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スペースと行間について(後)

“母たちの恋愛“

何だかこのタイトルだけで、“母“(女性)に対する偏見が入っていると思うのは私だけだろうか?
“父“だって恋愛するかもしれないし、どこかの家庭で“母“であるひとの恋愛相手が、どこかの家庭の“父“であるひと、ということだってあるだろう。

でもここで書きたいことはジェンダー論ではない。
ひとまず脇に置いておく。

先日書いたインタビュー記事の表現で気になったのは、“たかが恋“という言葉。
婚前恋愛と婚外恋愛の重みを、婚姻関係がある無しでそんな風に分けられるものだろうか?
婚外恋愛の全てが、“たかが“と斬り捨てられるようなものではない筈だ。

結婚に繋がった恋愛が全て尊いもので、その後の恋愛は忌むべきもの、という考え方は、婚姻制度や慣習によって刷り込まれた偏見なのではないか?

不倫の定義もよく分からない。
”恋愛感情がなくとも、肉体関係が一度でもあればアウト”
恋愛感情と肉体関係が両方あるのは論外として、恋愛感情のみのプラトニックな関係はどうなのだろう?
この辺りの考察は、昨年の同じ時期に『マチネの終わりに』に纏わるnoteにも書いたけれど、いまだ明確な答えも、納得できる定義も、私自身が見つけられていない。

先月書いた何本かのnoteにも書いたように、誰かと完全に分かりあえることはないだろうし、どれくらい相手の事を想っているかなんて、恋愛関係にある当事者同士ですら分からない。
まして、当事者外の誰かに分かる筈もない。

私は、不倫や婚外恋愛を肯定したいわけではない。
ただ、当事者それぞれの状況、感情など様々な要素が関係しているのに、何でも一括りにして、赤の他人が“不貞だ“と断罪など出来ないのではないか、と思う。
もちろん、肉体関係を結んでしまったら法律上は罪、なのだけれども。

寧ろプラトニックが成立している関係の方が、手強くて厄介なのではないだろうか。
悩んで、迷って、自分の家族や相手の家族のことを思う。
理性と信頼が、お互いの命綱。
そして、キスしても、ハグしても、「愛してる」と何度メールに書いていたとしても、不貞とは認められない(のだそうだ、法律的には)。
“大事に想うからこそ、踏み込まない“
理性を保てず一線を超えてしまうより、そちらの方がよほど精神的な繋がりが強くなるのではないだろうか?

…これも、“たかが恋“と言えるものなのだろうか?

物ごとは、別な角度から見ると、別な側面、別な景色が見えてくるもの。
立場が違えば、視点も変わる。
ひとつの側面だけで、誰かを断罪することなんて出来ないのだ、と思う。

心の中なんて、誰にも見えないものだから。

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