奇跡が常に起こっている

体の感覚を意識的に感じるをしていると、
思考とうまく距離を置くことができるようになってくる。思考と距離を置けるようになると身体感覚が呼び覚まされ生が躍動する。躍動するというよりも霧が晴れ元の感覚に戻るというほうがしっくりくるかも。
体の感覚は感じようとしなくても常に稼働している。肌感覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚。意識をしなくても感じれているこれらを思考から離れ(思考に向けていた意識を感覚に向ける)意識的に感じることによって生命の奇跡を目の当たりにする。意識の向ける先を変えることによって。


我々は当たり前に出来ていること、無意識にしていることに
価値を感じなくなる。
近ければ近いほどその存在の大きさを忘れてしまいがちな人間関係のような。

目が見えること、耳が聞こえること、味を感じられること、肌感覚があること、匂いがすること、呼吸ができること、歩けること、座れること。そういう当たり前にできることに目を向けることがほぼないのではないかと思う。慣れ親しんでいるもの、当たり前にできることの偉大さをすぐ忘れてしまう。できることできていることを忘れ、できないことに取り憑かれる。思考の機能が生み出す分断や不足感をベースにないものを探し、ないものに価値を見出し、ないものを得ることこそが大切なことだと錯覚し、苦しむようになる。
あるものよりないと思わされている虚像に飛びつく癖があるのだ。

今無意識にしてること、出来ていることに目を向ける、意識を向ける。思考の中で繰り広げられる虚構から距離を置いてみる。今無意識に感じられていることを意識的に感じてみる。その感覚を味わってゆく。深くその中に入っていく。そうしていくと奇跡が常に起こっていることに気づく。感覚を感じれるというなによりも偉大な奇跡に気づくことができるようになる。みんな元々知っていることなのだけど、そこに目を向けることをしない為忘れてしまっていたこと。そこに居座ると、すでに遍満している奇跡に浸かることができる。何もなくてもいい、何をしなくてもいい、すでに満ち足りていることに気づくから。奇跡は常に起こっている。


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