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フランス現代思想から解釈する『メイドインアビス』【Part3/5】

モーリス・ブランショからの解釈

 次にブランショの視点から全体を捉えてみる。
ブランショは「書くという行為は宇宙の時間に重なることである」ということを追求した人物であった。
これをこの作品に当てはめると「探窟という行為はアビスの時間に重なることである」ということになる。
 遺物の放つ輝きは人のものさしでははかれず、常に遺物はアビスの一部なのである。
それ故に探窟家はアビスに埋没していることが本質なのだ。

 探窟家は遺物への憧れに取り憑かれ、素晴らしい遺物を探し出そうと大穴へ挑戦する。
しかしそれはアビスへ導く為のおとりである。
遺物は探窟家に探し出してくれと要請するが、アビスへ潜った途端にそれが何であったのか、そもそも存在したのかすらも見失ってしまう。
この無定見の何かを失ったことに本質がある。
アビスへの挑戦は探窟家と目的を滅ぼしていく。
 遺物そのもではなく、探窟家はそれをどのように探窟していたか、どのような関係性の中で探窟していたかが重要であるのだが、この無定見のものこそが作家を遺物をルアーにアビスへと誘惑し、遺物を殺すように仕向け、更に遺物の奥にある存在様態へと誘い込んでいくのであるとブランショの思想からこのように言い換えられよう。

 彼の「死」という共通認識の視点からも、遺物に意味づけや価値を施し、解明された途端に探窟家のリアルな体験が共通認識の中に放り込まれ、抽象化され失われる。
意味付けされた遺物はオースでの墓標である。
アビスは共通認識を壊して生々しい体験を表現する言葉へと、共通語を使いながらも抽象にとらわれないように実在を救おうとする場である。
形や言葉にならない生きることと、生きてる証拠として電報船を打ち上げたりというオースの世界の両方をリコは求め、彷徨っていた様はカフカの生き様と重なる部分がある。
 完全な個の状態でもなく完全な個の消滅でもない曖昧な状態である第二の死の場がアビスであり、探窟家はこの絶望の空間で永続する滅びの苦しみを体験する。
アビスには誰が発掘したのかもはや分からなくなる自己同一性の危機的段階や、探窟家を破壊してしまう作品として完成しているのにも関わらず、挫折感を与え、未完成だと思わせる荒廃した力も存在する。
 普遍性や共通理解が破壊されたとき、つまり「存在様態」に接近した時にそれがなんであったのかが分からなくなり、探窟家自身の身も危険に晒される。
それが六層から五層への上昇負荷を受けた人間性の喪失した異形の姿、つまり「成れ果て」の姿が表すところなのではないだろうか。

 アビスでは完結しない、どこまで続くかもわからないという主体の死を生き続ける。
その生き地獄こそが探窟家の世界なのだ。
このようにこの作品にはブランショの無為の概念が表れている。
フロイトが呼んだ無意識下の「Es(それ)」の概念もアビスとよく対応している。
これは個体としての死への欲望であるとも解釈できたが、私ではない何かはアビスに住む危険な原生生物であり、私の中に住み着いていて同時に私を破壊へと導く。

 アビスに本格的に潜る前のリコは遺物を発掘することにまだ満足できていた。
珍しい遺物を発掘して偉大な探窟家になることを夢見ていた。
しかし彼女は偉大な探窟家になるという当初の目的から母の要請へと欲望が移り変わっていった。
リコは幾度も命の危機に晒される度に第二の死から救われようと地上に逃げようとするが、探窟家に対するアビスの要請は第二の死のそれであった。
アビスでの存在様態は第二の死であり、故に上昇負荷がかかってしまう。
彼女は幼い故の実力不足から地上へと逃避したが、その実力不足は人間の極限的なものであり、「アビス」の本質に彼女を触れさせたきっかけであった。
 彼女の逃避もまた、ただの逃避ではなく、「レグ(書くこと)」でも到達できないアビスの根源に触れた逃避であった。
リコは母とアビスの両方のために探窟したが、それはアビスに完全に定住する事を避ける為であった。
リコは自己救済、未知なるもの(原生生物)、アビス、レグのための戦いの葛藤のなかにいた。
彼女もまたオースからもアビスからも排除され、その境界領域でさまよっていた。
そんな彼女の生命力の源はレグであり、母の要請をも超える世界であるアビスであった。



ジル・ドゥルーズからの解釈

 次にドゥルーズの視点からこのアニメを捉えてみる。
ドゥルーズは要素を意味へと導く近代社会の在り方を批判した人物であった。
皮肉なことにこの作品の解釈も彼の「テーマ批判」の範疇に入ってしまうが、幸いにもこの作品はいくら解釈してもしきれないほどに解釈的にもさらに内容そのものについても「逃走線」が豊かである。

 アビスの中に登場するリコと出会う人々もまた欲望機械である。
彼らはスキゾ的なあり方で、制度から逃れたり当初の目的からリゾーム状に広がる別の欲求に次々と従い彷徨っていく。
アビスの構造も単純な縦穴構造ではなく、枝分かれした横穴が無数に空いている。
入り口から出口という1対1の構造ではなく、1対無の構造をしている。
ここにアビスの無限の可能性が広がっている。

人間には構造や制度で一元化できない複雑な個別の存在様体があり、欲望がある。
この作品には解決も正解もまた無い。
多様な解釈が可能でリゾームであり、作者から何の解釈も提示されずに物語が展開され続け、作者の視点や意見は提示されない。
意味づけを近代的な枠組みへの要素として拒むこの作品の解釈をしている私自身が既にアビスの呪いを受けているのかも知れない。


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フランス現代思想から解釈する『メイドインアビス』【Part4/5】|旅思想日記|note

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