ゲーテ/手塚富雄訳「ファウスト」

ファウストはもともと民衆の間で人気を博していたドイツの伝説でしたが、ゲーテによって世界文学の古典として輝き、その後もトーマス・マンやブルガーコフなどがファウストをモチーフにした作品を著してきました。日本ではなんといっても手塚治虫。生涯に3度「ファウスト」の漫画化を試みました。3度目の挑戦となった「ネオ・ファウスト」は惜しくも彼の早すぎる死によって未完となりましたが、かようにファウストの伝説は多くの創作者を刺激し続けていたのです。そしてその中でも質・量ともに飛びぬけているのはやはりゲーテ版だと思います。

しかしゲーテ版「ファウスト」には、いくつか手にとるのをためらわせるハードルがあります。ひとつは、この作品が詩劇の形式で書かれていること。現在の私たちが接することが多いのは散文ですから、見慣れぬ形式、それも「詩」+「戯曲」の二つがセットとなるとためらいを覚えるのもやむを得ない仕儀かもしれません。
ふたつめは、(キリスト教の)神による救いがテーマのひとつであること。そのため読んでも実感がわかないのではと感じる人が多いようです。

にもかかわらず、「ファウスト」はとてつもなく面白い。ここには、詩人で、劇作家で、科学者で、政治家でもあったゲーテが持てる手札を全てつぎこんだ(ヨーロッパ文明の範囲ではありますが)、巨大な世界が広がっています。悪魔と契約し、才能と力をもった若者として生まれ変わる設定は、「なろう系」の異世界転生ものの先駆けともとれますし(さすがにあれほど無双してはいませんが)、少女との悲恋、人造生命(ホムンクルス)の活躍、ギリシア・ローマの神々と織りなす饗宴、女神との熱烈な恋など魅力的なテーマが矢継ぎ早に繰り出されて飽きることがありません。劇の形式をとることで実現できた大胆な場面転換がスピード感につながっています。第1部、第2部通して約1000頁の大作ですが、いざ読みだすとそれほど負担は感じないと思います。もうひとつの側面である詩の本来の響きについてはドイツ語に通じていない私には語ることはできませんが、グノーのオペラ「ファウスト」、シューベルトやシューマンによる歌曲、マーラー「千人の交響曲」(第2部が最後の場面に曲をつけたものになっています)などを通してその片鱗をうかがうことは可能です。

最後に翻訳について。現在、日本語の翻訳はいくつか刊行されていて、森鴎外訳は「青空文庫」でも読めます。さすがに堅さを感じるところはありますが、意外と読みやすい。散文形式の訳にしたことで読みやすくなっていると評価の高いのは池内紀訳(集英社文庫)ですが、私にはかみくだき過ぎているように感じられて物足りなさがありました。「超訳」ぽいのですね。その他、岩波文庫の相良守峯訳、新潮文庫の高橋義孝訳なども定評がありますが、私に一番しっくりきたのは中公文庫の手塚富雄訳でした。平易さと格調高さのバランスが素晴らしいのです。第1部の巻末に収録された、訳者自身による解説「一つの読み方」も読み応えがあります。信仰の立場からではなく、「近代的ヒューマニズム」の立場から読み解いた解説は、前述の宗教的側面が苦手と感じる人にこそ読んでもらいたいですね。

ちなみに中公文庫には同じく手塚富雄訳によるニーチェ「ツァラトゥストラ」もあり、こちらも見事な翻訳なのでおすすめです。

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