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フランス現代思想から解釈する『メイドインアビス』【Part2/5】

ジョルジュ・バタイユからの解釈

 このアニメは全体を通して今まで解説してきた芸術行為の本質についてよく対応する部分が多々ある。
ここからはバタイユ、ブランショ、ドゥルーズのカフカ解釈の重要な点をもう一度この作品に照らし合わせながらおさらいして行くこととする。

 バタイユは擾乱の中で文学に目覚め、理性では見えないものに目を開き、意識を理性の外側へと導いた思想家であったが、これはアビスへ挑むリコたちの姿と重なるのではないか。
人間の理屈や常識が全く通用しないアビスは無意識、非理性、個が解体する彼の世界のメタファーであり、一攫千金を狙う探窟家がひしめき合い互いに争い合うという擾乱に満ちたオースの街で、リコはアビス(文学空間)への憧れに目覚め、理性の外側へと彷徨うこととなる。

 また彼の超道徳の思想についても、善の視点をオースの街に置き換えると単純な善悪構造として人間の命を脅かす探窟活動はそれに対する悪、さらにアビスの境地は超越であると捉えられる。
アビスは人類にとって貴重な遺物をオースに持ち帰る為の場であり、科学発展における有用性がなければ無意味なものであった。
それは限界探窟深度を決める免許のような笛の色など、さまざまな制限を設けて個を存続させようという努力からも窺えよう。

 そのような命を奪いかねない危険なアビスであるが人の善悪の構造の破壊を目論んでいるわけではない。
前述した例をあげるならば津波や赤ん坊の泣き声のようなものである。
しかし大人の世界からみて危険なアビスは悪に見えてしまう。
よってアビスを解明して操作を目論み、人の善悪構造の中へと組み込もうとするのだ。
 だがどんなに生きていても人は根源的な幼年性を完全に失う事はできなかったように、アビスのそれもどんなに体制をより良くしても失われる事はないのである。
アビスは我々の体制を認めつつもその外に出ていくことに目を開く非理性の世界であるからだ。

 換言するとアビス(文学空間)とは探窟(書く)という行為それ自体であり、終わりなき生を彷徨う事である。
オースにとって探窟活動とは遺物の発掘(作品完成や有用性)のためだけにあったが、その実探窟行為はオース(クロノス)の時間ではなく、どこに向かっているのかわからないアビス(アイオーン)の時間に遊ぶことであった。
 よって探窟行為は遺物を発見するための手段でありかつ無用なものは無価値であるとするオースの街、ひいては個の延命という我々の近代的価値観にとって、許可のない者の探窟は断罪の対象となってしまったのであった。

 アビスは個の延命を助長する近代科学の発展に役立つ遺物の発掘行為のみに重きを置くオースとは対象的に時間が目的に隷属したり商品化されたりはせず、開けた可能性に満ちている遊びの時間である。
遺物だけに囚われずに目的的行動を破壊していくことがアビスの時間と接触する契機となる。
遺物への意味付けは大人の世界へと導く行為であり、探窟(芸術行為)とは遺物(作品)を有用性の世界に閉じ込めずに意味の枠から解放していくことである。
 そうしてはじめてデュシャンの『泉』の例のように意味が解体されてそれそのもの自体の魅力が滲み出てくる。
子供はこの変換を無意識に行っているのである。
そのように役割から外して物自体をみたとき、アビスはオースに浸透していくのだ。

 またカフカの態度と同じように幼年性を絶対視せず、有用性の世界も認めつつ揺れ動き、固定化を避けるというさまよいについてもアビスにとって重要になってくる。
それはオースの探窟家組合の掟に従いつつもそこから離れていくというリコの態度からも読み取れる。
リコ自身もカフカの境遇と同じように孤児として社会から排除されて生きていたが自己に引き篭もったり、他者を攻撃したりという完全なる逃避に身をおかず、母親への憧れから探窟家として奮闘した。
リコは最初こそ遺物の発掘に満足出来ていたのだが、あるときレグや母からの手紙と出会い、どのように探窟しても満足できなくなってしまう。
これが彼女がアビスへと本格的に彷徨うこととなる契機であった。

 作中ではものの存在様態も俎上に載る。
遺物(作品)の彼方には無限の時間が広がって(存在様態)おり、形の定まった大人としてではなく、生きているという形のないままに存在するのが生の本質なのである。
人間の根底には曖昧な深淵なる存在が常に流れている。
リコは探窟活動という行為によってアビスに挑戦しその存在に近づこうとした。

 しかしそれを達成するには挫折が必要であった。
完成されてしまっては「存在」とはならず、「存在者(作品)」となってしまうからだ。
個として完結させる死はオースの世界への迎合であり、完結しない揺らぎへの裏切りであった。
有用世界で生きて最後は墓標という「もの(存在者)」に帰結する。
暖味状況としての死を、限界体験としての死をリコは生き続けた。
アビスにて死の瞬間を持続させ、死と生のはざまの中でこそ生の輝きを実感できるのだ。
 永遠に未完成であること、このアニメで度々大切なものが破壊される描写があるように常に作品が破壊されてゆくことこそが大切なのである。
しかし作品へと結実できない探窟行為こそが第二の死を、アビスを生きるということなのであった。



ジークムント・フロイト

 次にフロイトの視点からこの作品の新たな地平を開拓しようと思う。
彼は人間の根源的な欲求として死への本能を提唱したが、快感原則の彼岸から死こそが生の本質であり、死への欲求は裏返すと「深く生きたいと」いう欲求なのであった。
アビスへの挑戦は死への欲求である。
自己自身も解体されかねない危険な空間であるが、フロイト的にその挑戦は深い生への情景でもあるのだ。

 我々には根源的な幼年性に加えて野蛮で邪悪な衝動が住みついているがそれは無意識に抑圧されており、知性は本能と情動(アビスの怪物)の玩具に過ぎず、有事の際には平気で人は殺戮行為を正当化する。
 さらに生産性や有用性の世界のオースでは声質ではなく話す内容(理性)が最重要視され、事実、笛によって認められた深度から発信された電報船の情報でなければその情報は狂気として排除される。
ここからも大人が理性で捉えている世界はいかに危ない孤島に過ぎないかを浮き彫りにしていることがうかがえる。
大人へと成長する過程で幼年性はアビスへと抑圧されるが完全になくなるわけではない。
これは幼年性の主人公であるリコがアビスにて生き続けていることと重なる。


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フランス現代思想から解釈する『メイドインアビス』【Part3/5】|旅思想日記|note

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