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『全てが正解』と今ここの命の理由のあいことば


ブログ更新に少し間が空いていました。



アップデート=上がるために下がる。

に、例外なくわたしものっとりまして。



クリアになるタイミングの

古い傷が浮上して来ていました。


このブログは
実際に変容してきたことを記している
実践実証ブログです。


今回のアップデート済んで参りましたので



いつでも不完全でプロセスなわたしのまま、


綴っていきます!





その間にもこのブログを見に来てくださったり


スキやフォローを沢山いただきまして


本当にありがとうございます!

タイトルにある


『全てが正解』についてをまじえつつ。



今回はふとハートから出てきたままに
書いていきます。


わたしがSONOMAMAと名乗っている理由



わたしは『そのまま』で全然生きられなかった
子供時代から大人時代を生きていて。


だからゆえに、



『そのまま』の大切さが身に染みて分かっている
からであったり、





そして、



そのように沢山の人が生きられる



世の中であったらいいなという
望みを持っているからであったりします。


一方で


わたしには子供8歳になる子供がいるのですが、


彼女は4歳の時に保育園を退園しています。



農園やニワトリさんが園庭を闊歩していたり。笑

自由度が割と高めかなと思っていたのですが。



入園してから退園するまで

毎日泣いて、行くのを嫌がっていました。


4歳だったので
おぼつかない言葉から汲み取れたのは、


『時計がなければいいのに…』


『眠くないのに寝なきゃいけないのが嫌だ』


『やりたいことをやめてみんなでやらなきゃ
いけないのがいやだ』


等との理由があり。



娘は、



赤ちゃんの頃から意思がハッキリとしていて

感覚過敏もありますが

離乳食から今に至るまで、
食べたくないものは絶対に口にしませんし。



なぜ自分がそうする必要があるのか?
納得できないことには断じて動かなかったりと。



一筋縄にはいかないタイプ。笑


(今は必要性を感じていないので診断などはしていませんが。
イスに座るとカタカタしたり。
順序立てて考える、話すが得意ではない。
感覚過敏、騒がしい環境は疲れるなどなど…
ADHD  HSP さんではあると思います。)



保育園に何か問題があるとかでは全然ありません。




個性と環境の合う合わない。

命の理由と園の理由とが。

"ただそこにある"だけでした。

4歳から退園して



森のようちえんを2箇所転々しても
泣いて嫌がり行きたくないと言う状況は変わらず。



園舎がないとか自由度でもない。

娘にとっては

"自分を過ごすこと"を決められてしまう
『何か』が嫌なんだな。。とわかり。


途方にくれた先で見つけた。
はじめて娘から『行きたい!』と言った学校に




今は『自分の居場所はここなんだ』と

主体性を持って楽しそうに通っています。



自分で1日をどう過ごすのか

何をするもしないも自分で決める。




かといって自由だけがあるかといえば、


自分と他者でその"自由と責任"を
尊重し合うことができなければ共に過ごすことは
難しいし、その場にいられないので。



子供達はコミュニケーションでそれを
納得するまで話し合い。



けんかしたり受け入れたりしながら
お互いの気持ちを解決して、日々過ごしています。



なかなか大人でも難しいスキル。笑



娘にとっては最適なようで

そんな環境に巡り会えたことに

本当に感謝しています。




さて、ということで。



これが容易であったかといえば
もう全く!の悶絶騒ぎでしたし。笑


『わけのわからない』を例外なく
わたしも通ったことで今がありますし。



常識や固定概念を解体するのにも

それを入れ替え許容していくのにも

時間も精神力もかなり使いました。



その間に娘に対してあたってしまったり。
迷惑をかけたりも沢山ありました。



彼女はほんとわたしにとって
戦友のようです。



そのままを全然生きられなかったわたしが

それがどれだけ大人になってからもなお、
苦しいかを知っているからこそ。



逆のものを、

そのままでいいと

子供には与えたい。



基本、"自然にスムーズ"には
与えられたものしか与えられません。



子供を守りたい一心でしたが。
これは相当大変でしたw


娘を受容するにも、許容するにも。

自分の傷やブロックに全て触れてしまう。

それをほどきながらでないと、先に進めない…



それでも誰かが代わってくれるわけでも
やってくれるわけでもない。


自分で自分を癒し


そして同時に


『自分のどうしたらいいのか?』に気づき。

自己決定をして進む時が必要になります。


そうして時を経て、

娘が選んだ環境を好ましく楽しい


心からそう思えるようになった時


わたしは自分の"そのまま"を生きられるように
なっていました。



まるで娘は
そのために生まれて来てくれたようです。




そして、わたしのそのままは


全てをひっくるめて『そのまま』であり、





"自分を生きているだけで満たされて幸せ"

"自分と他者をそのままにできる幸せ"



未来の子供達も大人達も、
そんなふうに生きられる。



そこに、



自分の『そのまま』が役に立ったら嬉しいなぁと
思っているわけです。




このブログには
その全てを詰めて綴っています。


『全てが正解』


わたしが自覚したような



わたしの『全てがそのまま』は、


そのままを生きられなかったわたしを、

まるでほどくために現れてくれた娘のおかげ

"だけ"でしょうか。



自分を閉じこめるような環境や概念

常識も固定概念も昭和の時代の価値観も。

それ以前の時代も。

ただの諸悪であって、間違いで。
無ければよかったのか?



自分の幼少期から、


自分がわけがわからなくなるほど、

自分を閉じ込めて生きたことは辛かった。



⭐︎こちらに書いてます↓⭐︎

とてもクリアになるまでの道のりは大変でしたが、


わたしの『全てがそのまま』は、

両親のおかげでもあり。



全ては自分が創造していると
責任を回収した先にあったのは、

それも恩恵でした。


それがなければわたしは、


このように見えない世界を変容させることなど。


知ろうともしなかっただろうし、


人として生きることや幸せとは何か?


苦しみを投げ出せないからこそ、
問い続けるしかできなかった。




それに、
それはある種の
自分の才能の所在地でもありました。

(診断はしていませんが、
わたしは興味の幅が極端に集中し探求し続けるASDの傾向が自覚としてあります。)


このように、
光と同時に影にも同じ価値を
"自分の世界に"与えて生きようとすることも。


そうした価値観で創造する人で在りたい
と想い望むことも。


両親がわたしの闇として
存在し続けてくれたおかげでした。




そこにはただ
わたしの命の理由しかありませんでした。


昨日これだけだと信じていた事が
次の日これだけじゃなかった!
と気づいたり変わったりします。


昨日は不正解で
次の日は正解でしょうか?



昨日のこれだけだと信じていたことは
また、これだけだと信じていた形のまま


自分の意識が変わろうとも虚ろごうとも。



ただ『そのまま』あり続けますし、


また違う自分ではない
誰かの気づきのきっかけとして『存在し続けます』



全ては正解



今日、自分がどれだけ不正解と思えても

今日、あの人がどれだけ不正解と思えても



全ては正解です。





辛いとかしんどいと、
感じることはなくなりませんが。


まだ見えぬその理由を


見据える姿勢は


不安や辛さはあるけれど
それにのみこまれるだけではなく、



今に未来の希望を見据え、
肯定しようとするチカラになります。


インプットするだけでも、
"今ここ"を生きやすくさせてくれるために
役に立ってくれるワードです。



『全ては正解』



今ここにある

命の理由に辿り着く

合言葉です。


完璧などない学び最中な。
一生プロセスの自分なりにですが。



お役に立てれば幸いです。


お読みいただき
ありがとうございます。

"そのままいがいからそのままにもどる"ことこそが
"そのままを創れる方法"だったとしたら?

"じぶんとじぶんいがい"を想いやる心を育むための闇と光はひとつ成るもの@調和クリエイター

SONOMAMA

#現実を変える方法

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