探求のゴールは、そのままでいいということ。

探求中の方がこのような題名のことを聞くと、
諦めた人がそう言ってるだけじゃないのか、そのままでいいってあなたがそうだったからってそれを真理のように言わないでと思うかもしれません。そうかもしれませんが、僕の考えを書いていこうと思います。

僕にとって探求の始まりは、
ここではないどこかに本当の自分があるんではないかという今ここの不足感から始まりました。

猛烈に勉強した後に、頭が良くなった先に。
スポーツを極め、勝ち上がっていった先に。
見栄えをよくして、周りから承認を得た先に。
セラピーをして、トラウマを取り除いた先に。
資本をなるたけ稼いで、安心した先に。
精神修行をした先人たちがしてきたヨーガや瞑想を極め知覚が変化した先に。
好きな人と結ばれ、結婚した先に。

こんなように先に本当の自分がいるって考えて、ありとあらゆるその時その時の自分が思いついた探求の先に答えがあると思って長らく生きてきました。先に答えがあるのだから、今の自分はえらく役不足で、その先でないと生きている意味がないなどと真剣に考えていた時期があります。

一つ一つその時その時の探求に向き合いました。血の滲むような努力をして、一つ一つ乗り越えてゆく。乗り越えた時に、一瞬の安堵感はあるのだけど、それも束の間、一つ乗り越えるとまた一つ探究が現れ、それを乗り越えるとまた一つ探求が現れ、乗り越えても乗り越えても次の探求が現れるだけでした。

形を変えて色々な探求が現れる。それを潰しては、また現れ。それを繰り返していくごとに、ほとほと疲れ果ててしまいました。俯瞰的に見れるようになって気づいたのですが、探求自体を好んでしているだけで、探求が目的になっていたこと。

では、なぜ探求をしてるのかってことを
改めて見返した時に、今の自分では役不足と考えていることが原因でした。その不足を形を変えて埋め合わせようとしていただけで、その不足感をどうにかしないとこの先も同じことが続くだけで、ずっときついままということがわかりました。苦しみから逃れるために探求しているのに、それでは元も子もないと。

その不足感をじっくりと見つめてみたときに、
そのままではいけないという考えがあるだけでそれを認めておしまいということに気がつきました。
そのままではいけないという観念を、そのままでいいという観念に切り替えたんです。

そのままでいけないっていう観念もOKなら、
そのままでいいっていう観念もOKだなって。
それまで探求に向き合ってきて、その先に何もないと気づけてやっと手放せたことだけど。

そうやって、自分を許せたときに
探求の先にあると思ってた安堵がドバーッと胸の中に広がって、今ここにいることが全てだって思えるようになったのです。何もしてなくて、心地がいい状態。


あのまま探求をどんどん形を変えて続けていても、ゴールには決して辿り着けなかったと思います。なぜなら探し求めないことがゴールだからです笑


僕の探求の終わりは、
そのままの自分を認めるということ。そして、そのままでいいということ。それで終わりました。もちろん、あらゆる探求をしたことがこの事に気づけた理由なので、必要な経験だったのだと思います。


探し求めることがなくなった今、自分が楽しいことや楽になることを自分自身にしてあげれるようになりました。

とても毎日が楽しいです。
楽しさや気楽さを選び始めたので、当たり前の結果ですね笑


今回は、探求のゴールは
そのままでいい。ということについて書いてみました。

ではでは〜。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?