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働くということ

なぜ働くのか。
お金を稼ぐため。

では、なぜ金が要るのか。
……お金があることが幸せだから?
いや、金がなければ生活できないからだろう。


1.貨幣経済は交換の仕組み


そもそも労働とは何かということを考えてみる。
元々、貨幣経済は交換で成り立っている。
物を売って金を得て、その金で物を買う。
このような交換ができるのは、物と金とが等価だと見做されているからだ。
ここで、万物の価値を同じ尺度で量的に測れるのかという問題はあるが、便宜上貨幣がその尺度ということになっている。

つまり、客観的には、交換の前後でそれぞれの人が有している価値の量は変わらないということになる。しかし、主観的には、自分にはいらない物がそれを必要とする人の手に渡り、その代わり自分は欲しいものを得られるという、よく出来たシステムになっている。


2.労働とは価値の創造

ところが、資本主義が登場して事態はおかしなことになってきた。物を交換しているだけなら、この世に存在する全体の価値の総和は変わらない。それが資本主義のもとでは、経済は成長するものと見做されている。

ここで鍵となるのが労働の概念である。
材料を加工して製品にするとき、製品には材料にはない性質があり、製品は元の材料よりも価値があると考えられる。
この製品を作るためには、専門の知識と技術が必要であり、また相応の時間と労力が要求される。そこで、形があり直接生活の役に立つ物だけでなく、その物を作り出す労働にも価値が置かれるようになった。

人は労働によって、自然物にはない固有の性質を持った人工物を作り出し、それによって新たな価値を創出することができる。これを人間の尊厳として労働が推奨され、材料と製品との価値の差分が労働者に与えられるようになったのである。

実際には雇用者と労働者との間には支配の関係があり、事態はもっと複雑なのだが、一旦それは置いておこう。


3.給料は労力に見合うのか

ここで注目したいのは、まず労働に価値を置いたということで、それは正当だろう。
では、労働に与えられる給料は、その労働に見合っているだろうか。つまり、物と金のように、労働と金は等価交換がなされているだろうか。

これにはNOと答える人が多いはずである。会社員が、あるいは飲食店の従業員が、週5日8時間かそれ以上働き、さらには業務外の理不尽にも耐え、それに支払われる給料はあまりに少ない。

その一方で、オフィスのソファに座り、自身ではさして苦労もせずに大金を稼ぐ者もいる。
あるいは、アイドル、スポーツ選手、ホスト。
彼らはその才能で多くの人々に夢を与えているし、また常人には想像もできない努力をしているかも知れない。しかし、そうだとして、彼らが、それからそのバックにいる企業やプロデューサーが、大衆から巻き上げて築く巨額の富は、本当に理に適っているのか。

いや、それが理に適っているという見方もあるのだ。なぜなら、報酬は「労力」に当てられているのではなくて、あくまでもその労働が生み出す経済効果に当てられているからだ。
先述した通り、労働の価値は新しい価値を生み出すことにあり、あくまでも製品やサービスの価値基準の中で捉えられているのである。

そこで話題は、労働の価値は労力で測られるべきか、創出した価値で測られるべきかということになる。
あるいは、労働の価値は創出した価値と労力の価値の合計であり、労力の価値は現在の想定よりももっと高く評価されるべきだということになる。

ここで注意したいのは、労力が正当に評価されないのは何も近代以降のみの話ではないということだ。

簡単のために、資本主義以前の経済では、物の値段は純粋にその物の価値のみで決まると考えると、労力には全く値がついていなかったことになる。
実際、江戸時代の職人などを想像してみると、彼らは家ごとに伝わる技術を有し、相応の労力をかけているのに、それほど待遇が良かったようには思えない。

人々が労力に対して報酬を強く求めるようになったのは、やはり労働というものが強く意識されるようになってからではないか。
これは労力に値がつかなければやっていけない程、労働が過酷なものになったことを意味する。


4."Time is money."は本当か

労働力を提供するということは、自分の時間を売るということである。勤務時間に加えて、体力を消費すればその分休んで回復する時間も必要である。人生の多くの時間を費やして、心も体もすり減らすことになる。

あなたの時間には、どれほどの価値があるか。
時給1,200円で働くなら、あなたは1時間を1,200円で売っていることになる。
(通勤時間や準備時間には給料が発生しないから、実質的には1時間の価値はもっと安い。)
そう聞くと、何だかあまりに安い。

"Time is money."(時は金なり)そう言ったのは、ベンジャミン・フランクリンだ。曰く、時間は貨幣に変換できる。仕事が遅れれば、遅れた分だけ業績が減り、その分収益が減る。時間を無駄にするということは、損を被るということである。時間は限られていて、働いた分だけ利益を上げ価値を生み出せるのだから、一分一秒たりとも無駄にするべきではない。時間あたりの生産を最大化するため、業務は効率化すべきである。

フランクリンが言うには、これは個人の処世術というレベルの話ではなく、社会全体における人としての倫理である。労働は個人の利益になるのみではなく、そこで生み出された価値は社会全体に還元される。社会全体での価値の総和を最大化するために、一人ひとりが時間を無駄にすることなく行動するよう説いたのである。

時間を無駄にすべきではないというのは、ある程度正しい。しかし、効率化のみを追求することが良いこととは思えない。
大金を稼いでいても、仕事に忙殺され余暇が全くないような生活は豊かとは言えない。収入は少なくとも、休日には家族や友人と過ごしたり、趣味を充実させたりしている方が幸せな人生だろう。あるいは、仕事に生活を捧げていても、自分の好きなことを仕事にしてやりがいを感じているのなら、それも有意義である。しかし、その充実感は、生産を最大化することに由来するわけではない。

これに対し、効率主義の人はこう反論するかも知れない。働くにせよ、休むにせよ、遊ぶにせよ、時間を浪費するのが一番よくない。何をするでもなくぼーっとしたりダラダラしたりするのではなく、カフェに行ったり映画を観たりして余暇を最大限楽しむべきだ。そのためには、空いた時間がないように予定をぎっしり詰めることになる。

ところが、余りに多忙なスケジュールを組むと、心も体も疲れてしまって、結局何も楽しむことができない。時間にゆとりを持たせた方が、働くときも集中して取り組めるし、遊ぶときにも存分に楽しむことができる。

それから、例えば、優れた画家というのは、いつでも絵を描いているわけではない。実は描いているときと同じくらい、描いていない時間も大切なのである。インスピレーションは生活の中で生まれ、それは穏やかな時間の中で成熟していく。よって、大量の作品を効率よく描こうとしては、良い作品は生まれないのである。一つの作品をこだわり抜いて、じっくり描くから良い作品が出来上がるのである。


5.多様な時間を生きる

したがって、時間にタイトであることは、必ずしも価値を最大化させない。
機械のように単純作業を繰り返すなら、効率化は有効であり、実際私達が効率化を意識すべき場面はある。

しかし、私達は人間である。私達は、毎秒毎秒を処理するために生きているのではない。私達には心があり、物事を楽しんだり感動したりするし、精神的な価値のあるものをより好む。
黙々と努力することもあれば、美しい光景に惚けるときもあるし、恋人と抱き合って時の流れるままにすることもある。自分のペースで歩いていくこともある。

"Time is money."というのは、時間を均質化した見方だ。しかし実際は、人間は多様な時間を生きているのである。

このように考えたとき、あなたは自分の1時間を1,200円で売ることができるだろうか?
「仕事がなければ、もっと素晴らしい時間を生きれたかも知れないのに」と、そう思うならば1,200円では足りないと感じるだろうか。
しかし、そうだとして、一体いくら払えば時間を売ることに見合うのだろうか?

時間を貨幣に変換できるという立場では、時間は均質で、価値を生むために「使われる」ものだと考える。モノと交換するためにお金を使うように、経験と交換するために時間を使うのである。
しかし、時間を価値を生むために費やすものではなく、もっと積極的な意味で捉えるならば、ある1秒と他の1秒とは全く性質が異なるものになる。
そうなると、時間は貨幣には変換できないということになる。

時間の価値、ひいては人生の価値は、お金で代替することはできない。
年収300万円のサラリーマンの人生には300万だけの価値があって、年俸1億円のスポーツ選手の人生には1億だけの価値があるということにはならないのである。


6.量的功利主義と質的功利主義

少し踏み込んでみると、この話は量的功利主義か、質的功利主義かという話に繋がる。

量的功利主義では、この世のあらゆる快楽や苦痛は一定の尺度で量を測ることができるとする。例えば、美味しいものを食べるときは+10、恋人とキスをするときは+100、怪我をしたときは-30といった具合である。こうした数値を全て足し合わせたときに、数値が最も大きくなるのが最も幸せな人生だと考える。

一方で、質的功利主義では、あらゆる快楽や苦痛には質的な違いがあり、その量を測ったり合算することはできないと考える。
美味しいものを食べるときの幸福感と、何か大きなことを成し遂げたときの幸福感と、素敵な人と愛し合う幸福感とは、全く別の種類のものである。


7.お金があることは一般に良いこと

前者の量的功利主義において、ベンサムは「最大多数の最大幸福」をスローガンとして、社会全体のあらゆる快楽(正の値)と苦痛(負の値)の総和が最も大きくなることを最善とした。
これは、フランクリンが"Time is money."を倫理として、社会の利益を最大化しようと考えたことに繋がる。

お金が貰えることは一般にプラスである。
どういうわけか、お金が貰えること自他を喜んでしまう人もいるが、本来的には貨幣は直接的に私達に快楽を与えるわけではない。
しかし、十分なお金があれば、全てではないにしてもかなり多くのものを買うことができるし、生き方の選択肢が増える。

「お金は汚いものだ。本当に価値があるのは例えば愛のようなもので、それはお金では買えない」という考えもあるだろう。一理あると思う。
だが、お金持ちだけど不誠実という人はたくさんいるかも知れないが、何もお金があると愛がなくなるわけではない。

恋人でも子どもでも、あなたに愛する人がいたら、あなたはその人のためになるべく多くのものを与えたいと思うだろう。デートに連れて行ったり、一緒にご飯を食べたり、プレゼントを贈ったりする。あるいは、素敵なお家を買って、子どもには習い事をやらせて、休暇には家族で旅行に行く。そうしたとき、どうしてもお金がかかる。

愛さえあれば、貧しくても、何も無くても関係ないと、そう思うかも知れない。でも、大切な人が事故か病気で倒れて、手術をすれば命は助かるが、その医療費を出すお金がない。そんな局面に立たされたとき、本当にお金なんていらないと言えるだろうか。

お金では愛そのものを買うことはできない。しかし、お金を使うことで、より効果的に愛を表現することはできる。困っている人がいたら、その人を助けるための力になる。貨幣それ自体は役に立たないが、使い方次第では大いに役立ち、少なくとも持っていることにデメリットはない。

一般に、お金があることは幸せであることに大きく寄与する。貨幣があらゆるものと交換できるなら、貨幣はあらゆる快楽を生み出すことができる。勿論、裕福であることだけが幸福の要素ではないけれど、仮にベンサムの言うように幸福の量が全ての快楽の合計値で表されるなら、お金はあればある程いいはずだ。すなわち、経済的な豊かさは幸福の量に直結する。

ところが、結論から言えば、経済的に豊かになっても必ずしも幸福でないことは、既によく分かっていることである。


8.良いことがたくさんあれば幸せ?

ベンサムの言うように、快楽には小さい快楽と大きい快楽とがあって、なるべく大きい快楽を集めるのが幸福であり、反対に苦痛は最小限に留めたいというのは、一見すると正しいように見える。

ここで、快楽の大きさを生理学的に考えてみる。
何か良いことがあったときに私達が幸せだと感じるのは、私達の脳が何らかの刺激を受けてセロトニンだかドーパミンだかを分泌するからである。

例えば、ホットケーキを提供されたとき、ホットケーキが大好きな人はこの何とかという化学物質が多く分泌されるが、そうでない人の脳ではあまり分泌されない。

つまり、重要なのは何が起きるかではなく、それを嬉しいと思うのか、悲しいと思うのか、当人がどう受け止めるかである。
そして、幸せとはつまるところ「幸せホルモン」がたくさん出ること、ということになる。

では、この「幸せホルモン」をどうやったらたくさん出せるか考えてやればいい。
覚醒剤を投与すれば、しばらくの間は多幸感に包まれる。覚醒剤の場合は、効果が切れたとき最悪の気分になるから、総和としてはマイナスになるだろう。しかし、「幸せホルモン」を分泌させる薬を際限なく投与し続けることができたらどうだろうか。天にも昇るような快感がいつまでも続く。それはとても素晴らしいことだ……とは、思わないのではないだろうか?

流石にそれは極端な例だろうと言うなら、他の例を考えてみる。
あなたはホットケーキが大好きだとしよう。いや、ホットケーキじゃなくてもいいのだが、何かあなたの大好物を想像してくれればいい。
今日からあなたは、毎日3食お腹いっぱいになるまでホットケーキを食べることになる。他のメニューは一切食べられない。

最初の内は楽しいかも知れないが、これが何日も続けばやがてうんざりしてくるだろう。まあ、一生ホットケーキだけ食べていたいという人もいるかも知れないが、大抵の人はそうではないと思う。そして、やがてはあんなに大好きだったホットケーキをすっかり嫌いになってしまうのである。

つまるところ、どんなに良いものであっても、「ただそれだけ」では満足できないのである。仮に一番好きなものがホットケーキだったとして、人はホットケーキだけでなく、パスタもハンバーグもお寿司も食べたいものなのだ。

あるいは、何も悪いことが起きなくて良いことだけが続く物語を、あなたは読みたいと思うだろうか。読んでいるときは、途中の展開にハラハラしたり、突然の不幸に胸が苦しくなったりして心が保たないと思うかも知れないが、しかし全体を俯瞰してみれば、それがあるから面白い。
何もあなたは他人に聞かせて面白い話をするために生きてるわけではないだろうけど、人生も物語と同じだと思う。良いことも、悪いことも、色々なことが起こるから人生は面白い。


9.量的な概念と質的な概念

したがって、ただ単に価値の総和を最大化すれば幸福というわけではないので、量的功利主義を無条件で肯定することはできない。
また、個人においても社会においても、"Time is money."の原則で利益を最大化することだけを念頭に置けばよいわけではない。

仮に万物の価値が貨幣に変換できたとしても、自分の全財産をある特定の一つのものに換えてしまったら、あまり大きな幸福感は得られない。
この世に存在する良さにはそれぞれに違った性質があり、質の異なる様々な良さを享受することが幸福であるためには重要なのである。
つまり、どれだけのお金を持っているかという「量」の問題ではなく、何にどのようにお金を使うかという「質」の問題になる。

量と質の概念を踏まえて、労働と時間の話を振り返ってみよう。
貨幣は量的な概念である。ある百円玉と他の百円玉が持つ価値は全く同じで、質的な違いはない。だから、百円玉が2枚あれば二百円だし、10枚あれば千円札と交換できる。

量的功利主義の立場を否定し、質的功利主義の立場を取るならば、快楽は質的な概念である。
美味しいものを食べる喜びと、スポーツをするエキサイトメントは性質が異なるものであり、大きさを比較したり合算したりすることはできない。

例えば、100mを9秒台で走る陸上選手と、100mを50秒弱で泳ぐ水泳選手とでは、陸上選手の方が速いという比較には意味がない。競技が違うからである。あるいは、1mのものさしと10gの分銅があったときに、1+10=11という計算には意味がない。単位が違うからである。
同様に、経験する全ての快楽の大きさを足し合わせた数値には意味がないし、快楽の大きさを別の尺度である貨幣の量に変換することはできない。

では、時間はどうだろうか。
物理学における時間は、1秒、1時間という客観的な長さが存在し、3600秒で1時間となる量的な概念である。"Time is money."の考えはこれに基づいている。

しかし、既に述べたように、同じ1時間でもその時何をしているかによって、その1時間の価値や意味合い、感じ方は異なってくる。つまり、人が経験する時間は質的な概念である。
よって、時間には量的な側面と質的な側面があり、量的な側面においてのみ貨幣と変換できることになる。


10.真面目さに値はつかない

労働に与えられる給料は、どれだけの時間働いて、その間単位時間あたりにどれだけの経済的利益を生み出したかという、純粋に量的な尺度のみで算出される。

ここでは、質的な概念である精神的な要素は給料に反映されない。どれだけ苦しい思いをして働いたか、どれだけ真面目に仕事に取り組んだか。あるいは、お客様をどれだけ幸せにすることができたか、お客様がどれだけ感謝しているか。そうしたものは数値で表現することができないから、労働者や顧客の気持ちを汲み取って給料を上げることはできない。

これは心ない仕打ちに見えるかも知れないが、人の思いや経験した時間に値をつけることは、それを均質化された代替可能なものと見做す遥かに心ないことだ。
愛情を込めて作られた手作りのクッキーにはpricelessな価値があり、それをあえて気持ちの分だけ値段を上げるということはするべきでない。

真面目さは給料に反映されない。すると、テキトーに手を抜きながら働いても、一生懸命誠意を込めて働いても、業績が同じなら支払われる給料は同じということになる。それでは不公平ではないか。それに、給料さえ貰えればいいと不誠実な態度で働く人が増えるのではないか。

ただし、実際のところ、気持ちと業績は無関係ではない。本人の能力が同じなら、嫌々やるよりも真面目に取り組んだ方が成果が出やすいし、失礼な態度で接するよりも誠意を持って接した方が顧客は好感を持ちやすく、結果的にそれは経済的なリターンを生む。

しかし、そうした経済効果はなかなか目に見える形では出てこないし、間接的であるゆえに、あなたが誠実に取り組んだから業績が上がったという因果関係は見えてこない。真面目に働いたら、その分だけ給料が上がるわけではない。

では、どうしたら真面目に働く人が報われるのか。精神性には値段がつけられないから、給料ではない、何か別の報酬があるべきである。


10.モノのやり取り、気持ちのやり取り

思いには、思いをもって応えるしかない。
初めに述べた通り、元々経済は交換によって成り立っている。このとき、物と物、物と金を交わすとき、同時に心も交わされている。

ここで、お祝いやお礼を伝えるためにプレゼントを贈り合う贈り物の文化を取り上げてみよう。

最近は、友達の誕生日を祝うことや、クリスマスやバレンタイン・ホワイトデーにプレゼント交換をすることを億劫に思う人が多い。
何かを貰うと、今度は自分が何かお返ししないといけない義務感に駆られる。また、高価なプレゼントを貰うと、自分のお返しも相応の値段でなければならないと頭を悩ませたりする。そんなことなら、最初から何も貰わなくて結構だ。

あるいは、自分からプレゼントを贈りたいと思っても、安物だとかえってその程度の思いしかないと思われて失礼になりそうだし、かといって大層なものを贈ると、相手が気後れしたりお返しをしなければと気を揉むのではないかと思って、それも躊躇してしまう。

こうした人々の心理には、モノのやり取りは等価交換でなければならないという想定がある。AからBにモノが贈られたら、今度は必ずBの方からAへモノが贈られなければならない。さらに、Aが贈ったモノとBが贈ったモノの価値は同じでなければならない。こうした想定は、モノそれ自体やお互いに贈り合う形式にばかり目が行ってしまっているものである。

しかし、贈り物をするとき、本当に大切なのはモノのやり取りではなく、気持ちのやり取りである。自分に親切にしてくれた人に対して、感謝の気持ちを伝えるためにプレゼントを贈る。その感謝の気持ちが伝わることが大事である。

そして、お返しをするのが礼儀かも知れないけれど、自分が何か貰ったからといって、必ずしも何か返さなければならないわけではない。相手が自分に対して何らかの好意を持っているからプレゼントを贈ってくれたのであり、自分も相手への好意があるなら贈り物をすればいいし、そうでないなら贈らなくてもいい。

また、何か貰う度に借りを返すように贈り物をしなくてもよくて、自分が何か贈りたいと思ったそのときにプレゼントすればいい。
自分が貰ったモノと、相手に贈ったモノが必ずしも等価でなくてもいい。

贈り物をするとき、本当に大切なのは気持ちの方で、思いに値段はつけられない。だから、本当の意味では贈り物で等価交換はできない。
お互いの思いの強さに差があることもあるけれど、それは咎めるべきことではないし、気持ちを強要することはどうしたってできない。

何より心は質的な概念だから、思いの大きさを比べても仕方がない。親と子、先生と生徒では、お互いに向ける思いの形が異なる。友達でも、恋人でも、夫婦でも、それぞれに違った人格と経験があるのだから、お互いに寄せる思いはやはり違ったものになる。
思いの形が異なっているのだから、それを表現する方法も異なっていいだろう。

贈り物とは、モノを介して気持ちをやり取りすることである。何かある度にやり取りが続くなら、それは贈り物を通じてお互いの気持ちを確認しているということになる。勿論、何を貰うかによって気持ちはころころ変わるわけで、モノのやり取りと気持ちのやり取りは無関係ではいられない。しかし、気持ちのやり取りはモノのやり取りとは本質的に異なるところにある。

モノが双方向でやり取りされなくても、気持ちは双方向でやり取りされていることもある。相手が自分を助けてくれたことに感謝して贈り物をするのなら、贈り物をしたのは自分だけでも、相手から自分への気持ちに対して、自分から相手への気持ちで応えたことになる。

あるいは、プレゼントを貰ったときや、誰かから親切な行為を受けたとき、素直に嬉しい気持ちを表現して「ありがとう」と伝えたら、相手はやってよかったなと感じるだろう。この「やってよかった」と思えることがある意味返礼のようなもので、この場合も相手の思いに自分の思いで応えている。

つまるところ、自分と相手とが思いやりを持って心を通わせていると思えることが、贈り物の本質なのである。


11.労働の対価は精神的な充足


仕事をするときも、気持ちのやり取りがなされている。お客様に笑顔で接し親切なサービスを提供すると、お客様は嬉しい気持ちになり「ここの店員さんは素敵だな」と思う。お客様が喜んでいるのを見ると、店員はやってよかったなと思う。

サービスを気に入った客はその店の常連になる。すると、店側はリピーターによる安定した収益が得られるし、客と店員とが顔馴染みになるということもあり得る。客と店員との間に信頼関係が生まれ、お互いに心地よい雰囲気で過ごすことができる。

あるいは、会社で愛想がよく気配りができる人はみんなから好かれる。そういう人がいると、職場の雰囲気が明るくなる。

ただ業務をこなすだけでなく、客や同僚に思いやりを持って接し、クレームやトラブルにも丁寧に対応する。困っている人がいれば、それが自分の職務に含まれていなくても、率先して助けてあげる。そうした働き方は、精神的な苦労を要するものかも知れない。しかし、心を込めて働けば、みんなから感謝され、自分は人の役に立つことをしていると自身を誇りに思うことができる。

そうした働きがいは、給料を得られることよりもずっと尊く、価値のあるものである。
労働の対価は、利益を創出する物質的・経済的側面においては貨幣の給料によって支払われる。
一方、真面目に取り組んだり親切に接したりする精神的な面においては、やりがいを感じたり感謝を受けたりする精神的な充足によって支払われるべきである。


12.見返りを求めない奉仕


しかし、誠実な働き方は報われないことが多い。こちらが誠意を持って相手に接しても、向こうが誠意を返してくれるとは限らない。

「お客様は神様だ」という言葉がある。店員が最大限のおもてなしをしても、客の方はふんぞり返って怒鳴りつけたり、相手を機械か何かだと思っているのか、目も合わせず無視したりする。

あるいは、真面目に働いていても、上司は労いの言葉などかけてはくれない。自分は同僚のミスをカバーしたり仕事を代わったりしているのに、相手は自分が大変なときに他人事で助けてくれない。部下を陰ながらサポートしていても、部下は一向に気づかず、こちらに敬意さえ払わない。

そうした事例は珍しくない。大抵の場合、思いやりは一方通行で、たまに気持ちに応えてくれる人がいたら、それを大いに喜ぶべきである。こちらから優しくすれば、みんなが優しくしてくれるとは期待しない方がいい。

感謝されることやお礼の品が貰えることを目的に人を助けるべきではない。勿論、たまには恩返しを受けることもあって、それを無理に断らなくてもいいけれど、最初からそうしたお返しがあると想定するべきではない。何の見返りもなくても、相手が助けられたことに気づきさえしなくても、人に親切にするべきである。

あなたが誠実に生きて、世のため人のために働いていることを知る人が誰もいなくても、自分だけはそれを分かっている。
社会に貢献している自分、誰かを笑顔にしている自分は、生きている価値のある人間だ。そのことに誇りを持って自分自身を愛することができる。

自分を愛することのできる人生は幸福だ。だから、人に優しく生きるのがよい。



13.時間とは経験である


労働には自己犠牲的な側面がある。自分の時間を売って、会社のため、あるいは社会のために働く。その代わりに給料が貰えるのだが、既に論じた通り時間そのものの対価として給料が支払われるわけではない。

そもそも時間を「売る」という表現は適切ではない。物を売ることはそれを手放すことであり、お金も使えば手元から無くなる。しかし、自分の時間を他人に譲渡したり、他人から時間を貰って自分のものにすることはできない。

親は自分の時間を子育てに割いているし、仕事では与えられたタスクがあり、自由に自分の時間を過ごすことはできない。しかし、誰のために時間を使っていても、その時間は自分のものである。その場にはあなたがいて、その時間の中であなたは様々なことを経験して色々なことを思う。

自分で時間の使い方を選べなくても、その時間の中で経験したことはあなたの中に残る。社畜のように働いている時間にも、あなたには意識があり、人格があり、あなたは生きている。

すなわち、時間とは経験であり、生きることそのものなのである。

仕事では、多かれ少なかれ自分のやるべきことが決められている。しかし、あなたがどのように働くのか、職場での経験にあなたが何を思うかはあなた次第である。

自分の自由を奪われていると思い、職務をただ受動的に機械的にこなすならば、そこから得られるものは給料を除いてほとんど何もないだろう。
しかし、仕事に前向きに向き合えば、仕事を楽しむこともできる。誰かのためになる良い仕事をしようと思ったら、貢献感を得られる。あるいは、仕事での経験から、人付き合いや計画性などを学ぶこともできる。

仕事は利他的な行いであるのみではなく、自分の人生を充実させることや、自分自身の成長にも繋げることができる。

時間は売るものではなく、いつも必ずここにあり、その意味で誰かから報酬を与えられなくても、自分自身の経験が自身の利益になる。
どんな過ごし方をしても時間は平等に流れていくから、意識的にその時間を自分がどう生きるかが大切だ。


14.「あなたのためを思って…」


給料や返礼が貰えることを期待するのではなく、自分で自分に褒美が与えられるように働く。
働くことに充実感や貢献感を覚えて、自分の働いている時間を豊かなものにする。

自分のために働き、自分のために生きる。そう言うと、利己的で自分勝手に聞こえるかも知れない。しかし、実は他人のために何かをする行為は危険なのである。

子どもの自由を奪う毒親は、口を揃えてこう言う。「あなたのためを思って…」と。
しかし、子どものためを思ってすることが、必ずしも子どもを幸せにするわけではない。
勿論、多くの子どもは勉強なんてしたがらないわけで、子どもに強く言い聞かせて勉強をやらせることも時には必要である。
だが、毎日塾に通わされて、中学受験や大学受験をして、名誉ある職業につき、それで子どもは幸せになるのか。必ずしもそうではない。

「あなたのため」と言ってすることは、自分の価値観を相手に押し付けるものである。自分にとって良いことが、相手にとっても良いこととは限らない。それを確認せずに親切な行為をしようとすると、寧ろ迷惑にさえなり得る。

高齢者や障害者を助けようというとき、発展途上国の子供たちを支援しようというとき、あるいは女性の権利を守ろうというとき。「かわいそうだ」と同情して手を差し伸べるとき、無意識の内に自分は優越していて相手は劣っていると、相手を見下してしまっている可能性がある。

社会的弱者と呼ばれる人達が本当に求めていることは、ひょっとすると対等な人間として扱って欲しいということかも知れなくて、相手を下に見るのはとても失礼なことだ。もっとも、何でもいいからとにかく助けてくれと思っている場合もあるだろうが。

生きづらい思いをしているように見える人達にも、彼らなりの生活があって、彼らなりの幸せの形があるかも知れない。もしかすると、苦しい思いをしている分、彼らは自分よりも大切なことに気づいていて、本当の意味では自分よりも幸せなのかも知れない。そうしたことを考慮せずに、自分が良いと思うものを他者に押しつけてはならない。

あるいは、「相手のため」と言ってすることは本当に相手のためなのか。本当は、自分のためなのではないか。子どもに高学歴になって欲しいと思う親は、子どもに将来苦労しないで欲しいと思っているのではない。自分の子どもはすごいと自慢したいのではないか。子どもが立派に育たないと、世間に顔向けできず自分が恥をかくと思っているのではないか。勿論、子どもの幸福を願う気持ちがないわけではないだろう。しかし、そこに潜む自身の欲求からは目を背けようとしているのではないか。

こうした考え方は、他者本位的なものである。他者がどうであるかに従って、自分のあり方を決める。他者に求められていることをして、他者の期待に応える。あるいは、相手から良く思われたいと考え、世間からどう思われるかを気にする。

他者本位的な生き方は利他的に見えて、その実は自分勝手なものだ。他者が自分の思い通りに動くことを期待して、自分の人生を他者に委ねている。自分で自分の行動や判断に責任を持つことを恐れるから、「あなたのためを思って…」と他者に押しつけるのである。


15.自己本位的な生き方

相手のためにやっていると思うと、最初は見返りを求めるつもりがなくても、だんだん苦しくなってきて、つい相手が自分のために何かしてくれることを期待してしまう。自分はこんなに頑張っているのだから、もっと報われていいはずだと考えてしまう。

だが、最初から自分のためにやっていると思えたら、自分で選んだことだと思えたら、見返りがなくてもいいと思えるのではないか。

自分が助けたいと思うから助けるのであり、それを相手が迷惑だと拒むのなら仕方がない。
あなたがスポーツから人生の大切なことを学べると思い、もっと多くの人にスポーツの良さを知って欲しいと考えても、サッカーが嫌いな人に無理矢理サッカーをやらせるのは親切ではない。サッカーを教えたいと思う人は、サッカーを教わりたいと思う人に教えるべきである。そして、教えることができていることに感謝すべきである。

これが自己本位的な生き方である。自分の人生は自分で選び、そのことに自ら責任を持つ。それで何か上手くいかないことがあっても、無闇に他人のせいにはしない。自分の力で生き、他人にはなるべく迷惑をかけない。つまり、自立するということである。

他人の期待に応えるのではなく、世間体を気にするのでもなく、自ら他者に与える人生を選ぶのである。


16.より良い社会のために


働くことは他者に貢献することであり、それは自分自身の幸福に繋がる。しかし、言うまでもなく、仕事は個人の幸福追求のためだけにあるのではない。

第一に、仕事は社会を維持するためにある。毎日便利な暮らしができているのは、社会を支える多くの大人達が懸命に働いているからだ。今日も家の電気がついて、美味しいご飯が食べれて、電車に乗ることができるのは、顔も名前も知らないたくさんの社会人のおかげである。そのことに感謝して、自分もその社会の一員として働くのである。

第二に、仕事は社会をより良くするためにある。
近代以降、経済は成長するものと考えられ、それと共に技術が発達し、社会はより便利で住みやすいものになっていくと考えられている。ここで、利益を拡大する営みが労働である。

コンビニのバイトが働いて給料を貰う度に社会が進歩しているという実感はないだろうけれど、確かに技術は驚くべきところまで進歩し世の中は便利になった。
だが、経済的に豊かになり暮らしが便利になっても、必ずしも人々は幸せになるわけではない。

では、より多くの人が幸せになれる、より良い社会をつくるためにはどうしたらよいだろうか。

より良い社会のあり方や、それを実現するための政策は様々なものが考えられるだろう。しかし、ここで政治家や技術者の立場から社会全体の改革を提案しても、それを知った市民の一人ひとりが実践できることは多くない。
より良い社会のために、誰にでも実践できることは何か。それは、人に優しくすることである。誰かのために自分ができることを実践することである。

一人ひとりが関われる世界は小さなもので、大きなものを変えることはできないだろう。しかし、一人ひとりが自分の小さな世界でできる限りのことをしたら、必ず社会全体がより良くなるはずである。もしかすると、経済は豊かにならないかも知れないし、技術は発展しないかも知れない。でも、優しい人がたくさんいて、みんながお互いに思い合える世界の方がきっと素晴らしいだろう。


17.Pay it forward.

「ペイフォワード」(pay it forward)という考えがある。日本語では「恩送り」とも訳される。自分が親切な行為をしてもらったとき、それをしてくれた人にお返しをする一対一の関係が「恩返し」だ。それに対して、ペイフォワードは、自分がしてもらった良いことを、誰か他の第三者にしてあげることである。

気持ちのやり取りは、非対称なことが多い。どうしても親や先生からは与えられてばかりで、与えられたのと同じだけを返すのは難しい。
あるいは、見知らぬ人に助けられたとき、再び会うことがなければ感謝を伝えるのも難しい。

しかし、ペイフォワードなら実践できる。自分が困っているときに先輩に助けてもらったなら、今度は自分が先輩になったとき後輩を助けてあげたらいい。自分が受けた優しさの分だけ、誰かに優しくできる人になるのである。

自分が誰かに親切にしようとしたとき、必ずしもその思いは報われるわけではない。しかし、自分が優しさを向けた大勢の誰か一人は、自分と同じように優しさを持って生きるようになるかも知れない。

そうやって、人に優しくできる人が一人ずつでも増えていけば、世界は必ずより良い方向に向かっていく。


18.なぜお金に盲目してしまうのか


ここまで長々と書いてきた割には、ずいぶんとありきたりなことばかり言っていると思う。
お金を稼ぐために働くのではなく、他者に貢献するために働くべきである。給料が貰えることよりも、自分が誰かの役に立っていると思えることの方がずっと嬉しいことであり。そして、経済的な豊かさよりも精神的な充足の方が幸せであるためにより重要である。

そうしたことは、今までいくらでも言われてきたことだ。では、それなのになぜ、人はお金を稼ぐことにばかり盲目してしまうのだろうか。あるいは、なぜ裕福な人を羨み妬み、自分は貧しいから不幸なのだと僻んでしまうのだろうか。

2つの理由が考えられる。1つ目は、何が幸せかが分からないからだ。裕福なら必ずしも幸せというわけではないと分かっていても、ではどうしたら幸せなのかは分からない。すると、幸福度それ自体を測ることはできないから、経済的な豊かさや社会的地位によってその尺度を代替しようとする。

より良い人生みたいなものは抽象的で漠然としていて、余程哲学が好きな人でもなければ考えてみてもよく分からない。だから、お金があること、地位が高いこと、物質的に豊かであること、才能や容姿に恵まれていること、そうした具体的な要素を通してでないと幸せというものを考えることができない。


19.社会的評価の欲求


2つ目は、人が社会的評価を気にするものだからである。一般にお金があることは良いこととされている。また、立派な仕事に就いていれば尊敬の眼差しを受けるし、優れた実績を残せば名声を浴びることができる。反対に、貧乏な人はみっともない、だらしないと思われる。誰にでもできる肉体労働などしていると、それしか出来ない、能力のない人だと思われる。一方で、他の誰かにはできない特別な仕事をする人は、代えのきかない、素晴らしい価値を持った人間だと見做される。

人が社会的地位を気にするのは、職業や肩書きだけではない。例えば、お金があることよりも愛し合うことが幸せだと考えたとして、それは本当に恋愛そのものを求めているのだろうか。

恋人がいることは、社会的なステータスである。恋人がいるということは、容姿が良いのか、お金持ちなのか、天才的なアーティストなのか、あるいは人格が素敵なのか、はたまたセックスが上手いのか、少なくともその相手からは自分が価値のある人間だと思われているということである。

そして、誰もが恋愛は素晴らしいものだと思っている。恋愛を経験したことがない人も、世の中の様々なメディアの影響によって恋愛は良いものだと刷り込まれている。だから、恋人がいることは自慢できることで、恋人がいないと卑屈になる。
また、恋人と長続きしない人や一度も付き合ったことがない人は、人格に問題があるのではないかと疑われる。あるいは、人は結婚して家庭を持って初めて一人前だと考えられたりする。

自分の恋愛事情によって自分の価値が測られてしまう。あるいは、素敵な恋人をつくることで自分自身の価値を高めようとする。このように、人は社会的評価を気にして恋人を求める。それが全てではないが、そうした側面はある。

このように、人は誰しもが、他人によく見られたい、世の中から認められたいと思っている。自分は生きる価値のある人間だと思いたいけれど、それは自己評価だけでは駄目で、他人からも承認されなければならないと思っている。


20.自由であるより楽に生きたい

多くの人は、自己本位的に生きることができない。自分はどのように生きたいのか。何を幸せだと感じるのか。自分の軸を持って、自分の思うように生きることができない。
なぜなら、自分が価値を見出すものと、社会で価値があると見做されているものが異なっているとき、社会とは違う自分の価値観を信じることができないからだ。

また、自分が社会の枠から外れることを恐れる。非常識だと後ろ指をさされることを恥じる。それから、社会で決められたレールの上を走っていれば楽だけれど、自分で自分の道を決めるならば誰の導きもない中で自ら選択しなければならない。自分一人で走り出したら、誰も助けてはくれないかも知れない。

自由であるということは、自分の人生に責任を持つということだ。人は毎度自分の頭で考えるということをしたくないし、将来に不安を持ちたくない。失敗することを恐れるし、自ら幸せを掴むよりも誰かから救済されたいと思う。

だから、人は自由な生き方を放棄する。社会に敷かれたレールに乗って働くことを人生の目的とする。自ら掴む幸せよりも楽な人生を選ぶ。
しかし、他者本位の人々は、いつか自分にも幸運が舞い降りて報われる日がくると、半ば諦めながらも心のどこかで願っている。


21.人間は社会的な存在


世間体ばかりを気にして自分のやりたいことができないのは、よいことではない。自らの意思で生きる方が素晴らしい。しかし、社会的評価を気にすることは人間の宿命でもある。

人間は社会的な存在である。自己はそれ自体では成立せず、他者と関わり合うことによって初めて自己たり得る。人と人が関わり合って社会をつくるのであり、全ての個人は社会からの影響を受けている。だから、他者からの評価や社会通念は自身のアイデンティティに関わる極めて重要な問題なのである。

人は一人では生きていけない。だからこそ、他者と関わり合い、心を通わせることができる。それは何物にも代えがたい素晴らしいことだと思う。人間は社会的な存在だから、他者や社会と良い関わり方をして生きるのがよい。自分の力だけで生きる強さは必ずしも必要ではない。

他人によく思われたいと思うなら、他人に優しくするのがよい。自分に生きる価値があると思いたいなら、社会に貢献する人になればいい。
人から優しくされることは、何だかんだ言ってかなり嬉しいものである。そして、自分が他人の幸せのために何かをすることができたというのは、これ以上なく嬉しいものだと思う。

何が幸せか分からないなら、「何かに貢献する自分に価値を見出だせること」を幸せだと思えばいい。勿論、貢献感と幸福感が必要十分だとは思わないし、他にも様々な幸せの形があるだろう。でも、お金を稼ぐことや社会的地位を指標にするよりも、「自分がどれだけ他者に与えることのできる人間か」を指標にした方がずっと参考になると思う。

幸福論は結局は価値観の問題であり、何を幸せと感じるかは人によって異なるだろう。人生は多様なもので容易くは語り尽くせないし、その人生が幸せであるかは一つの要素からは判断できないかも知れない。
しかし、働くということは社会で生きる全ての人に関わる問題であり、この議論から導かれる「貢献することの喜び」は一つの真実だと思う。

社会で正しいとされていることと自分の価値観との間で揺れ、どう生きればいいか分からなくなったときには、「人から優しくされると嬉しい」とか「誰かの役に立てると嬉しい」といった素朴な思いを大事にして欲しいと思う。

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