分から見たら今日が一番疲れていない日かもしれない。だが、そんなことは今の自分には分からない。

じゃあ、どうしたらいいのだろうか…

まあ、「頑張って読む」がよくある解なのかなとは思う。結局は根性論なのか。

んー。

自分が書いたことを少し戻ってみる。すると、「ライトな本でも詳細が気になって、ライトではなくなる」と書いている。

なら、「ライトじゃない本もライトのふりをして読めばいいのではないだろうか?」

気持ちとしては自分に嘘をついていることになる。

詳細が気になった本は2周目に突入すると言っているのだがら「これをもう一回読むのか?」と少し億劫になる。

待てよ。内容を理解したいと思っていた本を2回読めとは言っていない。単に「そこまでの内容じゃなかった」という本もある。

なら、ペラペラっと読んで「あー、こういう本ね」と知ってから、ガッツリ読むのか、とりあえず読めばいいのか考えればいい。

でも、このペラペラっとが難しい。ペラペラっとで「ん?」とつっかかてしまうと、脳のエネルギーを消費する。おそらく、ここの塩梅が難しいんだろうなぁ〜。

実はめちゃめちゃ刺さることが書いているはずなのにペラペラっとで自分に刺さらないからスルーしてしまう。そんな経験は既に何度もしていると思われる。かと言って、どうしようもない。

本は巡り合わせとも(友)言う。今はご縁が無かった。そう割り切ることもできる。

現に『内向型人間のすごい力』は買ってすぐに投げ出した。しかし、改めて読み直すと「え!めちゃいい本じゃん」と評価が180度逆転した。

こんな事例が自分の中ではあるから、1度諦めた本も捨てたもんじゃない。

そうなれば、億劫な本もライトな本と同じように読む。刺さればそこで大まかな流れを掴んでおくことが望ましい。

全体像を知ることで、読み返す時のエネルギー消費が少なくなる。加えて、読んでいる所が全体の中のどの辺なのか?を知ることができる。はたまた、全体像で終えきれなかった部分はどこなのか?に注力して読める。これも省エネになる。

うすーく、うすーく読んでいって、内容を深める。こんなところではないか。

絵を描くときにビタっと一発で濃い線を書くのではなく、薄い線を重ねて濃い線にしていく。そんな方法。

まあ、結局は「ただの読書論」になってしまった。

が、なにかしらの結論には落ち着いた。

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