どんな思考もあっていい、ずっと思考を排除しようとしてた話

幼少期、とくに思春期から思考がぐるぐる騒がしくて、
苦しくなることが多かった。

騒がしいというレベルではなく、現実が見れなくなるくらい思考に取り憑かれてしまっていた時期がある。完全に思考中毒で、思考の中で、生きていた。

楽しい思考ならいいんだけど、
苦しい思考ばかりで、とても大変だった。

思考だけの世界にいるわけにもいかないので、
思考を無視して、現実世界と向き合っていくのだけど、ことあるごとに思考の音が大音量で鳴り響き、何もできなくなることもたくさんあった。

そんなこともあり、
キツすぎて、親につれられ精神科に足を運んだが、
症状を話しても、原因不明といわれるか、統合失調症といわれる。

とりあえず、薬をだされるので、それを飲んだら、頭がぼーっとして考えられなくなるのだが、それと同時に体もふわふわ浮遊感があり、自分ではなくなる感じがして、辞めた。
もちろん、合っている人もいるので、薬を否定してるわけではなく、自分には合わなかったという話です。


どうにか、この思考を止められないか、無くなってくれないか、なにかいい方法はないかと、血眼に、いろんな本を呼んだり、いろんなネット上にある情報を集めた。

その中で、思考を止める
という項目に目が引かれて、思考を止める方法を試していくことになる。

止めるためには、他の物事に集中して、思考の隙間を与えない、みたいなようなことが書いてあったと思う。サマタ瞑想もその中の一つ。

とりあえず外の世界で集中できそうなものごとに焦点をあてて、ひたむきにそれに集中した。思考に気が逸れても、そこにまた焦点をあてて、またそれても戻すを繰り返した。

とにかくその時は、思考がなくなってくれと、
思考を排除することばかりを考えていた。

そのような方法を試していて、
集中できてる時はまだいいが、そうでないときにはひっきりなしに思考が現れてくる。
思考が消えない自分を憎んだりもしていた。

思考が消えるように、タバコをすったり、
お酒をのんだり、ここに書かないような刺激的なことを求めたり、いろんなことをしてきた。

集中できてたり、
その状態に酩酊できてる時は、いいのだけど、そうでないときには、また苦しい思考の嵐。
酩酊した分、反動も凄かった。

そんなことを、10年近くしてきた後にあることに気づいた。思考は、なくならないし、操作できないってこと。天気のようにあらゆる思考は出てきては、消えていくってことに。

いくら、排除しようと躍起になっても必ず現れてくる。ただ、あるもの。そんなことを身をもって、実感した。

そこから、思考を排除するという考えではなく、思考をそのままそこにいさせてあげる。消そうとしたり、気づかないふりしたり、操作をしたりしない。思考に入り込むんではなく、思考と距離をとって俯瞰するということができるようになってきた。

それができるようになったのは、
瞑想のおかげだった。無為の瞑想。

何か今の状況を変えたいがために、瞑想を長いことしてきたのだが、それも諦めただ瞑想をするということができるようになって、思考と距離がとれるようになった。

※詳しい、瞑想のことについては、別の記事で。

今だに、思考の轍はたくさん残っているため、巻き込まれて苦しくなることもあるが、前に比べたら驚くほど楽だ。

どんな思考もあっていい、それを掴んでとらえて、入り込むんではなく
ただ眺めることができるようになったからだ。

思考は悪者ではなくて、
本来は、自分を守るためのいいやつなのではないかと気づくようにもなった。

※この事についても別記事で。

今日は、どんな思考もあっていい、ずっと思考を排除しようとしてたについて書いてみました。

ではでは〜。

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