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名作にくらいつけ! 安部公房「砂の女」(3) ~比喩、不可知なものに輪郭を(壱)~

 [全部で8000字を超えてしまいましたので、5つにわけることにしました。毎度、長文で申し訳ありませんが、ぜひ全て読んで頂きたいです。]

(壱は、1600字程度)


 大学時代の友人に、ひどい花粉症の人がいた。花粉症ではない私には、その辛さがよくわからなかった。しかしある時、辛い辛いと、あまりに繰り返してばかりいるので、一体どんなふうな辛さなのか、と、試しに聞いてみたことがある。すると、
「何百匹っていう蟻が、目玉の裏側を、常に這いまわっているような感じなんです。とにかく、ずーっと痒いんですよー」

 この答えを聞いて、この人は、そんなに苦しい思いを繰り返し味わってきていたのか、と、その場で初めて思い至った。普段と変わりのない、相変わらずの調子で話してくれてはいたものの、経験したことのない私の眼には、普段と変わらぬだけに一層、まるで他人のように見えたのを覚えている。
 なんせ、目玉の裏側をたくさんの蟻が這いまわっているのだ。そしてそれに耐えながら、キャンパスでの私の他愛のない話なんかに付き合ってくれているのだ。
 まるで慈愛に満ちた宗教家ではないか。大げさでも冗談でもなく、本当にそう思ったことを、今でも鮮明に覚えている。

 伝わらないものが伝わった途端に、目の前の人が別人になったかがごとく感じることがある。
 
 これこそ、比喩の威力だ。伝わった瞬間に、世界は世界‘へと、その姿を変えていく。

 文学に限らず、比喩は、生活のあらゆる場面で使われる。先に書いた、目玉の裏の蟻なども、まさにそうだ。可能な限り、相手と感覚を共有したいと思えば、比喩は、かなり効果的な手段となり得る。

 我々は、一人一人、異なる。
 社会的な生き物である人間にとって、異なる人間同士が、互いの脳の中にある世界の姿を、できるだけ似通った形で理解しようと努めるのは、極めて自然なことである。
 我々人間は、この感覚の共有を、意地らしいほどに求め続けている。なにしろ、この感覚の共有を経ることで初めて、共感や理解へと至り、時には平和がやってくることだってあるのだから。
 そう考えた時、比喩とは、生まれるべくして生まれたものとも言うことが出来る。全く、人類にはうってつけの発明品ではないだろうか。

 さて、物語の出来、不出来を考えるとき、この比喩が、大きくものを言うことは、もはや言うまでもないだろう。
 
 物語の世界とは、もう一つの世界だ。例えば私が小説を読めば、私の中で、物語の世界が広がっていく。例えばそれが井伏鱒二の「山椒魚」であれば、私の中でただちに水中の世界が輪郭を作っていき、適切なものへと、適宜その輪郭を整え続けることになる。
 意地の悪い山椒魚と哀れな蛙のやり取りとが、繰り広げられることになる。  

 その間、私はずっと水中にいる。息継ぎもせず、山椒魚と蛙のやり取りを、その傍でひたすら見守り続けている。

 例えばそれが、ブラッドベリの短編、「ぬいとり」であれば、私は人類史上誰も見たことのない、地球の終焉を、目の当たりにすることになる。 
 私は、私の脳裏に全てを焼き尽くす炎の世界を作り出し、その世界に戦慄する。炎に包まれた地球には、もはや誰一人存在せず、全ての存在がその炎に吞まれている。そしてその傍で、私が戦慄している。
 全ての存在を焼いているはずのその炎のただなかで、私はその熱さがどれほどのものなのか感じ取ろうと努め、恐ろしい世界だ、などと悠長なことを考えている。
 誰もいない世界で、私だけが存在し、そして、その私だけが存在している世界を作り出しているのもまた、私自身なのである。

 物語世界を最終的に創り出しているのは、読者自身の脳だ。 
 どれだけテクストが優れていたとしても、読者が未熟であれば、その世界もまた未熟なものになる。

 であれば、その逆は。もちろん、逆もまたしかり、である。  
 どれだけ優れた読者がそこにいたとしても、テクストが未熟であれば、未熟な世界以外に、立ち現われることは考えられない。

(つづく)

[また明日、お会いできれば嬉しいです。]

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