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エッセイ どっちも

(3200字程度) 


 しばらく前に、台風がやってきました。台風は、間を挟んでほぼ一週間もとどまり続け、その間のストレスは、私の脳裏に、コロナの日々の忍耐を再び突きつけているようでした。
 ジリジリとした日々が続きました。いつまで経っても変わらぬ「ゆっくり」という風速表示に、少しずつ気力が削がれていく思いでした。
 
 家に閉じこもる以外にない生活というのは、やはり居心地のいいものではありません。コロナの時期の大変だった記憶だってあります。大股で歩くことすらできない時間が人に与える影響の大きさというものを、私たちは、もはや身体の髄に至るまで、習得してしまったのかもしれません。

 台風は過ぎ去りました。今では、何の問題もなく過ごすことが出来ています。私たちは、大変さと同時に、はーしんど、の一言で切り替えられる図太さをもまた、身につけることが出来たのかもしれません。
 実際は、こんなきれいにまとめてしまえるほど、やわなものでもありませんでしたけどね。おーしんど。
 
 ところで、台風対策をしながらふと考えたのですが、例えば、音楽を聴く時だとか、YouTubeを見る時だとか、こんなことにこんなハイテクなものを使うなんて、と、実は違和感を感じているという経験はないでしょうか。自分で使っておいておかしな話なのですが、私にはあります。
 例えば私の場合で言えば、わざわざ5Gの携帯を使って音楽を聴いたり、パソコンを使ってDVDを見ている時などにふと、こんなハイテクなもん要るか?と、考えてしまうことがあるのです。これじゃまるで違いのわかる人みたいじゃないか、と自分で自分を皮肉っている瞬間があるのです。

 いや、わかります。必要なのです。必要な人には、必要なのです。いい音で聞きたいという人だっていることでしょうし、画質のいいもので見たいという人だっていることでしょう。私だって、それはあります。私にだって、できるだけいい環境で見たり聞いたりしたいという、そういう願望だってあることにはあるのです。
 ただそれは、時と場合によるわけで、いつでもどこでもそう考えているわけでもありません。クラシック音楽を聴く時だと、当然音質のいいもので聞きたいとなるのですが、音もないと寂しいからBGMがてら何か、くらいの場合だと、こんな大そうなもんじゃなくてよくね、と思わず頭をもたげてしまうわけです。
 いや、音楽なら許容範囲かもしれない。しかし落語に高音質が必要かとなると、いよいよこれは文明のもたらす麻痺じゃなかろうか、と、明らかな不自然さに、目をつむるのも難しくなってくるわけなのです。
 
 ただ一言付け加えておくと、技術の開発という側面に、私が何かしらの嫌悪を感じているということではありません。激しい環境の変化に戸惑うことはありますが、基本的には楽観的に捉えていて、ものによってはもっと積極的に進めるべきだと考えているふしもあります。
 こういう方面に詳しい訳ではないので、若干恐縮に感じる部分もあるのですが、決して毛嫌いしている訳でもなければ、何でもかんでも、古いものこそ素晴らしいと考えているわけでもありません。そのあたり、どうぞご理解を。
 
 それでは、どこにどう不自然さを感じているのか。
 端的に言うと、ハイテクの押し付けに気づかぬよう努めている自分自身に、薄気味悪さを感じている訳です。
 だって落語なんて、もともとかすれ声の人がわめき散らしているわけで、カスカスのかすれ声でわめき散らしているからこそ、面白味だって生まれるわけです。
 そういう類のものに高音質の機器が必要かとなると、これは大いに疑問です。少なくとも、私にはラジカセで十分に思える訳で、これが、このあたりの近場ではラジカセは手に入らない、とかいう話になれば、そちらの方がかえって緊急事態に思える訳です。

 今現在、私たちの周囲を取り巻いている電子機器のほとんどには、半導体が使われているはずです。半導体には、レアアースなど貴重な資源が不可欠という風に聞いています。貴重な資源をぎゅっと詰め込んでできた生産物の使い道として妥当だと思われるものは、意外にもそれほど多くはありません。使い道としては少し滑稽に映るものすらあります。
 どれだけ高性能な製品といえど、作るのも、使うのも、人間です。これらのものの使い方を眺めていると、人間という生き物が透けて浮き出てくるような気がする時があります。

 話が逸れました。それではそろそろ、結論の方を。
 こういった時勢の中で、私が理想だと考えているのは、ローテクなものとハイテクなものの、併用です。 
 
 なぜどちらかに絞らなければならないのか。むしろそちらの方が、私にはよくわからない。
 音がないと寂しいのでBGMをかけたい。その場合には、ラジカセを。
 外で聞きたいがラジカセは持てない。ならば、携帯で。
 じっくり聞くので、いい音で聞きたい。最新の高性能の機器でどうぞ。
 
 暇だからDVDでも見るか。テレビでいけますよ。
 じっくり見たい。きれいな画質で見たい。最新の高性能の機器でどうぞ。
 
 こんな風に、時と場合に合わせて使う機器を変えることで、値段のはる電子機器を消耗から守ることが出来る。パソコンや、携帯や、タブレットや、自分にとって大切なそのほか様々なもの一切を、消耗から守り、長く使うことが出来る。

 結論として、つまりは、私はケチです、と。あなたもケチケチやっていきましょうよ、と。全ての説明はここに帰します。
 言葉足らずで、何かヤケにでもなっているような印象を与えるかもしれませんが、どうかお気になさらず。最近では、割と大真面目にそんなふうに考えているのです。実際のところ、これだけ便利な環境の中に身を置いていれば、ただ放っておくだけで自ずと資源を無駄遣いすることに慣れていってしまう事でしょうから。きっと、資源に関しては多少ケチなくらいでちょうどいいのです。少なくとも私は、好んでそうあろうと努めています。

 現状、ケチケチ生活がどこまでできているかどうかはさておき、ローテクなものとハイテクなものとの併用は、実際のところ、かなりのお薦めです。
 もはやインフラ化した電子機器を消耗から守り、そうすることで、自分らしいお金の使い方をする為の、金銭的な余地を作ることもできる。何より、私自身が生きていく中で、私自身を中心に据え続けることが出来る。主役は常に私自身で、その私が、どの機械を使うか、主体的に選んでいく。
 
 大げさな話だと思いますか?そうかもしれませんが、しかし、テクノロジーの発達と共に、それに沿う形で、理想の生き方や価値の基準が徐々に変更されていくというのは、今に限らず、いつの時代だってそうだったのですよ。
 選ぶ立場くらいは、自分のためにとって置いておきたい。それが、私の本音です。
 
 皆でそうする必要はないですし、それぞれが好きなやり方で楽しめばいい、私もそう思います。
 ただ、選ぶ余地は残しておいて欲しいのです。たとえ一手間あるにしてもローテクを選ぶ方が理にかなっているという場面は、生活の中で割とある。そういう時に、例えば近くでラジカセが売ってなかったり、それこそ紙の本が売ってなかったりとなると、選ぶも何も、という話になってしまう訳です。

 先日の台風で私が買ったのは、電池式のラジオでした。電池式はやはり強い。何せ、停電して一切電気が入ってこなくなったとしても、変わらず台風情報を伝え続けてくれる訳ですから。
 
 新しく開発された技術の評価も、いずれ落ち着くところに落ち着くことになる。技術にのっかるのは、評価が落ち着いてからでも遅くはありません。のっかるにしろ、慎重になるにしろ、選択の権利くらいは自らの掌中に収めておきたいのです。

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