安田登「身体感覚で『論語』を読みなおす」

「論語」は不思議な書物です。ぱっと見ただけでは、孔子の言葉の断片が脈絡なくならんでいて、聖書や仏典のような壮大な物語性は感じられません。書かれていることも礼儀は大切だとか親を敬えといった、なんとなく古めかしい道徳めいたことばかり・・・しかし、古来より幾多の人びとに読み継がれ、生き続けているのです。中島敦の「弟子」のような、論語に題材をとった優れた小説もあります。最近では高橋源一郎さんの新訳「一億三千万人のための『論語』教室」が話題になりました。

そうした中にあって、本書はユニークな視点で「論語」を読み解いた一冊として独自の位置にあると思います。能楽師の安田登さんが「論語」とは世界で最初の「こころのマニュアル」だったのではないか、という視点から、甲骨文字にまで遡って「論語」の言葉、概念を洗い直していく試みなのです。

安田さんによると、“心”という漢字は孔子が活躍した時代の500年前まではこの世に存在していなかった、比較的新しい概念だったということです。かつて、人間には「心」がなかった。「心」とはこの場合、自由意志と言い換えることができます。では自由意志がなかった太古の人間はどうやって生きていたのでしょう。安田さんは認知考古学や心理学の成果を参照して、太古の人間は自分の力ではどうすることもできない大きな力、すなわち運命、宿命の「命」に従って生きていたと説明しています。そして、いつしか人間は与えられた運命をなんとか変えようとする意志=「心」を手に入れたのです。

「心」を手に入れたことで人間は大きな自由を得ることができました。しかし、それは同時に、「悲」や「怒」、「悩」のような新たな苦しみをもたらすことにもなったのです(いずれも「心」の文字が含まれていることに注意してください)。こうした諸刃の刃といえる「心」をどう使いこなすか、どうすれば「心」によってもたらされた苦しみを人間は克服することができるのか。この難問に自らも悩み、苦しみながらも答えを出そうとした人物が孔子でした。

こうした視点から「論語」に記された概念を読み解いていくと、古めかしいと思われた「孝」や「礼」といった言葉がぐっと生き生きしたものになってきます。孝行がなぜ大事なのか。それは私たちの意志を鍛える力があるからです。「礼」とは単なる形式ではなく、人を動かす力を持つ魔術であり、自他を変容させる通過儀礼であり、自分を捨てて相手になりきり、目の前にいる人と着実にかかわるためのマニュアルなのです。

その他にも数々の概念が安田さんによって新たな光をあてられ、次々と読者の前に立ち現れていく様は実にスリリング。「論語」を通して人間の心の謎に迫る野心的な論考です。近年「こころ」の働きに強い関心を持つようになった私にとって、この本はとても刺激に満ちた読書体験でした。

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