学校に心を壊された。

限界が来ました。
完全に切れました。糸。
私が悪いのかな?もうわかりません。

私の勉強の調子

私はいま高2で、この4月から志望校を東大に変えて理科に本腰を入れる傍ら、他科目の演習、とりわけ苦手な現代文の克服に重点を置いていました。
結果、7月に受けた進研模試も8月の全統でも見違えるほどの成績を取ることができた気がしてます。
とくに現代文に関しては漸く上達の兆しを感じられるようになったんです。文章に対する心構えもめっきり変わりました。記号選択すら壊滅的だった私が、1回でも共テ形式で評論8割、小説9割を取れたことが嬉しくて。自分の勉強がやっと身を結んでくれたんだ、と思えました。
(参考までに全統の結果を置いておきます)

全国300位くらい

ことの始まり

8月下旬、2学期のスタート辺り。いきなり学年で進路関係の説教を食らったのが始まりだったかと思います。あの1時間で受け取った内容は偏差値の経年比較やら他校と比べてどうだ、心構えを直せ……みたいな。
この時の心境は嘲笑に近いものだったような気がしています。偏差値60台がなんだ、こっちは偏差値87だぞ(進研模試だけど)、とか。やるべきって言われた内容は基本的に全てやってたし。
そんなこんなでこの集会は正直あんまり私に響くことはありませんでした。もしかしたら無意識に防衛機制が働いていたのかもしれません。
この調子で進路行事やらなんやらは定期的に続いていくことになります。

度重なる説教、心理的負担

受験関連の説教らしきものはある数名の教員が主かと思われます。他の教員も時折そういった話をしますが、週1以上のペースでぶち込んでくるのが若干名。
1発1発が軽くても、叩かれ続けたらねじれが生まれるんですよ。私の心に根差してるそれを列挙していきます。

・学校なのか予備校なのかわからなくなる
字面の通り。
きっと人柄は良いんです。授業あるいは進路指導という立場に立ったとたん豹変するのが恐ろしい。某監獄実験かのようで恐怖を覚えます。

・学校、あるいは教員というものに心酔しているように見える
説教中、冗談でもなく劇を見ているかのような感覚に陥ることがあります。私が成績を上げるために通ってきた道との乖離が激しいせいかと思われます。
指名されて答えられない人がいた時に心が苦しくなります。質問がいつの間にか詰問に姿を変えるからです。

・言葉の棘が直接的になってくる
命令形がデフォルトになるのはまだしも、嫌味混じりにクラスの成績を詰った末、あたかも私大理系を国語から逃げたみたいに馬鹿にしたのは正直許したくない。私の大事な家族にも私大出身でまっとうに生きている人がいるので。

今挙げたこれらはまだ些細な縺れです。今の私を本当に追い詰めた根源はおそらく以下の点にあると思っています。

誰が為の「団体戦」

受験は団体戦らしいですが、私には現状あるいは彼(女)らの抱く理想像があるべき「団体戦」であるとは到底思えません。
簡単に言えば、私含め学年全員を纏めて扱うには無理がありすぎる。
さっきの集会の件も、実際私の心を抉っている要因かもしれない。基本的に彼(女)らの逆鱗の触れる対象は、学年の成績の低下やらその他学問に関する不振だと思われますが、それを努力して結果を出した私に響かせてどうなるんでしょうか?
学年の成績を上げるための「ありがたいお話」は私個人には恩恵はありません。言われることなんてほとんどやっているから。ありがたみが差し引かれた結果、私が受け取ることができるのはただの「罵詈雑言」なのです。
「受験は団体戦」という言葉の意味は、自分の勉強法を仲間に対して開かれたものにするということであると少なくとも私は捉えています。
学年のメンバーは仲間だというのはそう。彼らを引っ張り上げたい気持ちなんてないはずがないでしょう。でも成績が振るわない彼らも大半は一人で勉強しなければならないのであって、負う責任は大部分が彼らにあるはず。たとえ私がどれだけのメソッドを教えたとしても、結局はどうしようもない。
だから「現状は全然団体戦じゃないね」とか言われたって困ることしかできないんですよ。
それともその責任を私が一身に背負い込めってか?
そんなの私の心が壊れるだけです。絶対に嫌だし無理。

むしろ今罷り通っているところの「団体戦」は、単なる同一視に思えてなりません。
私が成績を上げても学年が不調だと叱責されます。それは私にとって、「成績を上げたら叱られる」という体験でしかない。そんな状況にあって、私は自信を失くすことしかできません。

結局、私は自分が信じられなくなりました。
そりゃそうでしょう。春からの努力、その末に掴み取った圧倒的な結果と自信が幾重にもへし折られました。私の成功に対する否定は、その過程、終いには私自身のアイデンティティにまで響きました。治したはずの爪噛み癖も再発。せっかく築き上げたメンタルに風穴を開けられてしまった状態で、私は必死に何かに縋りつこうとしていました。それが「公民」あるいは「公共・政治経済」です。

公民に求めた救済

私が久しぶりに心から好きになることのできた科目でした。理由はわかりませんが、どこか惹きつけられるものがあったんです。
高2になってからというもの、公共という科目が一番の楽しみであり得意科目でもありました。理系のくせに。
そんな公民を受験科目として選び、3年になっても授業をとれるというのはこれ以上ない喜びでした。もうそこに迷いはありません。

しかし、この公民が私にとって違う意味を持ち始めることになったのは8月下旬、件の集会あたりからのことでした。
山積するストレスの捌け口を、この科目自体、あるいは公民好きの自分という像に見出したのです。
次第に公民に対するストイックさが増していき、それと同時に公民に対する愛も増大していきました。
そんな自分にとって5教科模試というのは、ずっと待ち望んでいたもの。公民関連の努力やその他公民に注いだ全てを点数という形で証明することのできる、重要な出来事になる筈でした。自分を維持するためのモチベーションを「公共・政治経済」に置いていたのです。

ここで突きつけられた現実、それが強制地理受験でした。(今回の模試に限った話で今後は不明)
これが判明した途端、私の脳内で矛盾が渦巻きました。
公民選ばせたのはそっちなのに模試は受けられないのか?
模試を根拠に説教するのに科目選択の自由もないのか?
彼女らのいう自己責任はここには適用されないのか?
それらが巡り巡った結果、

学校は私を応援してくれないのか?

という疑問に辿り着きました。この問いに対して、私は「してくれないはずだ」という答えを出すことしかできないでいます。気丈には振舞っていても、公民に生きる私という存在が確実に唾棄されているからです。

学校側からしてみれば些細に聞こえるかもしれません。数百人いる生徒のひとりが1回の模試の科目選択であーだこーだ喚いたって。でも私にとっては、自分が自分を認めるための唯一のツールだった。学校側の突きつけるものと自分の欲求の均衡点で、それがあるからなんとかやっていけてた。
でも、それは容赦無く打ち棄てられてしまった。どうしようもない不合理に苛まれ、怒り任せにペダルを漕ぐ足が、急に弛緩していくのを感じました。激しい動悸と息切れ、心が限界を迎えかけていました。

こうして私の欲求不満が近道反応を起こした結果が1回前のnoteです。

爆発

件のnoteは数日出し渋っていたものです。公民が選べなかったストレスが日を跨いで糸を引いていたので、少し待ってから判断しようと思っていました。しかしながら、多大なるストレスを抱えたところにインシデントが重なり、完全に爆発してしまったのでもう全部吐露させてください。楽になりたい。何が起こったか。

「甘すぎる」

「どうせ勉強してないだろうけど」

「私立理系かと思った」

見事なまでの3コンボ。ここまでの数千文字分の思考が一瞬にして巡り、以前のどれよりも激しい動悸に襲われました。
今までだったら大丈夫だった。でも今回の一撃はとどめにも等しかった。この時、私の心には既に「公共・政治経済を解けない」という大きすぎる違和感が巣食っていたから。
2ヶ月かけて開けられた心の穴が貫通した瞬間でした。
強く握っていないとシャーペンが手から零れ落ちそうで。涙は必死に隠しました。
悔しさとか悲しさとかじゃない。物理的に言葉を投げつけられたようで。でもそれは言葉のドッジボールじゃない。既に心に穴が開いている私にはただの殴打だった。
これ以上勉強時間を増やしたら私はきっと廃人になります。
あちらが言うには「全て空振り」らしいですが、このまま彼女たちの言葉を受け続ければ、私は本当に壊れてしまう。全て人格否定としてしか受け取ることができないから。寧ろ、今の私にはどんな言葉も、良い言葉も悪い言葉もすべて通り抜けてしまうかもしれない。
そういうつもりじゃないとかじゃなくて、実際私は良い焦りじゃない、ただのストレスに押し潰されてる。
結局私は、学校の進路実績を上げるために心を殺されるしかないんだなって。
頼れる人なんかいないし頼るつもりもないです。何も信じられなくなりつつあるから。
この学校を受験したのを後悔することしかできない現状に、強い無力感を覚えています。
国語の授業で動悸がするようになりました。もう教員達の顔を見ることができません。いまは、自分を守るために遠ざけるべきものを遠ざけさせてください。そうしないと、東大に落ちる前に人として落ちるところまで落ちてしまうから。

私はどうしていけば良いのか

これまで学校の教育方針には一定の理解を示してきたはずです。課題も定期テストもこなして来ました。言われる通り、自分の勉強もこなして全国である程度戦えるようになりました。
それでも彼女達の尺度におけば、私にはまだ足りない部分があるらしいです。私は成績を上げたのに、叱責されてるってことはそういう意味。
この状況を打破する方法が、「心身を壊して勉強する」以外思いつきません。私は、人の話を聞き流せるほど図々しい人間ではないので。
まじめに生きすぎた故、私はこんな目にあったのかもしれません。私に非があるなら誰か教えてください、非がないならこんな目にあうのは不条理です。

自分の学校がそうだと言ってるわけでは決してないのですが、「自称進」などと検索すると似たような状況を見かけることがあります。
私と同じような状況で精神的に打ちのめされた高校生が他にもきっと居るでしょう。
過度な実績主義、そこに果たして意味があるのか、その先にいったい何があるのか。私は問い直したいです。

もし学校関連の人が見てたら怖いな。どうか放っておいて、誰にも言わないでくれ。必死に生きるつもりだから。
届くべき人に届け、届いて欲しくない人に届くな。
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