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東海道五十三次と飛脚。江戸の身体文化がすごかった・・・

神奈川県に住む人なら誰でも知っている「東の都」=東京に至る”電車線”


「”東海道”本線」


もともとは、”東海道”という交通路があって、その道に沿って作った電車線だから”東海道”線。

今回は、そんな昔の風情に思いを馳せながら、日本の西の都と、東の都をつなぐメインロードであり、まさに日本の文化交流の”大動脈”とも言える、この”東海道”について、さまざまな視点から見ていきましょう!


東海道五十三次の歴史


”東海道”


それは、今から1300年前・・・奈良時代にまでさかのぼります。

平安時代、江戸時代・・・と、長い歴史の間、日本の”東”と”西”をつなぎ、様々な物や人や情報や文化が交流する重要な”交通路”として機能していました。

いわば、日本の”メインロード”の一つです。

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”東海道”は古くから使われていましたが、呼び名自体は、江戸時代に徳川家康が、五街道を整備した時に名付けられたみたいです。

五街道の中でも、江戸に住む”徳川将軍”と、京都に住む”天皇”その二大権力のパイプラインとなった”東海道”はやっぱり特に重要視されていたみたいですね。

当時は、交通手段といえば、徒歩か馬のみ。


人が行き交う交通路では、当然、長い道のりを行く人や馬の旅路の疲れを癒すための宿場が必要となりました。


その東海道沿いにある53の宿場のことを、”東海道五十三次”といいます。

旅の道中、つい足を止めて、見入ってしまうような、美しい自然の景色や、この景色を大切な人と一緒に見たい・・・と、”あの人”に想いを馳せて、つい歌を詠んでしまうような、そんな素晴らしい景色。


それらは、いつの時代でも、さまざまな理由で旅をする旅人たちに「観光名所」として愛されました。


今でいう、疲れを癒す”パワースポット”みたいなものだが、パワースポットが目的で旅をする現代ほど、交通手段も便利でなかった時代では、さまざまな情緒を抱えて旅をし、ふと見るその風景になぜか時代を超えて、同じ景色を見た人にそっと想い起こされるようです・・・


そんな切ないような・・・

懐かしいような・・・

そんな想いを重ねていた・・・

かもしれないですね♪


東海道五十三次で紐解く広重、浮世絵の秘密

そして、そのような「観光名所」を、ポピュラーなアートとして、一躍世に広めたのが、歌川広重の”東海道五十三次”です。

藤澤

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平塚

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歌川広重は、江戸時代に流行った「浮世絵」の代表的な人物です。

浮世絵っていうのは、当時の流行りのものを描いていた、今でいうワンコインで買える雑誌のようなもの。


うどん1杯の値段で売られたこれらの木版画は、たちまち、庶民に受け入れられ、広まりました。

そのビッグウェーブに乗った一人が”世界のHIROSHIGE”というわけです。

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そう。

広重の活躍は、日本国内に止まらず、その当時のヨーロッパにまで及びます。

かの有名なフィンセントファンゴッホ

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ゴッホは、広重が書いた「浮世絵」を熱心に模写し、その表現技法を学ぼうとしていました。

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(上が広重のオリジナルで、下がゴッホの模写した油画)

(丸パクリやん。)

「でも、ゴッホくらいでしょ?こんなどハマりした人なんて・・・」

「それってゴッホが日本びいきだったからじゃないの??」


いやいや、とんでもない!

モネ、マネ、ドガ、ルノワール、ピサロ、ゴーギャン、ロートレック・・・

美術の教科書に載るような、名だたる巨人たちが、「Japanese UKIYOE」にめちゃくちゃ影響を受け、浮世絵に学ぶことによって、新たな絵画の可能性に目覚めていったんです。

彼らは「印象派」と呼ばれ、戦争画や宗教画、貴族の肖像画ばかりだった当時のヨーロッパの、サロン絵画の古臭いセンスに飽き飽きしていた若者たちでした。

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そんな閉じた暗いヨーロッパ芸術界隈に彗星のごとく現れたのが、極東の国「日本」の大衆芸術「浮世絵」です!

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庶民の日常をのびのびと描くその、自由な画風!明るい色彩!大胆な構図!に衝撃を受け、彼らは夢中になって飛びついた。

そしてゴッホのように浮世絵の技法を研究し、伝統絵画から脱却した新しい芸術を生み出そうと努力しました。

そうして誕生したのがいわゆる「印象派」だったんですね。

そう、「印象派」はまさしく日本の浮世絵が生み出したものとも言えるんです。


ここに日本人の知らない事実がある。

そして、日本人にこそ知ってほしい事実です。


よく「浮世絵は印象派に影響を与えた」といわれますが、正確にはそれは正しくありません。

影響を与えるもなにも、ヨーロッパには、浮世絵到来以前に「印象派」そのものが誕生していなかったのですから。


正しくは、「浮世絵は19世紀の若い画家たちに」影響を与え、その結果として「印象派が誕生した」んです。


だから、浮世絵は「印象派の生みの親」と言えるんですね。


日本人が印象派の絵画を好む傾向があるっていうのも、そりゃ当然のことでしょう。

うどん1杯の値段の版画が、世界の中心であったヨーロッパの芸術を、

根底から覆すような衝撃を与える。

これは、私たち日本人が知るべき事実の一つでしょう。

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江戸の時代に、一つの交通路の、宿場町を行き交う人々の生き生きとした姿、その情緒。

それを描いたジャパニーズデザイナー「浮世絵師」が世界に与えた、その影響を。

熱狂は全てのアトリエを、導火線を伝う炎にも似た速さで包みました。人々は構図の意外さ、形状の巧みさ、色調の豊かさ、彩やかな絵画効果の独創性とともに、それらの効果を得るために用いられた手段の単純なことを賞賛して飽きることを知りませんでした。

(エルネスト・シェノー/「パリのなかの日本」1878年)

これは当時のパリにおける日本芸術に対する熱狂ぶりを伝えたものです。

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19世紀後半のフランスはパリ万国博覧会。
浮世絵を中心とした日本の美術工芸品が大々的に紹介され、大変な日本ブームを巻き起こしました。

人々は争って日本の美術品を求め、やがて”浮世絵”や”伊万里”を持つことが上流階級のステータスとされるまでになったのです。


パリ万博をきっかけとして巻き起こった日本芸術熱は、もはやブームを超えた影響力を持ち始め、絵画だけに留まらず、工芸や建築、演劇、書物、ファッションなど多方面にまで及ぶようになりました・・・。

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はて・・・?

これは、偶然でしょうか??


ちょっと珍しい極東のエキゾチックな文化が、たまたま西洋にないもので、ウケた・・・

ただ単純にそれだけのことでしょうか・・・?


西洋人が見た江戸の姿”逝きし世の面影”

当時の欧米のエリートたちが、江戸時代の日本を訪れた際に受けた衝撃を記した手記があります。

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「これが恐らく人民の本当の幸福の姿というものだろう。私は時として、日本を開国して外国の影響を受けさせることが、果たしてこの人々の普遍的な幸福を増進する所以であるかどうか、疑わしくなる。私は質素と正直の黄金時代を、いずれの国におけるよりも多く日本において見出す。」

タウンゼント・ハリス
「もし我々西洋の女性が東洋の姉妹たちから、勇気ある謙遜、義務への忠実、比類なき無私を学ぶなら、

一体どんなに世の中を変えることができるだろう、、、

英国の歴史のどこを探しても、日本の妻たちが、しばしば主人の足下に捧げたような崇高で強い愛の例は全く見当たらない」

メアリ・フレイザー

絶賛とはこのことか!さすが褒め方がうまいですねー、教養のある人は。


こうした手記は、実は多く残されています。

これも日本人が知らない事実の一つです。


しかも、これは、欧米の庶民が書いた手記ではありません。当時の欧米の最高のエリートが書いたもの。エリートっていうのは、歴史や文化、教養に最も精通しているとされる人々です。

そんな人たちが、江戸時代の日本をこんな風に絶賛している。


これは、一杯のうどんの値段の、雑誌のような版画が、世界に影響を与えるほどのポテンシャルを持っていたことと、繋がってはこないでしょうか・・・?


つまり、日本が世界に発見され、世界にもてはやされたあの空前の日本ブームは、ただのブームではなかった・・・

社会システム、庶民の暮らし、文化において、西洋が本当に羨むような、美しい国の存在を示していたのではないか?


「黄金の国ジパング」は、”金”が大量に埋蔵されている国という意味だけではなく、黄金の輝きを放つような、人々の振る舞い、姿勢、生き様を見た、西洋人の比喩だったのではないか?

とも想像できます。


彼ら西洋人は、日本のエリート(サムライ)だけを見て絶賛したのではない。美しい景観だけに感心したのではない。

大衆絵画や、大衆の姿、振る舞いを見て、ショックを受けたんです。

その子供たちの自由なふるまい、女たちの屈託のない素振りと姿、日用雑器やおもちゃや土産物の細工のすばらしさに多くの外国人が目を見張りました。


「袖触れ合うも他生の縁」という言葉がありますが、どんな小さな縁でも、大切に、尊く接する、その闊達な姿こそ、直接会っていても、スマホを通して会話する風景が当たり前になった現代の我々が、失ってしまった、そして、本当は最も望んでいる風景の一つではないでしょうか?


東海道五十三次を通る、人々にも、そういう空気感があったのだろう、と想像できます。

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「や!こんちは!どっからきたんですか?」

「私は京都の方から」

「いや〜遠くからごくろうさまです!」

「孫に会いたい一心でね〜」

「うんうん」

「そちらさんは?」

「いや僕はもうすぐそこです、平塚っすよ。”これ”っす、”これ”!」

「あ〜女かー!わっはっは!!若うてええのう!わしも若い頃は・・・」

なんつって、そのまま茶屋で3時間話し込んだりしてね。


そんな「一期一会」を愉しむ”粋さ”が、江戸の風情です。

では、江戸の時代の浮世絵や、当時の文化から垣間見える、その豊かな情緒や感性は、どこから生まれてきたのでしょうか?

その秘密は・・・江戸の”身体文化”にこそあります!


江戸の”身体文化”や”飛脚”について紹介していこうと思うけど・・・

長くなるので今日はこの辺で。

続きが気になる方はコチラでお楽しみください♪
          ↓↓↓

👆この先では、

・東海道五十三次を走り抜けた「飛脚」
・飛脚とは?飛脚の歴史
・飛脚1日の走行距離
・飛脚の速さの秘密は走り方にあった!?
ナンバ走りの足裏球体感
薬指、小指で荷物を持っていた!?
・江戸の身体文化「下腹重心」

をご紹介しています!是非お楽しみください!!

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当局はこのワード解説文書、コードネーム【青春エイリアンズ辞書】を読み解ける有志を募るため、これらの文書を公開、引き続き調査を続けるものとする。