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愛についてのデッサン

見せかけでもいい。作り物でもいい。
恥ずかしさを押し殺して言うが、ときどき愛が欲しくなる。
それは決して世界の中心なんかで叫ぶものではなく、たとえば、林の中で、風に紛れて呟くようなものである。
「甘いものが欲しい、みたいに、簡単に愛をだすな」、と愛の伝道者たちからはお叱りを受けそうだが、エセ哲学者である私は、「人生は、究極、愛と孤独である」という格言を残すぐらいであるから、愛にはいつも飢えている。
愛は何も男女関係だけにあるものではない。愛は多くの形を持っている。人生の中で身近にあるものだ。だから人はいつも何かしら愛に触れていないと、体を半分もがれたように、心もとない。

ある詩人の話をしたい。                                                                                     出来ればこの場を離れずに、その詩を二三回読み直して、感じてほしい。
ほうら、そうすれば、あなたの前にも愛の扉が見えてくる。
なんだか、催眠術師の前振りみたいになっているが、要するに(急になげやり)愛に飢えている人だけでも読んでみて。いえ、出来れば、愛をもっと知りたい方も、是非・・。

「愛についてのデッサン」

                    丸山 豊

愛する
だから私は身じろぎしない
私は聞かない
私は見ない
私は強情な点になる
愛だけがとぼとぼ歩いてい行く
貧血した顔で


おまえをだきしめる
わたしのことごとくと
おまえのことごとくが
稲妻の夜のハサミをつくる
このハサミで切りすてるのだ
愛の尊厳を


心が弱り
日がかたむくとき
愛もまたいやらしく笑う
梅干しのように
さむざむと燃える愛の力を信じるな
愛をにくめ


屠殺場の牛のように
愛がないた
いやな予感のする場所で
もっとも明快な方法で
あっけなく
愛は
その重さだけの肉になる
二月の光にちらちら燃えて
下水溝へながれてゆく血


一見すると無機的なワードが並ぶか、詩人はそれによって、いやそれこそが、愛を解き明かす唯一のものだと信じるかのように言葉を並べる。
愛には様々な形があるのだろう。詩人は抑制された文体で愛の多面性を追及する。
私は、人生の究極は愛と孤独だと、いつも開き直っている。
すると詩人は、なら、示して見せよ、と私に挑んでくる。
自分が提示する詩はあくまでデッサンだ、愛についてのデッサン、だ。その素描の上に色を乗せ、形を整えて、おまえの本当の愛を私に見せろ、と挑んでくる。 
  

石を摩擦して火をつくる
そんな具合に
やっとこさ愛をそだて
遅々とした成熟をまっている
この竪穴住居のまわりを
豹よ
みどりの目をしてうろつくがよい
 

愛はたちまち消えるが
その力はかたちをかえ
サナギのような囚人になる
やさしい死をにくみ
愛の名をにくみ
やがて
砂のながれる法廷へ立つ
手錠のまま太陽を見すえる


愛するとき
おのずから愛がくずれはじめる
もっと愛するとき
愛が死ぬ
遠いところで愛のかたちがさだまる
砂漠の町の法典のように
海の底の炭鉱のように

若い頃、私は自分の小品を(それは詩ではなかったが)この詩人に見てもらう機会を得た。
「面白く読んだよ。これからも頑張りなさい」
詩人はわざわざ私に電話をくれた。                                                                格別に嬉しかったが、未熟でまだ無邪気だった私は、わざと強がって愛想がなかった。創作することの厳しさも何も知らなかった。結果、私はそれ以後、ひとつの作品も作れなかった。自分の生き方を象徴するように、走り書きのような一文ばかりが、後に残った。
詩人はその時こうも言ったのだ。
「すこしお固く言えば、文学もまた修験のひとつである。錫杖をならしての苦痛をくぐりぬけねばならぬ」
詩人の代表作「月白の道」やこの「愛についてのデッサン」を読めば、今ようやくそのことが分かる。私にはそういう覚悟がなかった。私は詩人の期待に応えられなかった。だが、今でもこの時のささやかな交流は密かな矜持として心に残っている。

バケツと
ゴム長靴に尊厳なし
ほとばしるものを
だれかがきて
蛇口をしめる
蛇口の先
くるしみのかたちで光るのは
一しずくの愛
しずかに凍れ
共同洗濯場のくらさ

できるだけ多くの人にこの詩人が提示する「愛についてのデッサン」に触れてほしい。
そして、それぞれが、そのデッサンの上に、自分自身の愛を構築して欲しい。
かくいう私は詩人になれなかったおかげで、いまもまだ、「詩人になりたい」という夢を追いかけられている。
人に、自然に、動物たちに、虫けらたちに、山に、川に、月に、星に触れるとき、希望や絶望や、期待や悔恨や、怒りや慰めや、多くの事象に触れるとき、愛を求めて、自分なりの形にしようと、もがいている。

そんな思いを描きながら、私はまた今日も林の中を歩く。そんな時今はもうこの世にいない詩人もきっと随行してくれているに違いない。
だけどだけどまた嫌な予感が・・・愚か者の私の事、すぐにおちゃらけ、大きな樹木のちょうどいい節穴を見つけると、それに口をつけて、「王様の耳はロバの耳」ならぬ「本当は真実の愛がほしいんだよお」などと呟くのだろう。                               「だめだ、こりゃ」                          いかりや長介ばりに、詩人の呆れてる顔が目に浮かぶ。


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