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『キッズ・リターン』(解読)

『キッズ・リターン』 1996年
脚本・監督:北野武
製作:森昌行、柘植靖司、吉田多喜男
撮影:柳島克己
編集:北野武、太田義則
音楽:久石譲
キャスト:金子賢、安藤政信、森本レオ、石橋凌、モロ師岡、山谷初男
上映時間:108min

あらすじ


くだらない悪戯ばっかりしてろくに授業にも出ないマサルとシンジ。ある日、カツアゲの仕返しであっけなくやられたマサルは急にボクシングを始める。シンジも誘って形だけは真剣に練習する二人だったが、初めてのスパーリングでシンジがあっけなくマサルを負かしてしまう。真剣にボクシングを続けるシンジと、辞めてやくざになってしまったマサル。それぞれの道を進むも、すぐに壁が立ちはだかる。

サクッと感想


小生は映画祭業務の関係上、普段から学生が撮影した映画をよく観るのだが、学生の映画の実に7割がいわゆる青春映画であることは事実で、皆様も想像に難くないだろう。
しかし、青春に最も身近なはずの学生が描く青春映画と言うのは9割が自慰行為に過ぎない残念な仕上がりとなっているのもまた事実である。
要は、自分が夢を追いかけて頑張ってるけど叶いそうにないとか、自分の才能が認められないのが悔しいとか、そういう自分は可哀そうなんだみたいな自白映画が多く、テーマが普遍的に広がっていないところが大きな弱点となっているわけだ。
確かにいわゆる等身大の映画ではあるのだが、それを他人にただ見せつけるだけでは何の共感も得られない。
だけれども、とっくに青春時代なんて通り過ぎたはずのおじさん映画監督が優れた青春映画を撮ることがある。
その代表がこの『キッズ・リターン』である。

もちろん映画の才能が飛びぬけているのは事実なのだが、なぜ北野武がこれを6作目に撮ることができたのかは、おそらくあのバイク事故が最大の要因のはず。
5作目の『みんな~やってるか!』の後、バイク事故によって実際に命の危機を経験した北野武は人生の再スタートの意味も込めてこの映画を作ったのだとは思う。
本人は否定するかもしれないが、それまで『その男、凶暴につき』『ソナチネ』など、死のお隣にいるような映画ばかり作っていた監督が、これほどまでに生命力に溢れた映画を作ったのだからそういう心理の変化が皆無とは考えにくい。

小生は、少しでも苦しいことがあるときにはこの映画を観るようにしている。
最後のシーンのセリフは多分小生がおじさんになってしまったとしても、永遠に心に響き続ける言葉だと思う。
元気ややる気が欲しいときは、くだらない自己啓発本なんかを読むよりも『キッズ・リターン』に2時間身を任せた方が断然元気が出るからおすすめする。

じっくり解読(以下、ネタバレ含)


以下の内容は、あくまで小生の個人的解釈に過ぎない。
ときに映画に映っていることに忠実に、ときにおせっかいな想像力を働かせながら、映画が何を伝えようとしているかについて考えた文章である。
映画の解釈は多種多様、誰がどんな解釈をしたって、誰がそれを批判できようか。
この文章が、一本の映画の深遠まで潜っていく皆様のための、一つの足掛かりとなることを願う。

ポイント①「空画」


空画という言葉が正式に映画用語としてあるのか正確には知らないが(誰かから聞いたことはある気がするが)、ある人物が元々いた場所を、その人物がいない状態で撮影しているショットを「空画」と呼ぶ。
いわゆる誰も映っていないショットのことをノーバディーズショットとも呼ぶが、それは単に建物のショットとか景観のショットとか、小道具のクローズアップだったりするのだが、「空画」の重要な点は前にそこに誰かがいたことを観客は別のショットで観ているというところだ。
最も分かりやすいのは、卒業式後の一連のショットである。
二人組が漫才の練習に使っていたマイクに見立てた箒や、屋上でボクシングの練習に使っていた原爆ボーイと書かれたサンドバッグなどのショットである。
そこにはかつて人がいた。
あるものは漫才の練習をし、あるものはサンドバッグにジャブを打ち込んでいた。
そんな彼らはもういない、という事実を、つまり彼らがもう高校を卒業してしまったことを端的に表してくれる。
実は卒業式のシークエンスには、卒業式そのもののシーンが登場しないし、登場人物が露骨に「ついに卒業だ!」とか「やつらも卒業してくれて安心ですな」とかいうセリフは話さない。
卒業式と書かれた看板がちらっと映るのと、シンジが卒業証書の筒を持っているのが多少映される程度なのだが、それに加えて先ほどの空画が挟まれるだけで卒業してしまったという感覚が、卒業というセリフを出すよりも強烈に襲ってくる。
映画ならではの画の力を最大限に活用した演出法である。

実はこの空画を映画史上最大限に活用した監督は、小津安二郎である。
小津の映画では娘が嫁いで映画が終わるというパターンが頻出するが、娘が嫁いだあとの家の抜け殻のようなショットが非常に印象的である。
もう二度と娘がいたころの日常は戻ってこないという父親の哀愁が、娘が使っていた鏡台や部屋が映されるだけで伝わってくる。
ほとんど映画は観たことないがないという(あくまで本人が言っているだけだが)北野武がこの空画を小津のように使いこなせてしまっている辺り、やはり才能の匂いがプンプンとする。
映画を勉強すればある程度分かることではありながら、自分の感覚でその手法に辿り着いてしまったのなら恐ろしい感覚の持ち主である。

ポイント②「省略の美学」


北野映画の特徴の一つとしてほとんど説明しないという側面がある。
説明的なセリフは話さないし、説明的なショットも挟まない。
むしろ説明してしまうような部分を廃して、無駄とも思える部分を残す傾向があるのだが、この辺りはポイント③で触れる人物像の問題と、芸人でもある彼の遊び心が凝縮されているところでもある。
特にバサッと中身を省略してしまう手法は「省略の美学」とも言えるが、北野映画においてはそのような省略を「笑略」と小生は呼んでいる。
編集によってバッサリ途中を削り、結果だけを示す手法は笑いを生む。
よく使うのは画面外でガッシャんと音がして、次のショットでは転んだ姿の人物だけが映されるというショットだが、これが笑える。
本作では、例えば、嫌な教師が「車には近づかないでよね!君たちは馬鹿だから( ´∀` )」みたいなセリフを残して去り、次のショットではもう燃えた車の前で消防車と、消火器を持った先生が突っ立っているというシーンがある。
「なんだよ、あいつ、ムカつくよな。燃やしちまおうぜ」みたいなセリフは決して言わせないし、火をつけるシーンは挟まない。
先生の嫌味とそれを不満そうな顔で見つめる生徒の構図だけで十分というわけだ。
他にも、タクシーが田んぼに落ちている画だけで、ああ、寝不足で落ちちまったんだなというのがすぐに伝わってくる。
眠そうにしている運転手の顔は映さないし、ハンドルをグイッと回して「うわっ」とは言わせない。
ただその結果だけをシュールに示すだけで、状況を伝えるとともにちょっぴり高度な笑いに変換させる力を持っている。
この「笑略」が北野武の武器の一つでもあり、若干群像劇のような様相を見せる『キッズ・リターン』が108minに収まっているのもその思い切った省略のおかげである。

ポイント③「矛盾した人物」


北野映画に出てくる人間は往々にして矛盾を抱えている。
悪さばっかりしてカツアゲするようなマサルなのに、ハンバーガーを買いに行かせようとしている相手が「お母ちゃんしかいないから…」と言い出すとすぐに標的を変えてしまう。
仲間のヤンキーに「お前行って来いよ」と言い放って、さっきまで買いに行かせようとしていた生徒にまで「お前、何が良いんだよ?」と聞き出す(彼が、じゃあフィッシュバーガーと答えるのも面白いのだが)。
ここで、堅物の脚本家ならマサルはそんなことしないと言い出すかもしれないが、それは違う。
マサルはそういう人間なのだ。
悪さばっかり、しょうもないことばっかり考えてるけど、変に優しいみたいなところがあるから現実の人間のように見えてくるし、リアリティが生まれてくる。
他にも、ジムの会長が試合後のイーグルにめちゃくちゃな罵声を浴びせながらも、引退するとなれば「ボクシングやったんだから何でもできるよ」と励ましてしまうというのも何だか人間ぽいなと感じる。
そう、そうやって矛盾した性格や発言をしてしまうのが人間という生き物なのだ。

諏訪敦彦監督が『その男、凶暴につき』について書いた文章でも、その人物像の矛盾について以下のような鋭い指摘があった。


【刑事である我妻がホームレスに暴行した少年の家に押しかけるシーンで、母親に話すときは「いやあ、あの二人だけで」といかにも普通の刑事っぽく話すのだが、少年の部屋の扉が開いたとたん突発的に頭突きをくらわすのである。
この我妻が持つ「普通性」と「暴力性」を、「普通なんだけど暴力的にもなる」という風に「けど」で結ぶわけではなく、「普通であり暴力的である」という風に並んだ性格として描けるのは北野武の実人生で学んできた人間性の本質であろう。
普通の映画人が脚本を書いていると、どうしても物語の枠組みにとらわれてしまい、A君はこういう性格だからこういうことはしないよねと言った風に矛盾を嫌ってしまう傾向がある。
その手法は確かにロジカルで良い脚本を生むのかもしれないが、良い脚本がいつも良い映画を生むわけではないということもまた事実であろう。】


現実の人間には深い深い矛盾が備わっていることを真に理解している人間でなければ、リアルで豊潤な物語を生み出すことはできないということを北野映画は暗に示している。

そんな金がありゃ映画館に映画を観に行って!