悲しみの澱(おり)

「そんなことで傷ついてしまうの?」
ということは、思っていても口に出さないほうがいい。
自覚したのならば、その意識を慎んだほうがいい。
そして「私はあなたのこの言葉に傷つきました」と逐一説明するのもこちらが疲れてしまうだろうから、
何も言わないのだけれども。

映画『西北西』では、レズビアン、バイセクシャル、イラン人留学生の女性たちの細やかな内面が描かれている。
彼女たちが世間から浴びせられるまなざしと言葉は、当事者でなければわからない苦しみだ。
それが映画内では細やかに、これでもかというほど描かれており、絶えず胸に針が刺さり続けているかのような映画時間を味わった。
しかし、私の中に、ほんの一瞬だけ、「マイノリティであるということは、それほどまでに痛いまなざしを、浴びなければいけないのか」という意識がよぎってしまった。
当事者でないということは、無知で鈍感でいられる特権をもつ、おぞましいことなのだ。

その事実を認識し、無意識の発言で目の前の相手を傷つけてしまったのならば、
それはただちに謝罪してしかるべきだと思う。目の前に、血と肉と心を持った人間がいるのだから。

「私は悲しかった」
「私は傷ついた」
弱者には声を出し言葉にする権利が、ある。
それがたとえ遠くに届かなくとも、その権利がある。
そして瞬発的にそれを相手に向かって抗議の言葉として伝えられなくても、言葉を紡ぐことは出来る。

例えば私には毎月必ず生理が訪れる。
普段自分が女性であるということを意識するというのは、職業柄あまりないのだが(なんせ論理的思考の世界にいられるのだから)、
生理前のちょっとした不快感から生理の最中は、否応にも私の肉体が現代の生物学で定義されている「女」であるということを認識させられる。
今でこそ生理前後で生じる気分や体調の変化は、人間という自然のリズムを感じるようでかわいらしくもあるのだが、
その生理を人間の気分の浮き沈みを例える「比喩」として、目の前の私に向かって堂々と使われることには嫌気がさす。

生理があるから私は子供を孕むことができる。
しかし、子供を作るか作らないか、産むか産まないかは、私が選択できることでもある。
私は産むことがない人生ならそれでもいい、と本気で思っているのだが、
それを純粋に私の意見として話していたところ、
「あなたは自己肯定感が低いの?」と、臆面もせずに言葉を投げかけられたことがある。

私は、声を大にしてこれらの悲しみを主張するのが得意ではない。
だからこそ悲しみの澱のようなものが、私のなかに蓄積されている感じがするのだ。
街で見かける広告の何気ない一言、写真、耳に入る人々の囁き、目線、
そして私に向かって投げかけられる言葉、世界で起きる惨事。

それらに対して、私はどうしたらいいのだろうか。

筆者は現在インドの映画学校で留学中のため、記事の購読者が増えれば増えるほど、インドで美味しいコーヒーが飲める仕組みになっております。ドタバタな私の日常が皆様の生活のスパイスになりますように!