多田智満子「多田智満子詩集」

思潮社から刊行されている、現代詩文庫という一連のシリーズがあります。かつてはちょっとした規模の書店の棚にはそこそこ並んでいたものですが、最近はほとんど見かけなくなってしまいました。四六判サイズで1冊およそ150~160頁前後。活字のサイズは小さめで二段組となっており、当然ながら単行本と比べると余白などの点で見劣りするものではありましたが、戦後を代表する詩人たちの作品が廉価で入手できることの意義は大きく、学生時代は随分とお世話になったものでした。度重なる引っ越しや蔵書の整理のため、今でも手元に置いてあるのは数冊だけになってしまったのですが、「多田智満子詩集」はその数冊の中の一冊です。

多田智満子の名前を知ったのは詩人としてではなく、マルグリット・ユルスナールの比類なき傑作「ハドリアヌス帝の回想」の翻訳者としてでした。その格調高い、硬質な訳文は三島由紀夫をして「多田智満子さんて・・・あれは本当は男なんだろ?」と言わしめたほどで、およそ通俗的な「女性的な文章」のイメージからは遠く隔たったものでした。

次に彼女は知的で刺激的なエッセイの書き手として私の前に現れました。浅田彰さんの、確か「逃走論」に収録されている読書案内だったと思うのですが、そこに鏡について論じた「鏡のテオーリア」が取り上げられていたのです。澁澤龍彦による「私たちはこのアリアドネーに似た閨秀詩人の手引きによって、鏡の国の迷宮をさまよい、その無際限の乱反射に目を奪われ、最後に、鏡の秘儀に参入することを得るだろう。」との推薦文にも惹かれ、一読たちまち夢中になりました。

こうした出会いを経てようやく詩人、多田智満子にたどり着きました。「多田智満子詩集」に収録されているのは、彼女のデビュー作である「花火」から第5詩集「贋の年代記」までの初期の作品群なのですが、期待にたがわぬ知的で乾いた抒情を湛えた詩に多数触れることができて、折に触れ読み返す一冊となったのです。

曙は薔薇色の指をもちあげた
小鳥たちは歌いはじめた
しかし枝はまだ眠っていた
鳥たちの新しい恍惚のなかに
いくつの音符がちりばめられたか
緑の蛇に巻かれたまま
枝はひそかに風の劫掠を夢見た
(「朝の夢」)

昨日は今日に
おそらく明日は今日に似て
祝婚の歌の折返句(ルフラン)さながらに
この日また虚無の賑やかさ
春の詭弁に馴れた枝が
ひと葉ひと葉に太陽の像を結ぶとき
とざされた城の奥ふかく
鏡はいちはやく秋のけはいにふるえる
ひびわれたその鏡面のかけらごとに
映る幾百の姿が相似るように
(「城」から冒頭部分)

どちらも第1詩集「花火」に収録されている作品ですが、後者には既に後年の「鏡のテオーリア」に通ずる認識がうたわれていることに驚かざるをえません。

子どものぶらんこ遊びも彼女が取り上げるとこうなります。「子供の領分」と題された一連の散文詩から冒頭部を引用します。

個体発生は系統発生をくりかえす。ぶらんこする子供は蔓草にぶらさがった我々の毛むくじゃらの祖先を再現している。
不器用におしりをつき出し、ひざを曲げ、腕でゆさぶってもぶらんこの漕げない幼児にとって、この板の鎖から成る遊具は「云うことをきかない」世界の象徴である。ようやく思いのままに漕げるようになった子供の顔は、征服者の誇りと喜びに輝いている。
(「ぶらんこ」より前半部)

私生活では結婚して六甲に住み、主婦として母親として穏やかに過ごした多田ですが、詩作の上では果敢な試みを行っていました。本詩集ではLSD体験(医師の立ち合いのもと行っています)を元にした「薔薇宇宙」がその代表といえるでしょう。最後にこの作品の美しい終結部を引用してこの拙文を終えたいと思います。

宇宙は一瞬のできごとだ
すべての夢がそうであるように
神の夢も短い
この一瞬には無限が薔薇の蜜のように潜む

復元された日常のなかでも
あらゆる断片は繧繝彩色がほどこされてある
夢はいくたびもの破裂に耐える
私の骨は薔薇で飾られるだろう
(「薔薇宇宙」よりエピローグ)

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