夜風に揺れる恋心 ~エピローグ~
「牧く〜ん、いらっしゃ〜い」
「こんばんは」
牧がいつものようにわんだほうに顔を出すと、ちずがにこやかに迎え入れた。ちずは牧の良き理解者として、親しい友人というより同胞に近いような存在で、彼との絆を深めつつあった。
「あれからどう?春田と何か話した?」
「いえ…」
「まあさ、私が言うのもなんだけど、遠距離だからね、色々あると思うけどさぁ…ひとり溜め込んでないで、春田とちゃんと話した方がいいと思うよ?」
「はい。春田さん、もうすぐ帰国するんで、帰って来たらちゃんと話をしようと思います」
「うん、その方がいいよ。アイツ鈍感だからさ、言われないと分かんないんだと思うよ。牧君もちゃんと伝えないとね」
「はい。ありがとうございます。頑張ってみます」
「うん、応援してる。あ、そうそう、今ね、うちに来たお客さんに七夕飾りの短冊に願い事を書いて貰ってるの。牧君も春田とのこと書いてみたら?」
「ああ、店先にあったアレですか?でも、誰かに読まれたら恥かしいな」
「別に無理にとは言わないから。書きたくなったらこれに書いて、表の笹に吊るしておいてね。大丈夫、私たちは見ないから」
「はい、わかりました」
「あ、いらっしゃいませー!じゃ牧君、ゆっくりして行ってね」
そうちずは言い残すと、他の客の接待へと向かって行った。
牧はちずが残して行った短冊を見つめると、心の中でひとりごちた。
春田さんと花火大会に行けますように
ささやかな願い事。ずっと楽しみにしていた花火大会。何も確かな物がない牧にとって、それは大きな意味があった。たとえそれだけのことであっても、今の自分を支えるためには何かに縋りたかった。心の裡で膨れ上がる不安を打ち消すように、牧は短冊を手に取るとそこにペンを走らせた。
🔹 🔹 🔹
——— 香港
「ちょっとお兄さん!」
「ん?」
「これ、凄く良い物だよ。綺麗だよ。本物だよ。安くしとくよ」
「う〜ん」
「良く見て永遠の愛だよ。買っちゃいなよ」
「永遠の愛?」
「そうそう!こっちこっち」
宝石商の女性に声を掛けられた春田は、〝永遠の愛〟という言葉に釣られて店内へと足を踏み入れた。
「お兄さん、もうすぐバレンタインデーだよ。買っちゃいなよ」
「え?バレンタインって2月じゃないんですか?」
「それは普通のバレンタインね。香港の七夕は〝香港のバレンタインデー〟と呼ばれていて、男性から女性に贈り物をするんだよ」
「えー?!そうなんですかー。日本の七夕は短冊に願い事を書いて、それを笹に吊るすんですよ。夢が叶いますようにって」
「お兄さんの夢は何かな」
「大好きな人と家族になることです」
「いいねー!だったらコレをその人に贈ってあげたらいいよ!永遠の愛だよー。安くしとくよー」
「Forever Love?」
「そうそう!Forever Love」
「よーし!買ったぁ!」
それぞれの想いをそれぞれ胸に秘めて、二人の忘れられない夏が始まろうとしていた。
結ばない視線の先にそっと触れて、そっと託す
🔹 🔹 🔹
『お父さん!りんごあめかってー!』
『お母さんに聞いて、いいって言ったらな』
『お母さーん!りんごあめかってー!かってー!』
『さっき焼きそば食べたばっかりじゃない。ダメダメ』
『えー?!お父さーん』
『はは、母さんがダメって言うならダメだなぁ。よし、じゃあ、水ヨーヨー釣ろう!』
『うん!』
『また〜あなたは甘いんだから〜』
『ねー!はやく!はやくー!』
「…いち?そーいち!」
「 ん、なに?」
「さっきからなんであっち見てるの?いこー」
「うん」
「創一君、何か欲しいものある?おばさんがなんでも買ってあげるわよ」
「えっと…なんにも…ない」
「あらー遠慮しなくていいのよ〜?おばさん、幸枝さんから創一君のこと頼まれてるから。お金のことなら大丈夫。幸枝さんから創一君の分はちゃーんと貰ってるからね」
「かーちゃん!おれ、りんごあめ欲しい!」
「なに言ってんの。鉄夫はさっきから食べてばっかりじゃないの」
「かぁーちゃーん」
「そーいち、こどもはえんりょとかしなくていいって、いつもお父さんが言ってるよ?」
「うん…でもいい…なにもほしくない」
——— 俺が欲しかったのは、大好きな人との時間。
「突然だが、どうか息子と別れてやって欲しい」
「え?」
「凌太は昔から聞き分けのいい子で、私たちに逆らったことは一度もなかった。逆にそれが心配なこともあった。最近やっと自分のやりたいことが見つかって、生き生きとしている息子を見るとほっとするんだよ。親としてはそれを心から応援してやりたい。だからあの子の負担を減らしてやりたいんだ。どうか分かってくれ。君との生活の両立ではなく、仕事に打ち込ませてやって欲しい」
「それは息子さんにとって俺が負担…ってことですか?」
「凌太のことを本当に想ってくれるなら、どうか息子の夢を応援してやって欲しい」
「………」
🔹 🔹 🔹
「だったらずっとひとりで抱えてろよ!」
俺はずっと大好きになった人と家族になりたかった。一番親しい友達じゃない、いつも傍に居てくれる恋人でもない、遠く離れてもずっと同じ未来を歩いて行ける家族に。
でも、それは諦める。牧が何もかもひとり抱えて生きて行くと言うのなら、俺は牧の傍に居る意味がない。だったら俺は牧の前から消えるしかない。俺はまた、ひとりぼっちだ。
寂しい、寂しい、辛い…。
「全然、キレイなんかじゃねーよ…」
🔹 🔹 🔹
牧がシンガポールに発って数ヶ月が過ぎようとしていた。
鉄平から新メニューの試食をして欲しいと頼まれ、春田はわんだほうへ向かっていた。せっかくの休日の呼び出しに嬉しさ半分、面倒臭さ半分といったところだ。どこからか風に乗って香る金木犀の匂いが、そう遠くない記憶を呼び覚ます。
カラフルな水ヨーヨーに賑やかな祭り囃子の音、夜空を彩る打ち上げ花火。君とあの夏に見た風景。
春田はスマホを取り出すと『牧 凌太』と表示されている画面を慣れた手つきで タップした。ほどなくして愛しい人の声なが聴こえて来る。いつもの他愛ない会話。電話越しの声は明るく、忙しいけれど充実した毎日を送っていると笑った。
「なぁ凌太、もうひとりで泣くなよ?」
『え?なんですか、いきなり』
「ん…?もうすっかり秋だなぁーと思って」
『…ふは…なんですか、それ』
遠くから聴こえる声が、かすかに微笑んでいるのがわかる。心の奥底に沈めた 傷みがときどき揺れて、寂しさを引き寄せる。
「…会いたいな」
『……俺もです…』
「…今度、日本に帰って来る時、蜜柑ゼリー買っとくわ」
『ふふ…ありがとうございます。でも一口ちょうだいってのはナシですからね』
「お前、ホント、そういうとこだぞ」
『あーはいはい』
見上げた秋の空はどこまでも澄み渡り、あの日の青い空へと繋がっていた。 寂しさを隠した笑い声が届くようにと、秋の風へと乗せた。
遠く離れた君の街まで。
🔸 🔸 🔸
「はぁ〜もう疲れたぁ〜」
春田は大袈裟にそう言うと、実家から運んで来たソファーにドカッと腰を下ろした。
「疲れたって、創一はほとんど何もしてなかったじゃないですか。これからここで一緒に暮らすんですから、今日中に全部終わらせとかないと」
シンガポールでの勤務を終え、牧は本社勤務となった。それを機にひとり暮らしをしていた春田は部屋を引き払い、牧との生活をスタートすることになった。
朝から武川とマロが加勢し、牧の母も手伝いに加わったので、粗方の引越し作業は終わっていた。わんだほうで出前を取り、皆で一息ついた頃、「後は俺たちでやります」と牧が声をかけて解散となった。
「そこ、掃除機かけるんで戸を開けてくれますか?」
「うぃ〜」
春田は掃き出し戸開けてベランダに出ると、ひとつ大きな伸びをした。
「んーーーっふぁ〜」
手摺りに腕を乗せて空を見上げると、日差しにはまだ夏が残っていて、すり抜けて行く風が心地良かった。掃除機の轟音を背に、春田はあの秋の空に想いを馳せていた。
牧と国際電話で話していた頃、いつか牧と住むならこんな場所がいいと思っていた。程よい喧騒に紛れ、人々が懸命に生きているこの街が春田は好きだった。風に乗ってどこからか金木犀の香りが漂う。わんだほうからもそう離れていない。
「そうだ!お義母さんにもらった蜜柑ゼリー冷やしてあったよな。一緒に食おうぜ」
牧の母が「みんなで食べて」と蜜柑ゼリーを差し入れに持って来てくれていたのだ。牧が大好きないつもの蜜柑ゼリー。天空不動産のメンバーには今日のお礼にと、牧が帰り際に手渡した。
春田は冷蔵庫から二つの蜜柑ゼリーを取り出すと、ひとつを牧に手渡し、ひとつは手に取って再びベランダへと踏み出した。
「キレイだな…」
秋の空に蜜柑ゼリーを透かしてみると、それは黄金色にキラキラと輝き、高い空に一層映えた。春田はひとり感傷に浸り、しばらくぼんやりとそよぐ風に吹かれていた。
気温差でゼリーの容器が汗をかき、春田自身もじわりと汗ばんで来た。そろそろ部屋へ戻ろうと振り返ると、ゼリーを平らげた牧が満足そうにソファーに腰掛けていた。
「え?何?もう食べちゃったの?!」
「俺の好物ですから」
そう笑いながら牧は応える。いつもは年齢に見合わないしっかりとした歳下の彼は、たまに子どものような無邪気さで春田を翻弄する。
春田は眩しそうに牧を見つめると、持っていた蜜柑ゼリーをテーブルに置き、彼の隣に腰掛けた。
「俺さ…家族みんなで花火を見に行くのがちっちゃい頃の夢だったんだよ。ずっとかーちゃん忙しかったから。リンゴ飴買って、水ヨーヨー釣って、みんなで花火見て帰る。それだけのことなんだけど、俺、そういうのがスゲー羨ましかった」
「それだけのことが、特別なのはわかります」
「ちずたちと花火見て楽しくなかったわけじゃないんだ。でも、ずっと俺はそこに居ちゃいけない気がしてた」
「………」
「ここから花火、見えるかな」
「んーどうですかね。流石に見えないんじゃないですか」
その言葉に別段、春田はがっかりした様子もなく、むしろ穏やかな表情で続けた。
「うん、そうだな。また…花火大会、一緒に行こうな」
「…はい」
牧の濡れたような大きな瞳が揺れて、テーブルの上の蜜柑ゼリーの滴が音もなく流れ落ちた。春田はそっと手を伸ばし、牧の頬に手を添えると静かに口づけた。
🔹 🔹 🔹
恋君 … 愛する人
夜風に揺れる恋心
→右から読むと炎の告白前のふたり
→左から読むと未来の夏祭りのふたり
香る金木犀の恋君
→右から読むと牧を見送った後の春田ひとり
→左から読むと牧が帰国した後のふたり
🔹 🔹 🔹
あとがき
7月20日は二人が花火大会に行った日です。ずっと春田と牧のことを考えていました。劇場版を挟むとどうしても切ない話になります。それも炎の告白のシーンで昇華されました。後にも先にもこれほど尊いラブシーンはないと思っています。
春田が物理的な肉体の死ではなく、精神の死が先に訪れても牧と共に在りたいと願う言葉に、彼の底知れぬ孤独を感じます。その孤独な魂に手を差し伸べたのは牧。それは生涯の伴侶としての意味を持つと私は思います。未だに多くの民に愛されている天空不動産。どうか多くの民の想いが公式へと届きますように。
©︎ 🌸 Pink Moon Project