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この300日間のこと

執筆日:2024年8月5日

2023年10月、イスラエルによるガザへの大規模な攻撃が始まったという報道に触れ、オンラインで開催された勉強会に参加した。住まいを追われて子どもとともに逃げ惑う女性の言葉が朗読された。わたしはその夜、「想像もできないほどの恐怖のなかで息をしている人がいることを思う。せめて考えることをあきらめたくない」と日記に書いた。
自分の言葉を自分自身が裏切っているということに気がついたのは何度目だろうか。10月のその日以来、パレスチナのことを自ら知ろうとしないままに230日以上の月日を過ごしていた。転職、国家試験、引っ越しといった出来事は、「わたしはわたしなりに日々を頑張って生きている」と考えるのに十分な理由になると思っていた。障がいのある人たちが暮らす施設で働きながら、わたしは人権について語っていた。わたしは「傷つき小さくされた人とともに生きることができますように」と祈っていた。

年が明けた2024年3月には、母校で感話を述べる機会があった。「人間が人間らしく生きるとはどういうことか」について書いたわたしの原稿に、パレスチナという単語は一度も登場しなかった。その日再会した友人が、パレスチナの占領に抗議する活動を昼夜問わず続けていることを知った。5月、その友人は、日本においてパレスチナに対して声をあげることもせず、まるで世界は平和であるかのように生活を続ける人たちに対して激しく怒っていた。そしてその怒りは、まさにこのわたしに向けられていた。友人の怒りから、目を背けてはいけないと思った。

6月、『ガザとは何か』という本を読んだ。この本に載っている日本在住パレスチナ人、ジョマーナ・ハリールさんのスピーチ読んだとき、沈黙を続ける態度は、そのままパレスチナ人の虐殺に加担する態度であったと知らされた。

「私たちパレスチナ人は、毎日携帯電話の動画をスクロールして、自分の国で同胞が大量虐殺されているのを見て、それに対し世界は沈黙を続けていることに、人生で最も悲しい日々を送っています。…私たちが被害者であることをいまだに証明する必要があること自体、恐ろしいことです。」

パレスチナの人たちは、虐殺を前にしても沈黙を続ける世界に対して、「パレスチナ人は殺されても仕方のない存在ではない」ということを、何十年も語り続けなければならなかった。そうして振り絞って紡がれた言葉さえ、わたしは聞こうとしてこなかった。『ぼくたちは見たーガザ サムニ家の子どもたちー』という2008年のイスラエルによるガザへの攻撃によって家族を殺された子どもたちを映すドキュメンタリー映画では、少女たちが「世界はわたしたちのことを忘れてしまった」と歌っていた。「世界」のなかに、わたしもいた。

6月、はじめてパレスチナに連帯するアクションに参加した。皮と骨だけになった子どもの遺体の写真や、血まみれの遺体袋が新宿駅前に並んでいた。ガザでは、逃げ場を奪われ避難していた人、病気や怪我の治療を受けていた人、そして医療従事者が集まる病院や学校が狙われて爆弾が落とされているという出来事の凄惨さを伝えながら、「どうしてみんなもっと怒らないんですか?」と駅前を行き交う人々に問いかける叫びは、この虐殺を前にして涙も出ない自分より、ずっと正しく、人間的な反応だった。

6月末、職場から受け取った賞与の大部分をガザ北部の食糧支援のために寄付した。賞与を貰ったら新しいお財布を買うという計画をずっと立てていたけれど、ガザでは飢餓で死んでいく人も後を絶たないという事実を知りながら、自分の欲求を満たすための必要以上の消費をすることは、もうできないと思った。こういう一つ一つの感覚を取り戻すことから、怒りと涙を忘れるほどに冷え固まった自分の心をほぐしていきたい。そして、たとえ冷えた心が動かなくても、それはわたしがなにもしない理由にはならないということを覚えていたい。心が動かなくても、手が動くなら、わずかでもお金があるなら、言葉を書けるのなら、できることを探して行動しなければいけないと思った。

7月、Go Fund Meというサイトを通じて、ガザに住む18歳のHalaさんにお金を送った。「お腹が空いていて、食べ物がない。父親も働くことができない。Help Me」というメッセージを受け取っていた。いま、わたしは20人以上のガザでテント生活を余儀なくされている人たちとやりとりをしながら、わずかなお金を送金し続けている。「わたしは、あなたのことを忘れていない」という思いを込めて。昨日受け取ったメッセージには、「テント生活は暑すぎて、ソーラーパネルで発電装置をつける必要があるからもう少しお金を送って欲しい」と書いてあった。不衛生な環境での生活と栄養失調が続いたために、湿疹のできた子どもの写真が添付されたメッセージもあった。

この300日間で、ガザではおよそ4万人が殺された。300日間、11分に1人が殺され続けたことになる。もちろん本当の犠牲者の数は、これよりもっと大きくなるだろう。この300日間で、すべての病院が攻撃を受けた。多くが完全に破壊されて病院の機能を失った。この300日間で、ガザにいるほとんどすべての人々がなんらかの病気にかかっているか怪我を負わされた。専門家は、直接的な攻撃で殺された死者の数を、飢餓と病気による死者の数がいずれ超えていくであろうと述べている。(ajplusの記事に基づく。)

この動かざる現実を前にして、わたしはまっすぐに怒ることのできる人間になりたい。人の死を、ちゃんと悲しむことができる心を取り戻したい。声を荒げ、泣き叫びたい。自分の生活を変えることなく、世界情勢について冷静に語るような態度を取りたくない。人がこれ以上死なないために自分にできることを行動に移し続けなければならない。世界の美しさや生きる喜びを語ることよりも、この世界にある深い悲しみに心を寄せることができる人間でありたい。波風を立たせないために、どっちつかずの態度を取るのではなく、「否」には 「否」とちゃんと言えるようになりたい。自分の足もとに、ちゃんと根を張って生きていきたい。わたしがいま踏んでいるこの土は、数多くの骨の埋まっている土。だれも聞き取ってくれることのなかった「助けて」という声と、血が染み込んだ土。わたしは、自分に与えられた身体や時間やお金を、いまもどこかで叫ばれている「助けて」という声に応えるためにもちいていきたい。

今日新たに届いたガザからのメッセージには、「わたしの家族は全員死にました。わたしの人生は破壊されました。わたしには、この世界になにもありません。わたしを助けてください」と書いてあった。いま、わたしは職場の夜勤室でこの原稿を書いている。もうすぐ、 夜が明ける。朝が来たら、わたしは施設で生きる人たちの手を握り、目を見つめ、言葉を交わす。そんなわたしの一日が、「人間を人間として大切にする」というその一点において、パレスチナの人たちに応える在り方となりますように、ただそのことを祈っている。


Rin Saito
さまざまな理由で、生活に困難を抱える人たちが暮らす入所型施設で生活支援員をしています。対話の場をいかに耕すことができるか、他者の生への無関心をどう乗り越えることができるか、といったことに関心があります。「資本主義」とか「植民地主義」あるいは「人権」や「尊厳」といった大きな言葉(けれど生活に密着した大事な言葉)をできるだけ自分の実感をもって(日々の生活を通して)理解したい、そのために学び考えていきたいです。

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