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あなたの宗教な何?

って尋ねられたら、なんて答えますか?

同じ質問を生徒にすると

「うーん、仏教かな?」

どんな時にそれを感じる?

とさらに聞くと

「お葬式の時かな」

じゃあ初詣にお寺に行く?

と聞くと

「いや、神社かな」

と答える。

神道なの?

と聞くと

「???」

となる。

公立の学校では宗教を教えません。

しかし、宗教心はとっても必要ではないか。

最近そんなことを感じています。

えっ?道徳心を養えばいいのでは?

そう思われる方もいるかもしれません。

私が思うのは、道徳心よりも、もっと心の奥底にあるものや、宇宙全体の理。

これを捉えるのには、やはり宗教心が必要なのではないかと思うのです。

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良心の呵責は宗教心の表れ

物心がつき、自我が発達するにつれ、目に目える世界が全て。

そのような考えに私は至りました。

だから、心の中で考えていることも黙っていれば、相手にも伝わらないから問題ない。

バレなければいいでしょ?

みたいな感じで、嘘をついたりすることも多々あった、上部だけの物事が全てだと思って生きていた時代がありました。

しかし、嘘をついた時は、決まって心の中がモヤモヤし、どこか後味が悪い。

今思えば、いわゆる良心が疼いていたんですね。

『嘘をついてもバレないだろう』

これは思考であり、自我(エゴ)の考え。

それに対して、良心が疼く。

これこそ、私達本来の真心であり、叡智の発動なのではないか。

そのように思うようになりました。

言い方を変えれば、良心、叡智の発動の状態こそ、心の中にある『神』あるは、『宇宙』、あるいは「大いなる意思」「源」「グレートサムシング」「本当の自分」と言えるのではないか。(呼び方は色々ですが)

目には見えない良心の発動のようなものを思う敬虔な気持ちを宗教心というのではないでしょうか。

宗教と言うと、何か特定の信仰をイメージするかもしれませんが、私が思うのは、このような気持ちを指しています。

そして、この気持ちが発動している状態を「愛」と捉えています。

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本当の自分はいない?

日常の出来事に対応している時には、いつも何かに追われている感覚がありました。

対応していない時でさえ、何かやることを見つけなければ・・・。

そんな感覚が常にありました。

しかし、それは、思考(自我)がフル活動しているためであり、思考は問題を見つけそれを解決することで存在感を出している。

ということを知り、湧いてくる思考をただただ観察することにしました。

するとどうでしょう!

思考は何の脈絡もなく湧き上がり、そして、消えていく。

波のような存在であることを実感しました。

思考は思考であり、私ではななかったのです。

では、それを観察している自分って何?

と言う新たな疑問が生じます。

しかし、これを認識した瞬間、またそれを認識する対象が現れるので、この説明には終わりがありません。

ただ、これこそが、本来の自分に繋がっているものなのではないか?(あるいは自分自身)

そのように私は認識しています。

本当の自分なんてものは存在しない。

そう言い切る方もいます。

全ては源(大いなる存在)とつながている、これこそが本当の自分。

いわゆるワンネスの世界。

そうなのかもしれません。

このワンネスを愛と呼ぶ方もいます。

実感としては、私もよくわかりません。

ただ、「私はいない」と言う言い方は分かりづらいので、ここでは「本当の自分=愛の存在」と言う表現をさせていただきます。

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私達は幻の中に生きている

老子道徳経を学んで

私たちが現実だと思っていることは幻である。

なんていう話をはじめて聞いた時は

えっ?現実が幻なわけないじゃん!

全く受け入れませんでした。

リアルでしょう?現実の世界は!これが映画マトリックスのような世界なの?
そんな訳ないじゃん!

って思ってました。

しかし、日頃起こっていること現実に対して、常に自我が発動し、起こった出来事にああでもないこうでもないと、過去のデータを引っ張り出して心配し、未来のことを憂う。

そんなことが思考を観察して分かりました。

つまり、今ここでは何も心配なことは起こっていない。

出来事も思考同様、波のように起こり消えていく。

それは、パチンと手を叩いた音がいつまでも鳴り響かないのと同じこと。

これが現実なのに、自我は、過ぎたことについていつまでも、こだわり続けるんです。そして、頭の中で心配ごとを作り出し、どうやってそれを解決するかを常に考えている。

つまり、現実の現象はすでに消えているのに、いつまでも自我が何かを考えている。

これが幻の正体。ありのままを見ていないということなのです。

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愛の視点を持って真実の世界を生きる

自我の思考に囚われて、大いなる叡智である自分、愛の自分から離れている常態化から、愛の自分の視点で物事を見ようと努めてみる。

そうすると現象に振り回されることから、少しずつ様子が変わっていくことに気づきました。

例えば、厄介な生徒指導案件が起こった時。

改善したいことを、一生懸命生徒や保護者に伝えようとしていた自分。しかし、相手はどう受け止めるかが不安で、どうやったら伝わるか?

いつも不安で心配していました。

しかし、愛を持って接する。

そう肝に銘じてことにあたると、途中にどれだけ辛辣な態度を取られたり、批判の矢面に立たされても、「愛は必ず通じている」ということを確信して、ブレずに真摯に対応すると、必ず最後は「ありがとうございました」とお礼を言われるほどの相手の心に歩み寄り、問題も解決に至ることを数々経験してきました。

論理で相手を言い負かそうとか、逆に謝ってその場を穏便にすまそうという小手先の態度で物事が根本的に解決した例をこの34年間見たことがありません。(むしろ拗れます。確実に)

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終わりに

宗教心があると真心を大切にします。

言葉に出さなくとも、その思いは相手に伝わる。

そう思っていると、いつも謙虚でいられます。

そして、常に自分の心の中を観察する習慣がつきます。

批判するのは相手ではなく、いつも自分を観る。

自分の中でどんな思考が湧き上がり、どんなことが起こっているか。

その思考に振り回されることなく、これをしっかりと観察した結果、最終的に自分としての考えをまとめる。

これが思慮深さというものなのかもしれません。

私は特定の宗教を信仰している訳ではありません。

しかし、良心という真心、それが愛である。そして、愛が本当の自分そのものである。

このような宗教観を持つに至りました。別にこれは強制するつもりもありません。

ただ、宗教心は、心を安らかにし、よりよく生きる上でとても大事だな。

そう思う今日この頃であります。

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※自分を深掘りすることで、自分の中の愛に気づいた物語がこちら

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