羅漢拳  外伝

第一回
はじめ
 いつの世でも身体の健康を保つことが貧富の違いもなく人間にとっての最大の関心事かも知れない。いつまでも健康な肉体と老いることのない体力を持てたらと人は夢を持つ。
その行き着く先は不老不死ということになるだろう。だから天下を統一した秦の始皇帝は詐欺師に騙されて黄金、玉を貢いだ。詐欺師の方は不老不死の妙薬を探しにいくといって海を隔てた東の島国にとんずらした。詐欺師の行き着いた先は顔に入れ墨をいれて相手を威嚇しよう、もしくは病気にかからないようにしようという迷信に凝り固まったとんだ未開の地。
始皇帝のほうは一国の富を全て握って巨大な宮殿や巨大な墓をおったてて剣ややりで民衆を脅かして国民が隠し持った金は全て自分の宝蔵にかき集められるだろうから、ちゃちな詐欺師に騙されて宝の一部を盗まれたくらいでは屁とも思わないだろうが、絶対的な権力を自分一人で握っていた絶対君主でもやはり長生きをしたい、不死の命を願うのは一介の市井人と変わらないとみえる。
呪術、まじないから出発して神や呪いを卒業した人間は体系的実践的現実的な人間の身体に関する処方を確立し始めた。それが医術である。しかし医術の進歩のかげには華岡青州や解体新書を著した前野良沢、緒方洪庵の例をださないまでもいろいろなドラマがあったことだろう。
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ふたりの王女
「お姉さん、シュサが通るわよ。」
「どれどれ、ちょっと頭を下げてよ。」
姉らしい女性は妹らしい女性の頭の上から外の景色を見下ろした。外にはこの邑一番の美しいまだ十七になったばかりの若者シュサが木製の鍬をかついで通り過ぎた。その姿を見た二人は胸をときめかせた。二人が若者を見下ろしたと書いたのは二人が校倉造りの地上より三メートルも高い位置から下の様子を見下ろしていたからである。この二人は姉妹と言っても姿かたちはうり二つの双子だった。この校倉造りの建物は杉を製材して造られた神殿であり、この二人の姉妹が降霊をおこなう御子ということになる。しかし二人はまだ十六才のうら若い乙女だった。ここは王宮であり、この国の中心だった。この王宮を含めた政治的経済的な共同体は国と呼ばれ、国はさらに細分化された邑より成り立っていた。この宮殿はこの校倉造りの神殿を中心にして三百メートルの円形の敷地のなかに二十数個の家屋がある。神殿は杉を黒曜石を砕いて作った石器で製材して作ったものだったが他の住まいはすり鉢を伏せた形をしており、その屋根は太い竹を骨組みにして骨組みの間には茅を詰めている。藁葺き屋根だった。その家屋の形は屋根の部分しかない蓑虫の住んでいるテントのようなものに見える。そして家のなかには土間に直接囲炉裏が切ってある。それらの家屋が二十数個、この区画内に集まっている。それはこの宮殿を守る兵士の住居となっている。それより小規模な邑がこの地方に十数個ある。そこでは畑や田圃があって農作物の生産がなされている。これらの邑々は政治的経済的に連結していてその邑同士の共同体は国と呼ばれその中心はこの宮殿であり、そして全ての中心はこの神殿であり、そこに住むこの双子の女王を中心にしていた。政治的にはこの二人の娘がシャーマンとして神の託宣をこの国の住民に伝えるのである。それはしばしばこの国の天変を言い当てた。そしてこの姉妹の下に軍事経済的実務をあつかう長がいる。しかし女にしか降霊現象がおきないのか、この姉妹の前はこの神殿には一人の女王が住んで託宣を住民に与えていた。その女王も二代前に死んだ。この二人はこの女王の近い親戚に当たっている。前の女王と同様にこの二人はこの国に神懸かりの託宣を与えていた。したがってこの二人は女の子であると同時に神なのであった。二人とも邑人と接することは禁じられている。身が汚れて神力が失せるからだ。しかし乙女ともなると異性に関心をもちはじめるのは当然でこの二人はこの国一番の美しい若者であるシュサにこころ惹かれている。そのためにその若者が眼下を通り過ぎたのでこころときめかせた。姉のほうの名前はウナ姫、妹のほうの名前はウサ姫と言った。二人の違っているところと言えば外見的にはほとんどない。しかし性格は微妙に違っている。そしてもう一つの違いと言えば姉のほうが鹿を飼っているところだろうか。


第二回
龍神の山
「あんた今年は鮭の大漁で良かったね。」
「ああ、こんなことはそうたびたびあるもんじゃなかっぺ」
藁葺き屋根のたて穴住居の中で囲炉裏の炎に今とってきたばかりの鮭を炙りながらこの夫婦が満面に笑みを浮かべた。鮭の焼ける油が囲炉裏の中に落ちてじゅうっと音を立てた。
「これも皆、ウナ姫様、ウサ姫様のお陰じゃ。あのお二人をとおして語られる神様のお告げを聞いておけば間違いないんじゃ。ほらこうやって鮭も大量なんじゃ。」
畑で栽培される作物の種を蒔く時、刈り入れるとき、この国のものはみなウナ姫、ウサ姫の託宣にしたがって行動していた。それでいつも豊作が続いていた。そのうえ今年はとくに入り江のそばにある火山の小規模な噴火まで言い当ててそれに備えて大きな土木工事までしたので海の入り江にうまい具合に溶岩が流れ込んで海流の動きが一部切り取られて魚が入り江の中を回流するようになり、海辺近くで魚が多くとれるようになっていた。この国のものみんなが大きな石を数え切れないくらいたくさん入り江に運ぶ大変な事業だったが邑人はその恩恵をあり有り余るほど預かったので二人の女王の託宣をありがたがった。この二人がたき火に当たりながら焼けたばかりの鮭を食らっていると自然発酵させた山葡萄の酒をしこたま食らって顔を真っ赤にさせた髭面の身なりに全く頓着しない男が顔をだした。その足下はこの男の精神状態のようにふらついている。
「随分うまいものを喰っていやがるな。」
「おう、オロか。お前もこっちに入って鮭でも喰えや。なんだそんなに酔っぱらって。お前、また酒を飲んでいるのか。」
「ふん、余計な説教は真っ平ご免だ。入り口のところで聞いていたが、なんだウナ姫、ウサ姫様のほめ言葉ばっかり、あの二人が神様の代わりにおらたちに語りかけるというならなんで俺の息子を病で殺してしまったんじゃ。神様ならおらの息子の病気を直してくれてもいいじゃねぇか。」
そう言いながら男は臭いげっぷをはいた。
「またお前なにを罰当たりなことを言ってるんじゃ。そんなことよりこっちへ来て火に当たれ、喰いもんもあるでよ。」
男はたて穴式住居の入り口のところにもたれかかってうつろな目で二人を見た。
「そんなもの喰ったって俺の気が晴れるもんか。」
「お前の気持ちもわからんでねぇ。そんだったら龍神の山へ行くか。」
少し醒めた調子で酔っぱらった男を上目遣いで見た。
そう言われると酔っぱらっていた男は急に黙ってしまった。二人の姫の自然災害に関する託宣ははずれることがなかった。そしてこの国に大きな利益を与えた。この点で民衆はこの二人の女王を神としてあがめた。しかしこの二人も邑人の病気やけがに関しては何もなすすべがなかった。ただ慣例として黄泉の国での復活を願って死者を大きな甕棺に入れて埋葬することしかできなかった。そうすれば死者は黄泉の国に行く事ができて亡霊となってこの国をさまよう事がなくなると考えられていたからだ。黄泉の国へ無事旅立たせるほか死者が現世に復活する方法はないという事をこの時代の人間たちも知っていた。しかしこの夫婦が龍神の山と言ったのは理由があった。と同時に龍神の山と聞いて男が怖れて口をつぐんだ事にも意味があった。この国には龍神の山と呼ばれる七日がかりで行き着く深山幽谷があり、そこにいくまでにいくつもの難関があり、怪物に出会い、その怪物につかまると死ぬ事もできず生きたまま怪物に食われ続けるという恐ろしい言い伝えがあった。しかしそこを越えていくと唐土からやって来た仙人が住んでいてどんな病気も直し、死者さえも生き返らすという伝説があった。それはもちろん伝説であり確かめようがなかったがみんながなかばその伝説を信じていた。しかし多くの怪物の噂によってそこへ行こうとする者はいなかった。それよりももっと現実的な問題として他の小国との境界が入り組んでいて他の国の兵士に見つかると奴隷にされる懼れがあった。またこの国自身にも不安定要因はあった。この国は三代前のこの国の建国者である王の名前をとってオロ国と呼ばれていたが二人の王または女王が支配した時代はなかった。民は口にこそださなかったが内心では二人の女王を別々なものと考えてどちらかを支持していた。また不吉な噂をながすものもいてそれは何の根拠もない迷信だったが二人の女王がいることはこの国に不吉な災厄をもたらすと唐土からの最新の知識を我田引水に解釈して民に不安な空気を流すものもいた。そして現実問題としてこの不安要因を拡大する事件も最近起こった。この国の実務はウナ姫、ウサ姫の下についている大臣のオトという男が取り仕切っていた。前の王が死んだときそのおいのアマという男が後をつぐと目されていたが結局ウナ姫とウサ姫がこの国を治める事になったのだ。前の前の女王の遠い親戚にオトは当たっていたが本来はあまり高い家柄の人間ではなかった。それに比べるとアマは前の前の女王とも前の国王とも血のつながりは深かった。この国には王族の墓と呼ばれる特殊な場所があってその場所の周囲は美しく磨き上げられた御影石で囲まれていて王族に非常に近い人物しか葬られない事になっていた。しかしオトの母親が死んだとき慣例にあがなってオトの母親の死体をそこに埋葬したのである。そこでオトを擁護するもの、オトに反対するものの二派が対立した。反対している派の背後にはアマがいるといわれていた。ある日その墓があばかれ死者が生き返ったという噂が立った。その生き返った死者は亡霊として家畜を一匹、のどをさいて殺し、たて穴式住居の一つが放火され、そのとき誰かが逃げ出して行った。後を追って行った村人はその人物が、生き返ったオトの母親だと信じていたのだが海岸まで追いつめ海岸の断崖から飛び降りてそこで不審な人物は死亡した。顔を確認すると流れ者のように生きているサカという男だった。サカについてはいろいろな事が言われそのに前の日に酒をたらふく飲んで酔いつぶれていたとか、とても食べられないようなおいしいごちそうを食べたと自慢していたとか、いろいろな噂が立ったが真相は分からず仕舞いだった。
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漂着者
 「あっ、あれは誰だ。誰か人がいるよ。」
海辺に海草とりに来ていた漁師の息子ヒノトが叫んだ。遙かに見渡すことのできる青い空、その下にはやはり青い海が波を浜辺に返している。その浜辺の砂の上にあきらかにこの国の者ではない男が打ち上げられている。そばに行くとまだ呼吸がある。ヒノトはこの国でウナ姫ウサ姫のしたで民に彼女らの声を伝えたり軍事行政を取り仕切っているオトのところへ運んだ。漂流者は大陸の新しい知識や農業技術を伝えるのでオトは漂流者を珍重した。その漂流者は三日目を過ぎるころから元気になりだした。身振り手振りで話してみると土木技術者で低いところから高いところに水をくみあげる新しい技術を持っていた。オトは早速その水を汲む機械をその漂流者に作るように命令した。そしてその男は器用にその機械を使った。オトは二人の女王に謁見させようとしたが姉のウナ姫のほうは会おうとしなかった。好奇心の強い妹のウサ姫のほうはそういうことには積極的だった。ウサ姫はこの漂流者が気に入って家族をもつように勧めて一人の女を紹介した。オトはその様子を見て満足した。双子と言ってもその性格は微妙に違っていた。そしてオトは妹のウサ姫のほうが好きだった。できればウナ姫がいなくなってウサ姫一人が神の託宣を伝えるようになれば自分にとって、もっと都合がいいと思っていた。しかしウナ姫もウサ姫もそんなオトの魂胆を気にかけてはいなかった。ウサ姫は好意からこの漂流者に家庭を持つことをすすめたのだがそれが間違いの始まりだった。この漂流者が今でいう伝染病の保菌者だったのである。その男は伝染病の潜伏期間を過ぎて発病して死んだ。そして伝染病はこの国に広まり何人もの邑人が倒れた。ウサ姫とオトの評判は一気に下落した。
 「ウサ、あなたが悩むことはないわ。この病はきっとこの邑から立ち去るでしょう。」
この二人を別々に担ごうとする者たちはいたがこの双子の間は信頼で結ばれていた。 
「私達は神の声を聞いて嵐や大雨、地震、火山の噴火までわかるのに何故、人の病気や怪我を直せないのでしょう。」
「本当に、」
ウナ姫がそう言う心には真実の響きがあった。何故ならこの伝染病は人間だけではなく動物にもうつるのだった。そのためウナ姫の飼っている子鹿も元気がなくなっていて、ここ二、三日餌も食べようとしなかった。そしてときどき悲しそうな声でなく子鹿の声が今夜は聞こえないのだ。
「お姉さん、子鹿の声が聞こえないけどどうしたのかしら。」
「そう言えば子鹿の鳴き声がしないわね。」
ウナ姫は高殿から下に降りて行った。普段は一人で勝手に下に降りることなど禁じられているのだ。しかし今のウナ姫にはそれどころではなかった。自分の可愛がっている子鹿の鳴き声がしないのだ。ウナ姫が下に降りていくと藪のなかで彼女が飼っている子鹿の弱々しい眼が闇夜に光っている。そして子鹿はよろよろと歩きだした。ウサ姫が追いすがる手を振り払うようにして子鹿は歩き出した。ウナ姫は自分の飼っている子鹿のあとを追って暗い森のなかに入って行った。いつもなら闇夜のなかで動物のあとなど追っていけるものではないのだが子鹿も病気でよろよろしてやっとの思いで歩いているのでそのあとを追うこともできる。二、三時間歩いただろうか。そこまで歩いて来てウナ姫はそこが忌む場所だということに気が付いた。そこに行くと身が汚れ邑に不吉なことが生じるという言い伝えが生きていた。だから邑の者でここに来たことのあるものはいない。しかしウナ姫の未開人の恐怖をうち越える光景がそこにはあった。うっすらとした湯煙のなか月明かりを背景として子鹿が月光の中に暗く浮かび上がる姿があった。子鹿は岩場の上に立つと鳴き声をたてることもなくその姿はゆるゆると消えていった。ウナ姫は何故その子鹿が消えたかわからなかったがその場所に近づいていくとそのわけが分かった。子鹿が月光の中に立っていた大岩の向こうは斜面になっているのだ。その斜面の向こうに子鹿の姿はあった。湯気の中から子鹿は首だけだしてウナ姫の方を見つめた。そして首をお湯のなかに入れてそれを飲んでいた。そこは動物だけが知っている温泉だった。温泉の表面には緑色のお湯がたたえられていて夜でも沸き立つ湯気が見える。人間は知らなくても動物はここに来て病を治していたのである。ウナ姫は躊躇することはなく首や手首に巻かれためのうや水晶でできたくが玉をはずすとそれを岩の上においた。それから衣服をするりと脱ぐと何も身にまとわない生まれたままの姿になって岩場の上に立った。子鹿のときのように白い裸身が月の光に照らされて輝いていた。彼女は何も知らなかったがその様子を無言で見ている人影があった。そして漂流者が運んできた伝染病はウナ姫が見つけてきた温泉を飲ませることでなくなった。ウナ姫への民の信仰はいやがうえにも高まっていった。
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(小見出し)陰謀
「これでウナ姫をかつぎあげてその下でこの国を思うように動かす機会がやってきましたな。」
「何を言っているのか。コサよ。」
「アマ様お隠しになっても困ります。」
このアマという男は双子の女王が現れる前は前の国王の近い親戚でうまくいけばこの国の実権を握るはずだった。コサというのは素性のはっきりしない男で隣りの国の奴隷だったと自分では言っている。誰も知らない間にこの国に逃げ込んで来た人間だった。まるで帰化人のようにいろいろなことを知っているのでアマはこのコサを自分の家来のようにしていた。
「ウナ姫とオトは仲が悪いそうじゃないですか。ウナ姫をこっちに誘いこんでオトとウサ姫を亡き者にするのです。」
「でもどうやって。二人とも神の託宣を述べる女王だぞ。」
「たとえ女王だと言ってもこの国では女王でも従わなければならない決まりがあるではないですか。例のあれですよ。女王は男と契りを結んでは行けないと言う、もしそうしたなら女王といえども殺されなければならないという。そうしなければこの国には大きな災いがやって来るという。」
ここでコサはアマを見てにやりと笑った。
「もちろんそれまでにウナ姫とオトの間に溝を作ってお互いにいがみ合ったようにしておかなければならないのはもちろんですが問題なのはウナ姫とウサ姫のあいだです。なんとか二人を引き離してお互いに誤解を生むようにしなければなりません。これにはうまい方法があります。アマ様もご存知のようにわが国はいくつもの邑が分散しています。それで一つの邑に騒ぎを起こさせるのです。一つの場所に二人の女王を釘付けにしていてはこの国が治まらないと思わせるのです。それでオトは当然自分が嫌いなほうのウナ姫を外の邑へ行かせその邑を治させようとするでしょう。これでウナ姫とオトの間の溝はさらに深まることでしょう。」
「コサよ、それでは何も決定的とはならないではないか。」
「アマ様、話はこれからでございます。二人の女王の一番の関心事はなんであるかご存知ですか。」
「なんだ。」
ここでコサはまたいやらしく笑った。
「この国一番の美しい若者シュサでございますよ。ウナ姫のほうはシュサが会いに行き、契りを結ぼうとする。もちろんそうなるようにアマ様が手はずを整えるのでございますよ。しかしウナ姫の性格をアマ様もご存知だと思いますが何でこんなことをするとシュサに詰問するに違いありません。そうしたらシュサが涙ながらに答えるのです。親を人質にとられてウナ姫様を罠におとしいれるようにオト様から命令されたと。これでウナ姫とオトとの間は完全にぷっつりと切れるでしょう。ウサ姫のほうはもっと簡単です。シュサがウサ姫様を誘ってオトの家で契りを結ばせれば良いのです。そのときその場所に邑のおもだった者をいさせるのです。ウサ姫は男と契ったこと、オトはそれを見つけられなかったことにより、とらえて殺してしまえばあとはこの国はアマ様の思いのままでございますよ。」
「コサ、しかしシュサがそんなにうまくやるだろうか。そもそもシュサがわれわれの言うことを聞くなんていうのは確かなのか。」
「シュサならここにいますよ。」
そう言ってコサは後ろを指さした。するとコサの後ろにはシュサの死体が転がっていた。
これにはアマもびっくりとした。
「コサ、なんてことをするのだ。これではお前の計画は台無しではないか。」
「アマ様、ご心配なく。」
そう言うとコサは両手を猫のように拳を固めて顔をぬぐった。すると何と言うことだろう。コサの顔はこの国一番の美男のシュサの顔に変わっていた。それから口をつぐんでもぐもぐと空気を身体の中に吹き込むとコサの身体はやはりシュサのようになった。
「コサ、お前は一体、お前は一体・・・」
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 藁葺き屋根造りの名人ホロの息子ホノはお気に入りの山葡萄の蔓の下へ遊びに行ったするといつものおじさんがそこに待っていた。「おじさん、今日も変わった食べ物くれる。」
「ああ、やるよ。やるよ。」
そのおじさんはいつも変わった食べ物をホノにあげた。それを食べると二、三日眠らなくても平気だったり、いつもよりよく目が見えて貴重なきくらげが見付けられたりするのだった。しかし今日はおじさんの方から条件を出して来た。
「アマの家にいるコサのことを教えてくれるかい。」
「うん、いいよ。」
ホノはこの変わったおじさんにコサのことを詳しく教えた。もちろん知っている範囲ではあったが。この変なおじさんはウナ姫が子鹿を追って温泉に入って行ったときも物影から見ていた人物だった。
 そして話は飛ぶが物事はほぼアマの思うようになった。つまりウナ姫とオトの間はすつかりと乖離してウサ姫はシュサと契りを結んだというぬれぎぬを着せられた。ウサ姫とオトは捕らえられた。しかしウナ姫とウサ姫はうり二つの双子であるということを利用しウサ姫とウナ姫は入れ替わった。それからウサ姫を逃そうとしたウナ姫は間違って番兵に切られ大けがをして瀕死の重傷を負った。その犠牲によりウサ姫は逃げることができたが今度は他国の兵士に追われる身となったのである。
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第三回
古代の国
「おい、どっちに行った。」
「こっちだろう。」
二人の兵士は息を切らせながら木の葉の敷き詰められた森の中を違う言葉を話す異国の巨人のような巨木の間を女を捜して歩き回った。その巨木の間の地面に敷き詰められた木の葉はみんなこの森の中の木々が空中に広げたその枝から落とした葉である。空を遮る枝が太陽の光を地上まで届かせないから地面には湿り気がある。そしてその落ちた葉が地面の下の方になればなるほど腐って色が変わり柔らかくなって地面の栄養分となり、またそれを落とした木それ自身の栄養となり、また他の植物の栄養となる。巨木の地上に広げた根の上についている苔もそれで生きていけるのだ。この森の中の住民はこの背の高い立ち木たちである。土の上の葉は地面が固いベッドの土台だとすれば木の葉は腐って柔らかなマットレスのようになっていた。その下には肉眼では見えないような微生物がいたり、みみずや昆虫がいたりするのだろう。そこは人間がよそ者であり、木霊の世界である。そこで人の目には見えない生命活動が行われているのだ。また杉の木の下などは風通しが良かったりして杉の葉が腐らずにそのまま積もっている。だから古代人の裸足に近い状態でもむやみに足の裏をけがするという事もなかった。そして森の向こうにはなだらかな稜線を見せている山がいくつもまるで仲の良い幼い兄弟のように肩を組んで重なっている。鳥が飛び立って森の上から外の景色を見れば緑色に塗られた羊の身体のようなその姿を見る事ができるだろう。またまるで大きなおわんの形をした表面がビロードに覆われた半球状の巨大なものがいくつも並んで座っているように見えるだろう。しかし木々に囲まれた森の中にいる兵士にはその山々の姿も見えなし、空中から見たらそれらが幼い兄弟のようだという印象も持つこともできないだろう。彼らの見えるのは昼なお暗い森の中に生えている太い幹の木々たちとその下草、まるで巨大な怪鳥の足のように地面を踏ん張っている根、地面から生えだし木々に絡まって上へ上へ行こうとしているような蔓草だ。太いまるで毛むくじゃらな表面を持つ太い大木はそれを男性にたとえるなら蔓草の方は女性のようにも見える。しかし彼らの頭の中には今追っている女のことしか頭にない。その女を逃がしてしまったら自分たちが王にどんなとがめを負うかもしれないのだ。そしてこの二人の兵士はこの森の中をやりを持って女を探して徘徊している。一人はやせた兵士でもう一人は太った兵士だった。兵士と言っても普段は農業をやっている。それがこの国の大臣の命令で女を追う事になった。たまたまその場に居合わせたという消極的な理由からだった。貫頭衣を着た兵士たちの頭上には空を覆う木の葉の間から太陽の光がときどき見え隠れする。その貫頭衣も冬は動物を殺してその毛皮をなめして作った服なのだが今は初夏なので繊維質の強い植物をいくつか取り混ぜてお湯で煮て繊維だけを取り出し、その繊維を混合して太い糸を作って織り上げられた布製のものである。その一枚の布の中央、頭が通るぐらいの穴を開けてそこに頭を通して切るメキシコのポンチョのようなものだった。二人の兵士の手には適当な長さに切って表面を磨き上げたいちいの木の棒のさきに石を砕いて作ったやじりが革ひもで結わえ付けてある。石を砕いて作られただけのやじりであるが鋭利な切り口ができていて思いのほか何でも切れるのだった。今は動物や人をそれで刺し殺すという本来の目的ではなくやじりの反対側の棒だけの部分を使って歩くための杖としてあるいは下草をどける用途で使っている。
「あれが本当にとなりの国の女王なのか。」
やせている方の兵士が息を切らせている太った方の兵士に聞いた。
「ああ、確かだ。大臣も言っていただろう。あの女は女王だけが身につける事ができるくが玉を首につけていた。」
不思議な話だが全く違った国同士なのにその時代はどの国でも女王や国王の装身具はほぼ同じだった。これは実際には距離的に離れていて違った国と見られる複数の国が実際は何らかの交流があったのか、もしくは種として同じ人間の考える事はどこかで同じものになると言うことが言えるのかどちらとも言えないが。
「そう言えば身なりは俺たちと大して変わっていなかったが首からは緑色に輝く宝石をつけていた。あれがくが玉か、王様があれと同じものをつけていたのを見た事がある。それにあの顔立ちは王族特有の気品がある。それに大臣があれが隣の国の王女だと言うのだから間違いはないだろう。」
「でも何でとなりの国の王女がうちの国の中に入って来ているのだ。もしかしたら隣の国の跡目争いがあって逃げて来たのかも知れない。いくら王女だと言っても国を追われてしまえば俺たちと同じ雑草のような身だな。」
「そんな事はどうでもいいさ。あの女を捕まえなかったら俺たちは大臣に生き埋めにされるぞ。あの大臣だったらそんな事はあたり前だ。」
そのとき少し離れたところの草むらががさごそと音をたてた。その木の葉の間からひきっった顔の女の瞳がこちらを見ている。身も心も疲れ切っているようだがそれでも彼女は美しかった。顔は少し土と汗でよごれて黒くなっていたがその分、目だけがらんらんと輝いてちらりとこちらを見た。
「おっ、あそこだ。」
「おい、待て。」
二人の兵士はウサ姫の姿を見つけてて叫んだ。
太った兵士とやせた兵士は昼なお薄暗い森の中を木の葉を踏んで小さな藪をかき分けて小走りに歩を進めた。女が消えて居なくなるという事はあり得ないだろう、女は相当に疲れているはずだ。女も木々の太い幹の間から見えた二人が追って来るのを見て森の中を駆けだした。女は今は国を追われて逃げているウサ姫だった。まんまとアマの計略にかかりシュサと交わったという疑いをかけられて殺されそうになったウサ姫はウナ姫の機転によってオトともども逃がされた。しかし隣の国の中を歩いているときに兵士をつれた他国の大臣に見付かって追われているのである。ウサ姫はここいらの地理を全く知らない。自分の国にいてもその中を歩いた事がないのだから他国の地理についてはなおさらの事だった。木の葉を踏みしめ地上に張った大木の根をまたいで逃げるつもりがだんだん高い方に歩いて行くように感ずる。その地面は少しずつ傾斜になっていて上に続いているようだった。大木と地面の接点が斜めになっているからだ。大木の間には角張った岩が地中から顔を出して森の中の湿り気のために濃い緑色をしてぬらぬらと輝いている。その岩はたぶん何千年も前からそこに顔を出しているのだろう。岩には心がないはずだからこの逃走劇を見ていても何も感じていないのに違いがない。大木の間にはところどころに巨大な岩が地面から顔を出していて芝居に出て来る役者のようでもあった。しかしその役者は動きもしなければ話しもしない。この森の中に山の神のような住人がいれば大木の間をちょこちょこと尋ね歩いてこのことの噂話をするかも知れない。そしてその山の神の身分をもっと低いものと仮定すれば木霊と呼んだ方が良いかも知れない。とにもかくにもこの森の歴史からすればこの逃走劇は無に等しいものだった。
アマの策略により宮殿のある邑から歩いて半日かかる邑に多くの兵士たちと供にウサ姫はその邑を治めるために行った、それはオトの考えだった。そもそもの発端はその邑に騒動が起こり、二人の女王の威光を示すために姉のウサ姫が行かなければならなかった。それはオトを陥れようとするアマの策略だった。ウサ姫がその邑に遣わされたときウナ姫は自分の生まれ育った宮殿に残された。邑に料理の達人と呼ばれる人間がいてウサ姫を祝ってごちそうが料理された。ウサ姫にはこの国のおもだった有力者も同行していた。祝いの席でそのごちそうを食べてすぐに眠くなった。気が付くと大きなベッドに寝かせられていて隣にはシュサがまだ寝ていた。何故ウサ姫が目を覚ましたかと言えば急に扉が開けられたからで開けられた扉の向こうにはこの国の有力者が並んで立っていた。ウサ姫はすぐに捕らえられ邑のはずれの小屋につながれの身となった。この国の法律では神の託宣をあずかる人間が異性と交わる事は死に値する重罪だった。それはたとえ女王だとしても許されなかった。むしろ神の声を人々に伝える特別な存在だからかえってその事は許されなかったという意味合いもある。そしてウナ姫でもウサ姫を救う事はできなかった。そのことに関してたよりになるオトも同様の罪を問われたからである。そしてあらたな女王むかえてアマがあらたに権力を手中につかもうとしていた。しかし外見的にはウナ姫とウサ姫は瓜二つである、その事を二人は利用して番兵をだましてウサ姫は逃げ出した。そのとき彼女を逃がしたウナ姫は番兵に刀で切られて大けがをおった。捕らえられたときウナ姫とも話したのだがウナ姫も同じようにシュサに誘惑された。そしてオトも捕らえられそうにになり、国の外に逃れた。これらの事はみんな誰かの差し金で行われているのであり、それはアマの仕業だという結論に落ち着いた。アマがこの国を支配するためにこんな事を企てたのだ。しかし今はオトも国外に逃れている。ウサ姫は全くどうしていいのかわからなかった。そしてこうして他国の兵士に捕まってしまうのかとウサ姫は思った。木々の間から見え隠れする追っ手の兵士たちの姿がしだいに大きくなっている。ウサ姫は前方を見ると木に囲まれて薄暗くなっているはずが少し明るい。さるすべりの木がまばらに生えていてその間をつる草が結んでいる。その向こうはこの森の中よりも明るかったがそれが何故なのかはわからなかった。とにかく追っ手が後ろに迫っているここから逃げなければならない。ウサ姫はそこまで行ってみて驚いた。そこは崖になっていて下の方には大きな川が流れている。他国の人間はその川を懼れて近づこうとしないという事を聞いたことがある。崖のはじのところには蔓草がはえていてそれで崖がくずれないようになっているのだということがわかった。眼下には清冽な流れがある。川の深さは相当ありそうだ。川の表面にはエメラルド色の水が流れている。崖の下の方を見ると断崖絶壁というわけではなくところどころに盆栽のようなこぶが出来ていてねじくれ曲がった松がそこから生えている。そのたんこぶのようなところに小鳥の巣がかかっていてもおかしくないだろう。もしかしたら中華料理で使うつばめの巣というものもこんな崖で採取されているのかも知れない。ここから飛び込めばうまくいけばそれらの松の木に引っかかる事もなくエメラルト色の川の中に入ることができて彼らから逃れることができるかも知れない。しかし相当な高さである。川にうちつけられるときのショックで気を失ってそのままおぼれ死んでしまうかも知れない。ウサ姫は自分の運命を神に任せた。ウサ姫は思い切ってその川に飛び込んだ。
「おい、やめろ。」
「そこに飛び込むな。そこにはおそろしい水やもりが住んでいるんだぞ。」
二人の兵士の声もウサ姫には聞こえなかった。ウサ姫は十メートル下の川の中へ飛び込んだ。大きなエメラルド色の水しぶきを立ててウサ姫の姿は川の中に消えた。二人の兵士はおそるおそる崖のへりのところまで行って川の中を見た。そして二人の兵士はお互いに顔を見合わせた。川の奥の方は見えない。そこでやせた方の兵士が意を決して川の中をのぞき込むことにした。
「おい、やめろよ。危ない。」
「お前は臆病だな。あの女が死んでしまったか確認しないと王様に生き埋めにされちゃうんだぞ。」
やせた兵士は崖の端のところに生えている蔓草のかたまりのあいだから出ているさるすべりの木の幹を片手でしっかりと握ると川の中をのぞき込んだ。崖の側面のところにはサボテンみたいな出っ張りがところどころに出来ていてそこから松の木が生えている。上から見るとその松の木が龍の胴体のように見える。その龍が崖からここに登ろうとしているようだった。その龍はこのエメラルド色をした川の中から生まれ出ているのだが。二人の兵士は崖のはじのところにウナ姫が立っていてその姿が急に消えたのを見たのに過ぎなかった。
「おい、大丈夫か。」
太った方兵士は崖の出っ張りのところで身を乗り出して川の中を見ているやせた方の兵士におそるおそる声をかけた。やせた方の兵士の視線のさきには川の表面が見えているのだがその川の流れの中に落ちて行ったウナ姫の姿は見えない。下流の方に目をやっても彼女の姿は見えなかった。
「おい、この高さではあの女も助からないだろう。それよりもこの急流では泳げずにおぼれ死んでしまうだろう。」
視界の中に落ちて行った女の姿がなかったやせた方の兵士もその意見に同意した。
「王様には高い崖から川の中に落ちてその姿も見えなくなってきっと死んでしまったのだろうと報告するか。」
「それでいいだろう。」
やせた方の兵士はさるすべりの木の幹を引っ張ると自分の身体を安全な方に持って来た。
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縄文
この二人の兵士の国ではこの隣の女王が自分たちの国の中に逃げ込んで来ているという噂が立っていた。裸の子供が走り回っている。今はちょうど暑いさかりなので子供は二人とも服を着ていなかった。
この二人は兄弟で一人は男でもう一人は女だった。田圃の前の自分の家の庭で走り回っている。この庭は自分の邑の田圃でとれた稲を脱穀するのに使われている。たて穴式の住居の前ではその母親が火をおこして土器の中に入れた水をわかしている。この二人の幼い兄弟がいつもよりはしゃいでいるというのは二人の父親が川に魚をとりに行って鮭を三匹も取って来たのでうれしくてはしゃいでいるのだ。父親は鮭の口に笹の枝を通して運んで来た。それを背中に担いで自分たちの庭に持って来た。その父親の姿を見つけた二人の子供が父親のところに走って行った。
「父ちゃん、見てくれよ。俺、弓矢を作ったんだよ。」
この時代教育というのはどうやれば大きい種籾を選別できるか、よく飛ぶ弓矢を作るにはどうしたらいいか、うさぎはどんな木の切り株をねぐらにしているかというのが習うべきことだったからこの子供が弓矢を作った事はほめられてしかるべきである。しかし父親の耳元を矢はそれて担いでいる鮭の胴体に刺さった。
「おい、危ないじゃねえか。何をするんだべ。」
父親は驚いて声をあげた。そのそばでは母親が土器の下で燃えている火に空気を送り込むために竹の節を抜いて作った火ふき筒で火力の調整をしていたが顔を上げてこの騒ぎを怒鳴りつけた。
「何、やってんだよ。ご飯だよ。みんな、こっち来な、」
父親と二人の子供は母親のそばにある横たわった丸太のところに行ってそこに座った。
そのうち縄文土器の中に入っている水はすっかりと沸騰して母親は用意してあったどんくりと赤米をすりつぶして作っただんごをお湯の中に入れた。
「おい、聞いたか、隣の国の姫が逃げ出したらしいぜ。その女を捕まえたら畦大臣にしてくれるという話だ。」
丸太にこしかけている父親はそばで料理をしている母親に話しかけた。
「何、ばかなこと言っているんだよ。うちには食べ盛りの子供が二人もいるんだからね。そんなことよりちゃんとおととをとって来な。」
土器の中に入っている団子はお湯の中に沈みまたお湯の表面にうかび上がった。これは団子がゆであがった証拠である。
「ほら、ゆで上がったよ。」
「俺、どんぐり飯、嫌い。」
「あたいも。」
「何、ぜいたくな事言っているんだよ。葉っぱだしな。よそってやるから。」
「はぁーい。」
「はぁーい。」
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大熊王
二人の兵士にウナ姫をつかまえるように命令した王は自分の宮殿の前で収穫できる米の量の計算をしていた。しかし農業生産技術の遅れや田圃の整備がよくないためにあまりその生産は期待できなかった。隣の国に比べればその生産量は四分の一以下である。この王はがっしりとした体格とそのひげ面の容貌から大熊と呼ばれていた。この国トマラ国はウナ姫のオロ国に比べるとその規模は二分の一ぐらいであまり裕福な国ではなかった。大熊王はオロ国の豊かな国土に目をつけていてその国を奪おうという野心があった。それはこの大熊王の凶暴な性格にも由来していた。そのためにも逃げてきたウナ姫を捕まえることは大熊王にとっても意味があった。
「王様、王様が命令していた二人が帰って来ました。」
彼の身辺の警護をしている兵士が言った。そのあとから顔をふせながら太った兵士とやせた兵士の二人が大熊王の前におそるおそる歩み出た。
「王様、追っていた女ですがかわせみの崖のところまで追って行ったのですがそこからめのうの川の中に飛び込んでしまいました。あの高さから川の中飛び込んだらとても生きているとは思えません。」
「ばかもん。」
あたりに響き渡るような声で大熊王は怒鳴りつけた。二人の兵士は身震いした。こうして大熊王が怒鳴ったあと何人もの平民が生きたまま土中に埋められているのだ。二人は首のあたりが涼しくなった。
「王様、いかがいたしたのかな。」
大熊王の後ろから変な模様の織り込まれた木綿の服を着た人物が話しかけた。
「おう、朴さんか。実は。」
他の平民とはあきらかに扱いが違う、顔つきも現地人とは微妙に違っている。朴と呼ばれた人物は半島から来た人間で大熊王のオロ国征服の野望にはどうしても必要な人間だった。朴は陰陽の二気から発展した易学を身につけている、また万物の生成消滅を扱う論を会得していて暦学方位学に通じシャーマンによって国を治めているオロ国に対抗するためにはどうしても政治上必要な人間だった。
「隣の国の女王をとり逃がした。まあ、いいではありませんか。あの女が居なくても支障ないのことよ。」
「しかし、念には念を入れてということもありますからな。」
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第四回
こだま
山中の杉木立の中を地上から十二メートルもの高さのところで木から木に飛び移っている男がいた。むささびならそれも不可能ではないだろうが杉の木のてっぺんのあたりから七メートルもさきにある木のてっぺんに飛び移っている。それも木の幹をつかんだかと思うと瞬間的にもう空中に飛び出しているのである。空を見上げると木々の間から見えるその姿は大きな黒い鳥にしか見えなかった。男の髪の毛は長く後ろにのびてほうき星のようだった。男は杉の木から木へ飛び移って行く。杉の森の中に木立が途切れて細長い沼になっていてる場所に出た。細い沼と大きな沼が川のようなものでつながれている。男は杉の木から降りて細い方の沼のほとりに立って顔色を少し曇らせた。その沼の水の色が少し変わっていて小魚が大量に水の上に浮かんでいる。沼のほとりに立った男は水の中に手を入れると死んだ小魚をすくいあげた。小魚は全く動こうともせず、背骨を引っ張っている筋肉もゆるんだままだった。小魚は完全に死んでいた。そんな小魚が細い方の湖の表面に大量に浮かんでいる。沼の表面の水の色も少し赤みがかっている。すると大きな方の沼から水面上にさざ波が立って黒い巨大な陰が水面の下を移動してきた。すると湖の表面の色が少しずつだが元の色に戻っていくではないか。するとまた大きな沼の反対の方から沼の表面にさざ波が立って二つのさざ波が近づいて行った。かなり近づいて行くと両方が左回りになって左右対称の渦巻きが沼の表面で対峙した、その瞬間大きな水しぶきが立って沼の中から五メートルぐらいの巨大な鯉のような魚と三メートルぐらいのこれもやはり巨大な山椒魚が絡みながら飛び出して来た。沼の表面のあたりでお互いに身体をぶつけ合いながら相手を攻撃している。沼の表面では水が大きくうねって瞬間瞬間に飴細工のような彫刻を作っている。見ると巨大な鯉の方の腹鰭がひどく傷ついてさきの方がちぎれていた。男は知っていた。この沼の摂理を。小さな方の沼と大きな方の沼はつながっていて小さな方の沼には巨大な山椒魚が住んでいる。大きな方の沼には今その山椒魚にやられている巨大な鯉が住んでいるのだ。普段はお互いに何の往き来もなく自分たちの生活を営んでいるのだが大山椒魚が魚をとるために自分の身体から毒液を出す。すると細い沼に住んでいるたくさんの小魚が死んで大山椒魚のえさになるわけだ。その毒が薄まって大きな方の沼に流れ込んで来るとそれを感じた巨大な鯉が細い沼の方に泳いで来て自分の身体から解毒剤を出して沼を浄化するとまた大きな沼の方に戻って来るという図式になっている。それを誰が決めたというのではなく生物が自然の本能でやっているのであって何千年もこの沼の生態系として行われているのであった。しかしどうだろう、今、大山椒魚と鯉が争っているではないか。そして巨大鯉の方の形勢が悪い。もし巨大鯉がこのまま死んでしまうことになればこの沼の生態系は破壊されてしまう。男は息を吸い込んだ。そして肺にその息をため込むと二つの怪獣が争っているのをじっと見ていた。そして大山椒魚が水面に出てきたとき男は口から自分の息を吐き出した。それは極度に圧縮された空気のかたまりであり、巨大な岩を砕くほどの効果があった。男の吐いた息は鋼鉄の砲弾となってこの沼の中央の水面に浮かび上がった巨大山椒魚へめがけて飛んで行った。そして三メートルもあるこの怪獣の身体は大きく空中に飛んで再び水中に落下した。男は吐き出す息の回転をどうかけるかによりその砲弾の堅さを自由にコントロールすることができたのだった。大山椒魚の身体は傷つくことなくまた水中に没すると沼の中を周遊して水面下深くに消えて行った。きっと巨大鯉が解毒作用のある体液を身体から出してこの行湖を浄化しているのだろう。湖の色は緑色に近い深い青色に変わった。
湖のほとりにある大岩の上に立ちながら男はこの様子を眺めてある疑問を抱いていた。
「何かがおかしい。この森の調子が狂っている。こんなことはこれだけではなかった。」
最近この森ではことごとくおかしなことが起こっている。そのために彼はその調査をするためにこの森の中を見回ったりしているのだ。それは彼自身の考えではない。森の中の大木の間を自由に飛び移ったり、自分のはく息を鋼鉄の砲弾のようにすることができるのには意味があった。彼は羅漢拳という集団に属していてその指導者は自然エネルギーを自由自在に扱う方法を会得していた。ほうき星のような髪型をしたこの男はその指導のもとで大木の間を自由に飛び移ることができたのだった。この森の中を見回ってからもうすでに一週間になろうとしていたがまだ彼にはその原因をつかむことが出来なかった。
「まあ、いい。そのうちこの森を狂わしているものがなんなのかわかるだろう。」
男はそう言うとまた地上から十メートルもの高さのある大木の幹に飛び移った。そして自分たちの本拠のある場所に戻ろうとまた大木から大木の間を飛び移って行く。一飛びに飛ぶ距離は二十メートルくらい、隣り合っている木の間を飛んでいるのではなく、何本もの木を抜かしながら飛んで行く。その間も下の方に何か変わったものがないか目を凝らしているのだった。とくに今日は仲間から薬草を森に行ったら採ってくるように言われていたので注意深く下を見ながら飛んで行く。
「くりくり坊主の言った薬草とはどんなものだったか、川のほとりによく生えていると言う。一度、くりくり坊主に見せてもらったことがあるのだが。持って行ってやったらうれしそうな顔をするだろうな。くりくり坊主。」
彼、名前はこだまと言うのだがうれしそうにつぶやいた。くりくり坊主は彼の仲間であり、医術に従事している。ほとんど本部から出ないため、仲間が外に行くときはよく薬草などを採って来てもらうように頼むのだった。
「おっ、あれかも知れない。」
こだまの目は川のほとりに白い花をつけてすっきりと立っている緑の茎と葉を持った植物にとまった。こだまがその植物のある川のほとりに下りて行くとそれが自分の見間違いであることがわかった。
「ふん、白百合か。」
こだまはその花を持って鼻の近くまで運んでにおいを嗅いでみた。花特有の研ぎ澄まされたような刺激が鼻孔をついた。森の木が途切れたこの川のほとりに立っていると川のせせらぎの音と大きな奇岩の集合だけが目に入る。いろいろな形の岩が重なるようにして河原に存在している。ふとその岩の間を見ると黒い毛糸のようなものが岩にからまっているではないか。
「おっ、あれは。」
こだまはすぐにその大岩のところに行った。見ると女が倒れている。川でおぼれてここまで流されたのかも知れない、こだまは彼女の心臓の上あたりに手をやるとまだかすかだが動いている。
「これは助かるかも知れない。」
こだまは自分の手のひらの上に自分の口の中から空気の固まりを出すと閉じられた女の口の中にその空気の固まりを入れた。こだまは自由に空気を扱うことができてそれはものを破壊することにも使えるが生物の呼吸活動を助けることもできる。一種の酸素ボンベの固まりのようなものを女の身体の中に入れたのだった。これで女の命は助かったがまだ女の目は開かなかった。
「捨てておくわけにもいかないだろう。」
本拠地につれて行けば彼女の体力も回復することだろう。それができる仲間が本拠地にはいる。しかし、こだまはこの女がどこの誰だかはわからなかったが、この女性は今トマラ国の兵士に追われてめのう川の中に飛び込んだウサ姫だった。心臓もかすかに動き、呼吸も回復している。もちろん彼女が生まれ故郷に帰ったとしても彼女は回復しないだろう。ただ気の術に通じた彼らだけが彼女を蘇生させる可能性があった。こだまはウサ姫の身体を抱き上げた。思ったよりも重い。こだまは彼女の身体を片手で抱き上げ、片手で口笛を吹いた。すると空から巨大なこうもりがやって来てこだまの前に降り立った。
「お前が来たか、まあ、いいだろう。」
こうもりは頭を下げて不服そうだった。こだまはウサ姫を抱いたままこうもりの背中に乗った。巨大なこうもりは二人を乗せて空中に飛び上がった。
一方その本拠では髪を伸ばした男と身長が三メートルはあろうかと言う禿頭の男が向かい合っていた。巨人の方が十トンぐらいの重さの岩を片手に持ち上げて髪の長い男の方に投げた。すると巨岩はうなりを上げてその男の方に飛んで行った。髪の長い男の方は両手の平を広げるとその両手を摩擦した。するとどういうことだろう、その周囲に大きな雷がおこり、昼間だというのにその周囲のものを青く照らした。きっとそこに大きな電磁場のようなものが出来たのかもしれない。巨岩はその男の前に届く前に反発して山の方へ向かって飛んで行った。今度は巨人の方に変化が起こった。昼間だと言うのにその足下には影が出来ていたのだがその影がその巨岩よりも早い速度で伸びて行き、五十メートルぐらい伸びたかも知れない。その巨岩に追いついてそれを保持するとまたその影は縮んで元の場所に戻したのである。そのあと二人は何事もなかったように仏教の経文の一節を唱えた。そこから少し離れたところに見るからにお坊さんらしい老人がつくねんと座っていた。目を閉じて何かを黙想しているらしかった。巨岩を相手にキャッチボールのようなことをしていた二人、これらはこだまの仲間で髪を伸ばしている方がいかづち、巨人の方をやまかげという。
この二人がこのお坊さんの方へ行くと老人は目を開けた。
「こだまが戻って来たようじゃ。」
「くりくり坊主が薬草を採ってくるように頼んでいたらしいですよ。」
「薬草は持って来ていないようじゃ。そのかわり。」
「そのかわりなんですか。」
「女をつれている。」
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(小見出し)羅漢拳
インドに群小国家が乱立していた時代、ヒンズー教が栄え、自然界に充満する生命エネルギーを自由に扱う聖人も出現していた。インドの一郭マガタ国のカビラ城にゴータマ・シッダルーダという王子が生まれた。彼もまた自然エネルギーを自由に扱えることになる聖人の一人だった。ゴータマの生まれたマガタ国は弱小国として周囲を強大な国に囲まれていた。ゴータマ国の前途は苦難に満ちていることはあきらかだった。そしてゴータマは一は何故生まれ死んでいくのかと思い悩んだ。自分自身が自然エネルギーを自由にできる聖人だとも知らずに。彼は国も身分も捨て修業の旅へと出た。苦しい修業を経て菩提樹の下で悟り、つまり自然エネルギーを手中にすることに成功した。ゴータマは仏と呼ばれ、仏教を開いた。仏教は四方の国に広がって行った。仏教は二派に分かれた。極楽浄土への道は自分自身の力によって得られるという小乗とすべての人は同じいかだに乗り合わせているのだからすべての人が同時に救われるという大乗の法である。しかしそれらの教えは表の教義である。太古から連綿として続く教え、自然エネルギーを自由自在に扱う方法、仏陀はそれの体現者なのであった。彼らは仏陀の教えにより自分自身の肉体、精神を超人と化し、ひとたび国の危機が生じると立ち上がった。彼らの組織は世界中に広がっている。しかしふだんは人の目にふれない山奥で暮らしていた。仏陀が現れてからの彼らの集団は羅漢拳と呼ばれていた。紀の国、つまり現在の和歌山県の山奥でも彼らは人知れず居を構えていた。気の奥義を究めた指導者に統率されていてなかには三メートルをゆうに越える巨人もいた。そして時代は集団で農業をおこない、国というものが出来はじめていた。
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(小見出し)くりくり坊主
くりくり坊主が地面に図形を描いて陰陽の気の理論の研究をしているとあたりが暗くなった。実はくりくり坊主の頭の上だけが暗くなっているのだった。くりくり坊主が頭上を見上げると乱雑に動く影がくりくり坊主の頭上を覆っている。そして上から声が聞こえる。
「くりくり坊主、帰って来たぞ。」
巨大なこうもりは地上に降り立つとその背中からこだまが下りて来た。
「くりくり坊主、薬草は採って来られなかった。」
「その女は誰でちゅか。」
くりくり坊主は棒を持っている手を止めてこだまの腕に抱きかかえられている女を見ているとこの集団の指導者やいかづち達もやって来ていた。
「川で拾いものをして来ました。まだ息も心の臓も弱々しいが動いています。」
その女を周りのものはしげしげと見つめた。生きていると言っても目は閉じられたままだった。お坊さんのような老人がその女のそばに行くと口の上に手をかざしてその呼吸の度合いを測った。
「うむ、まだ息はある。」
くりくり坊主は指をくわえながらその様子をじっと見ていた。くりくり坊主は生まれてからすでに二百年の年月が経っていたが生後三ヶ月からその成長は止まり、外見はほとんど新生児のようだった。そのくせ大人のように歩くことが出来て大人なみの思考力は持っている。この集団、羅漢拳の構成員が、こだまやいかづちのように武芸の探求をしているのと違ってくりくり坊主は医術の研鑽を積んでいた。そのため薬草などを集めその効能を調査することは日常の仕事なのである。
「こだま、その女を薬療院へ運ぶのだ。」
くりくり坊主も何も考えずそのあとをついて行った。こだまや指導者が薬療院の前に来るとくりくり坊主はその薬療院の扉を開けた。薬療院というのは丸太を組み合わせて作った六角形の建物でその中で薬を炊いてその煙で病気を治したり、大きな石棺がありその中に薬を入れてそこにつかって病気を治したりする施設だった。薬療院の扉が開けられるとその中にある薬のにおいが鼻をついた。
「おお、薬くせぇ。」
こだまが言った。部屋の中は外観と同じで六角形になっている。外側が丸太を組み合わせているのと同じでその組合わさった丸太が壁になっている。中には薬を炊くための花崗岩をくり抜いて作った小さな鉢のようなものが置いてある。その横にはこれも花崗岩をくりぬいて作った大きな石棺が置かれている。壁の側面には種種様々な薬草から作られた薬があり、床には大きな熊の毛皮が床に広げられている。指導者の視線がその大きな石棺に向けられると彼は言った。
「こだま、その女を石棺の中に寝かせなさい。」
腕に抱えていた女をこだまはその石棺の横に寝かせた。
「蝦夷松、しいたけ、浦島草を用意するのじゃ。」
これからこの女の治療が始まるのだ。くりく坊主はそう思った。
「う・う・うー。」
くりくり坊主はあどけなく低く唸った。外からそれらの薬草が大量に運ばれて来る。
「それらをよく混ぜ合わせのじゃ。」
そう言った技術にはくりくり坊主はたけていたのでそれらの薬草を薬研でこまかくして、乳鉢と乳棒でさらにすり合わせた。くりくり坊主はそれらを味見してみた。それらは苦かった。
「長老、できたよ。」
「それらを石棺の中に注ぐのじゃ、」
くりくり坊主はそれらの薬を石棺の中に注いだ。
「大根おろしを用意しろ。」
長老が何故そう言うかくりくり坊主には理解できなかった。それはある治療を意味していた。薬マッサージと言って薬とマッサージを併用する治療の仕方だった。でも誰がそのマッサージをするのだろうか。くりくり坊主の頭の中はひどく混乱していた。
「う・う・うー。」
くりくり坊主はまた低くうなった。
「大根おろしができまちゅた。」
「よし、そうしたらそれを石棺の中に注げ。」
くりくり坊主はそれらを石棺の中に注いだ。
「その女の服を脱がせろ。」
「う・う・うー。」
再びくりくり坊主の頭の中はひどく混乱した。何故、わたくちゅがそんなことをしなければならないんでちゅか。くりくり坊主は心の中で自問した。すると激しい叱責の言葉が長老から飛んだ。
「ばか、恥ずかしがっている場合か、命にかかわる問題じゃぞ。」
「ひぇー。う・う・うー。」
くりくり坊主は頭を抱えてまたうなった。おそるおそる女の腰ひもに手を伸ばすとそのひもをほどいた。すると瀕死の状態であるにもかかわらずかがやくような張りつめた白い裸身がくりくり坊主の前に現れた。
「こだま、その女を石棺の中に入れるのだ。」
こだまはその女を抱きかかえると薬のはられた石棺の中に入れた。その様子をくりくり坊主は石棺のふちにつかまりながらじっと見ていた。すると長老はまた口を開いた。
「くりくり坊主、この女の治療係を命ずる。この女を生き返らせることが出来るかどうかもお前の愛情しだいだ。この女の身体を薬でマッサージし続けろ。」
くりくり坊主の頭の中の混乱は頂点を極めた。
「うー。うー。うー。」
くりくり坊主は何度もうなった。くりくり坊主自身、医術の研鑽を積んでいるが、この長老の提案ははなはだ迷惑なものだった。くりくり坊主は森の中で親からはぐれてひとりぼっちで傷ついた小熊の治療に当たったのが彼が医術の道に進もうと思った出発点だった。その治療に当たっていろいろと試行錯誤を繰り返し、くりくり坊主はいろいろな医療技術を獲得した。その小熊も成長して死んでいった。くりくり坊主は生後三ヶ月から少しも成長していないのだから当然と言えるが。それからくりくり坊主はお猿を飼い始めた。今度はそのお猿が病気になつてしまったのだ。くりくり坊主は医術の道を究めたと思っていたからそのお猿の病気も当然治ると思っていた。しかし天はくりくり坊主に見方しなかった。そのお猿はくりくり坊主の手厚い看病にも関わらず死んでしまったのである。くりくり坊主は天を恨んだ。そして薬草の研究のみをして臨床には立ち入らないと決めたのだった。そのお猿の死はくりくり坊主にそれだけの大きな衝撃を与えた。もう二度と死にかけている相手の治療には関わらないでちゅ。しかし長老の決断は断固としたものだった。
「薬療院の扉は封印されるべき。」
薬療院の扉はくりくり坊主と死にかけている女を中に入れたまま封印された。
くりくり坊主は薬液につかったまま動こうとしない女の横顔を石棺のふちにあごを載せながら見つめた。くりくり坊主の脳裏にはあのいまわしい思い出、お猿を力至らずあの世に見送ってしまったことが想い起こされた。う・う・どうすればいいんでちゅか。くりくり坊主は煩悶した。むなしく半時が過ぎてくりくり坊主がうつらそこから塗り薬うつらしているとよだれがその石棺のふちにたれていた。小半時寝ていたのだ。するとくりくり坊主は何故かさわやかな気分になった。顔の筋肉が弛緩している。それはくりくり坊主が生まれもった本能で眠っているときに無意識に喜びの表情をしていたかも知れない。起きてから自分の夢を覚えていないようにその表情を自分では理解できなかった。くりくり坊主は自分で自分を直していたのかも知れない。くりくり坊主は後ろを振り返るとさまざまな薬草が山と積まれている。そしていくつもの瓶が並べられていてその中には薬液が仕込まれている。やってみるでちゅ。くりくり坊主は決心した。この女の治療に当たってみよう。女の身体を指先で突いてみると弾力性があった。これは助かる見込みがあるでちゅ。後ろの瓶を石棺のそばに持って来るとそこから塗り薬をすくい取り、その指先を女の身体にそっと伸ばした。女はことりとも音を立てなかった。くりくり坊主は女の身体に薬を塗り始めた。それは大変な労働だつたが女の命を救うためだった。くりくり坊主の吐く息はあらくなり始めた。くりくり坊主はふと薬液をなめてみると甘かった。くりく坊主は動揺した。薬液だと思ったのは実は蜂蜜だった。これは大変なことだとくりくり坊主は思った。くりくり坊主は女の浮かんでいる薬液の中に飛び込んだ。そして蜂蜜を落とすため女の身体をなめ始めた。くりくり坊主は真剣だった。女の身体についた蜂蜜を舌ですっかりなめ落とすのに半日かかった。それから再び薬によるマッサージを続け、三日目の晩に女は目を開けた。目を開けた女は薬液の中に見たこともない新生児がつかっているのを見て驚いた。
「きゃー、何をやっているのよ。」
「う・う・うー。」
女は立ち上がろうとしたが立ち上がれなかった。
「ばか、恥ずかしがっている場合じゃ、ないよ。」
くりくり坊主は女をしかりつけた。女の目から涙がこぼれ落ちた。くりくり坊主は治療を続け、三日目の朝に女は立ち上がった。
「まだ完全に直ったわけじゃないからね。二日に一度はこの治療を続けなければならないよ。」
くりくり坊主が諭すように言うと女はくりくり坊主を胸にぎゅっと抱きしめて言った。
「あなたはわたしの命の恩人よ。」
三日目の昼に薬療院の扉は開けられた。
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  けがのすっかりと治ったウサ姫は羅漢拳に自分がオロ国の双子の女王の一人であることをつげた。そして羅漢拳のほうではアマのもとにいるコサを監視し続けていたこと、ウサ姫の純潔を守ったこと、そしてコサは人間ではなく殺さなければならないことを話した。羅漢拳の長老はくりくり坊主、こだま、やまかげ、いかづちの四人をウサ姫のともにしてオロ国へ向かわせた。こだまは音波を使い、やまかげは大きな衝撃力となり、いかづちは電気を使いコサを滅ぼした。ウサ姫は羅漢拳から伝えられた秘伝の妙薬を使いウナ姫のけがをあとかたもなく治した。これが今はその製法もわからなくなってしまったが大和朝廷のできる以前に存在したと言われる伝説の妙薬ウナ膏和の由来である。

      終わり

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