男女関係における成熟のしるし
イソップ童話に
「きつねとつるのごちそう」
という物語がある。
ある日きつねが、
つるを食事に招待する。
が、きつねはつるに、
平たいお皿でスープをだし、
くちばしの長いつるは
それを食べることができない。
後日今度はつるがきつねを招待し、
細長い壷にはいった料理をだし、
きつねはその中にはいった料理を
食べられない。
ウェブで調べてみると、
いくつかの違ったオチが書かれているが、
多くは、
「やられたら、やりかえす。
やったら、やりかえされる。」
的なものと解釈されているようだ。
が、
子供のころ読んだであろうこの物語を、
私は全く違った自分なりの解釈で
覚えていた。
私の頭の中でその物語は、
「お互い大切に合う友人が、
自分の好むことを
相手にしてあげようとするが、
相手にとっていいこととは限らない」
というような物語に変換され、
大人になった私は、
しばしば
男女の関係について考えるときに、
この物語を思い出すようになった。
特に、より男性的、
男性性の強い男性と
深い愛情に根ざした付き合いを
するようになってから、
よくこの物語を
思い出すようになったのだ。
「愛」でも
「大切に思う気持ち」でも
それは行動によって現れる。
または、
行動によってそれらを表現するのは
大切なことだと思う。
(行動しない、という選択も含めて)
そして、
その行動が必ずしも
相手の欲しているものとは限らない、
ということだ。
男女関係が深くなるにつれ、
ときに私たちは、
自分が求めているものを
相手に投影しては、
自分が求めていることを
相手にしてあげたくなる。
それは、
つるに出された
平たいお皿に入ったスープのように、
相手にとっては
飲めないものの場合だって。
だからと言って、
相手のために
やりたくもないことをして
自己犠牲をしろ、
と言っているわけではない。
「気持ち」を形にすると意図をして、
そのために
自分という枠を
拡張することを
選ぶことができること、
なのであり、
それは成熟のしるしと言えよう。
だが、
自分を犠牲にして、
相手のために
何かをしてしまいがちな人にとっては、
自分のニーズが
わからなくなっている場合も多い。
それをやり続けた結果、
やりたいがなくなり、
やらなくちゃだけが残り、
重荷にしか感じられず、
その感覚はわからないかも知れない。
また、ナルシスティックな人たちは、
相手のために何かしたい、
という感覚自体を、
理解できないかも知れない。
または相手をコントロールしたい、
という欲求を、
相手のために何かしたい、
という気持ちととり違えていることも。
常に自分のニーズを満たす「物」
自分にとって都合のいい「物」
としてしか、
相手と関われない人は実は結構多い。
私も自分が
長年そうであったことに
気づいてさえいなかった。
今もそれは
ときどき顔をだしては、
自分の未熟さに愕然とするくらいに。笑。
誰でも自分のやりたいことありき、
が正しいし、
その中で
違った二人が出会えれば最高だ。
そしてその真ん中に、
お互いを愛そう、
愛したい、という意図があり、
それを行動で示そうとするとき、
自分の中にもよろこびが生まれる。
ここでまた話は振り出しに戻るが、
その愛し方、
どのように愛されたいか、
というのは人によって違う。
それは相手や関係性に
それなりの注意を払い
(アテンションという意味で)、
相手を知りたいと願うことで、
見えてくる。
自分の愛の押しつけから、
相手が求める物を
与えさせてもらえるよろこび、
とでも言おうか。
もちろんお互い大人だ。
わからなかったら
どうして欲しいか聞けばいい。
また、
自分のして欲しいことを
相手に伝えてみればいい。
その中で
私にとって一番のチャレンジは、
男性にスペースをあげる、
ということ。
あげる、というと
おこがましく聞こえるかも知れないが、
他のうまい表現が思いつかない。
例えば
彼が何らかの理由で悩んだり、
苦しんだりしているとき、
私はいろいろと話して欲しいし、
力になりたい、と思う。
しかし、
男性の多くが(みんなではない)
黙って見守って欲しい、
というような傾向を持つらしい。
(どうですか?男性のみなさん!)
そんなときには、
何も聞かずに
好みの食べ物でも作ってあげたい、
と思えるようになったのは
少しは大人になったということだろう。
料理は
得意な方では全然ないけれど、、、。
大切な人に対して
「何もできない」
という感覚はちょっと辛い。
そして、
本当にあなたは
何もしていないのだろうか?
ただ心に愛を持ったまま、
黙って
そのままの相手と一緒にいる、
ということが、
相手の
一番欲しい物の場合だってあるのだ。
物理的に一緒にいられない場合、でも。
(2014/3/5)