西園寺 公望



生没年月日

1849年(嘉永2年)12月7日 ー 1940年(昭和15年)11月24日

出身地

山城国京都 (現:京都府京都市)

学歴

学習院
 
ソルボンヌ大学

年表

1849年(嘉永2年)12月7日


朝廷の家格第2位に位置する清華家の一つ徳大寺家に生まれる。
幼名は「美丸」

 
1850年(嘉永3年)
名を「公望」に改められる。
 
1852年(嘉永5年)1月
同じ清華家に属する西園寺家の養子となる。
学習院で学ぶ。
 
1853年(嘉永6年)5月
朝廷侍従 任官
 
1857年(安政4年)10月
元服とともに昇殿許可。
右近衛権少将 任官
 
1861年(文久元年)3月
右近衛権中将
 
1867年(慶応3年)12月
参与
 
1868年(慶応4年)1月
山陰道鎮撫総督
 
1868年(慶応4年)3月
権中納言
 
1868年(明治元年)4月
但馬府中裁判所総督
後、山陰道裁判所総督 兼 東山道第2軍総督を経て北国鎮撫使
3等陸軍将
 
1868年(明治元年)6月
会津征討越後口大参謀

1868年(明治元年)10月


第2代新潟府知事 (~1869年2月)

 
1869年(明治2年)7月
武家に憧れ、一時的に「望一郎」と名乗る。
私塾立命館 設立
 
1880年(明治13年)10月
フランスのソルボンヌ大学を卒業
 
1881年(明治14年)1月
明治法律学校(現:学校法人明治大学)講師
 
1881年(明治14年)3月
東洋自由新聞社社長
 
1881年(明治14年)11月
参事院議官補
 
1883年(明治16年)12月
参事院議官
 
1884年(明治17年)7月
侯爵
 
1885年(明治18年)2月
オーストリア・ハンガリー帝国駐箚日本国公使館特命全権公使
 
1886年(明治19年)8月
法律取調委員 兼任
 
1887年(明治20年)6月
ドイツ帝国駐箚日本国公使館特命全権公使 兼 ベルギー特命全権公使
 
1888年(明治21年)9月
ローマ教皇庁駐箚日本国公使館特命全権公使

1890年(明治23年)2月


貴族院侯爵議員 (~1920年9月)

 
1891年(明治24年)9月
内閣賞勲局総裁
 
1892年(明治25年)10月
民法商法施行取調委員長
 
1893年(明治26年)4月
法典調査会副総裁
 
1893年(明治26年)11月
貴族院副議長 (~1894年5月)
 
1894年(明治27年)5月
枢密顧問官 (~1894年10月)

1894年(明治27年)10月


第2次伊藤博文内閣・文部大臣 (~1896年9月)

1896年(明治29年)5月


外務大臣 兼任 (~1896年9月)

1896年(明治29年)9月


第2次松方正義内閣・外務大臣 兼 文部大臣 (~1896年9月)

1898年(明治31年)1月


第3次伊藤博文内閣・文部大臣 (~1898年4月) 兼 法典調査会副総裁 (~1898年3月)

1900年(明治33年)10月


枢密院議長 (~1903年7月) 兼 第4次伊藤博文内閣・班列(無任所国務大臣) (~1901年5月) 兼 内閣総理大臣臨時代理 (~1900年12月)

1901年(明治34年)5月


第4次伊藤博文内閣・内閣総理大臣臨時代理 (~1901年5月)

 
1903年(明治36年)7月
立憲政友会総裁 (~1914年6月)

1906年(明治39年)1月


第12代内閣総理大臣 (~1908年7月) 兼 文部大臣臨時代理 (~1906年3月)

1906年(明治39年)3月


外務大臣臨時代理 兼任 (~1906年5月)

1911年(明治44年)8月


第14代内閣総理大臣 (~1912年12月)

 
1918年(大正7年)12月
帝国経済顧問
 
1919年(大正8年)1月
パリ講和会議日本国政府首席全権代表

1920年(大正9年)9月


公爵
貴族院公爵議員 (~1940年11月)

1940年(昭和15年)11月24日


腎盂炎により静岡県庵原郡興津町(現:静岡県静岡市清水区)の自宅にて貴族院公爵議員在職中のまま死去。
 

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