ヒーローになりたかった少年の唄2022③
悲しみの向こう側
最近とても近しい人が立て続けに二人も亡くなってしまった。
二人とも音楽に関わる人物で、年齢は60代前半。
昔なら「60代で亡くなった」というと、それなりに長生きした感じがあったが、今の60代の人達を見ると、「死んでしまうには、まだあまりに早すぎる」と思う。
お二人とも、精神的にも身体的にもまだ全然若く、燃えるようなパッションを持っていて、「これからアレをやろうコレをやろう!」と、日々画策するだけの精神力を持っていた。
ある意味やる気を失った若い世代なんかより、よほど気力も、体力さえもある人達なのだ。
「残念で寂しい」としか言いようがないが、
「二人の魂は今、いったいどうしているのだろうか?」
と、およそ「大人になったら考えてはいけない」と言われているような事を僕はどうしても考えてしまう。
『死んだ後、人はいったいどうなるのか』
死んで身体が無くなれば、脳も作動しなくなり、何も感じない、何も考えられない。
よって、死ねば全てが無に帰すのだ。
死んだら全部終わり。
よほど宗教的な家庭に育った人以外の日本人は、たいていそういう風に教育されてきた。
それが『科学』というものだ。
しかし、本当にそうなのだろうか?
例えば、世界中のあまたの国々のどの時代にも「幽霊」が出たという伝承が残っているのは、全て気の迷いか幻覚、幻想なのか。
ひとつの例外もなく?
……それはありえない。。
科学的なエビデンスなど何もないが、僕の『魂』は叫ぶ。
それは絶叫に近い叫び声だ。
「それは、ありえない!!!」
全世界の全ての国々にたまたま偶然に、あるはずのない幽霊の伝説が創作されたのか?
全部が全くの嘘なのか?
「お前は馬鹿か!?そんなはずはないだろう!!」と、僕の魂は叫ぶのだ。
死後の世界というのは、絶対にある。
きっと近い将来、量子力学やスーパーコンピュータがその存在を完全証明するだろう。
もしかしたら「死後の世界との通信」という、SFのような事が、スマホアプリで出来るような時代が来るかもしれない。
あちらの世界は、僕らが想像するものとは全然違うものなのかもしれないが、ともかく肉体が死んでそれで全て終わりなどということは絶対にない。
それだけは、僕の魂が教えてくれている。
「死」の恐怖から抜け出すことは大昔から人間の最大のテーマであり、仏陀でさえそれを克服するために過酷な苦行を行い、それでもまだそこから抜け出すことが出来ず、精も根も尽き果てて菩提樹の下に倒れ伏した時に、一杯の乳粥をスジャータにもらってやっと悟りの境地を得た。
一匹の蜂に刺されただけで右往左往する、神でも仏でもない一般の人間が「死」という絶対的な虚無感への恐怖を克服することは並大抵の事ではなく、この世は言わば「無理ゲー」だ。
死の恐ろしさを克服する最大の肝は、きっと「死んで終わりではない」ということを納得することにあるのだと思う。
しかし、現代科学の社会は「唯物論」に完全に支配されていて、それはまるで死の恐怖から人間が逃げられないように奴隷の足枷として画策されているかのようだ。
「ルーシュ」という言葉をご存知だろうか?
これは人間や動物の怒りや悲しみ、恐れからなるネガティブなエネルギーのことで、この世界を裏側から支配している闇の存在たちはこの「ルーシュ」をエネルギー源としているため、科学を乗っ取り唯物論を発展させて、人間が生老病死の恐怖を絶対に克服できないようにしているとも言われている。
この疫病騒動も、きっと世界中で莫大な量の「ルーシュ」を生産したに違いない。
この疫病禍で、世界の0.1%の超大金持ちたちの資産がめちゃくちゃに増加したという統計があるという。
彼らの儲けの種はおおよそ次のようなものだ。
ワクチン利権、医療利権、エネルギー利権、食料不足、水不足、株や債権の乱高下、ハイパーインフレ、戦争、内戦、麻薬、人身売買、政治腐敗。
エトセトラ、エトセトラ。
こういったものは全てこの「ルーシュ」をエネルギーとした闇の黒魔術のパワーによって発現している気がする。
我々一般人がこのネガティブな意識状態から抜け出し、奴隷状態から独立するためには「目に見えない世界がある」ということに気づくこと。
何より、「肉体が死んで全て終わりではない」ということに気づくことだろう。
もし死んで終わりでないなら、生きているうちに悪いことや恨みを買うことばかりやっていたら後で困ることになるだろうし、生き方自体が先を見据えてもっと丁寧になるはずだ。
世界中の人々がそこに気づいて生活をしたら、世界は平和にならざるを得ないし、「ルーシュ」の生産量が劇的に減って、闇の者たちのパワーもどんどん落ちる。
そうなれば、やがて明るい天国のような社会がこの地上にもやってくるはずだ。
近しい知人を立て続けに亡くし、僕もあらためて『死』というものに対して深く考えさせられた。
お二人とも、必ずあるはずのアチラの世界でどうか安らかにお過ごしください。
僕は、もう少しこちら側で地上天国の建設作業をしてからソチラに伺います。