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極端な創作論は美しい。Twitter物書きたちの、にぎやかな日常について

個人的に内と外を区切ってしまうくくり方はあまり好きではないのだけれど、自分がTwitter上で過ごしている界隈はおそらく客観的には「小説創作クラスタ」と名付けられる言論空間だ。

そこは日々、プロアマ問わないありとあらゆる物書きによって、ありとあらゆる小説の創作論が披露される、百家争鳴の世界である。

交わされる創作論の内容はといえば、文学とは何か、作品にテーマは必要か、魅力的なキャラクターとは何か、といった大きな枠組みのものから、小説で三点リーダーを置くときに2個セットじゃないといけないのはなぜかとか、改行はどこでどの程度すべきなのかといった、細かいものまで多種多様である。

しかも同じテーマが何度も掘り起こされ、繰り返されるのが興味深い。「誰かが持論を述べる→各々が賛成したり反対したりして盛り上がる→喧嘩になる→みんな飽きはじめる→収束する→ほとぼりが冷めた頃に別の誰かが同じテーマで意見を言い出す→(以下略)」といった感じである。

生まれては消え、消えては生まれる数々の創作論は、輪廻転生の深遠なる仏教的世界を思わせ、あるいは我々は知らぬ間に同じ時間を何度もループするタイムリープ的世界に生きているのではないか、と疑うほどにはデジャヴでもある。

創作論はよく燃える

展開される創作論の中には、極端だったり放埓だったりな内容も多く「ああ、このツイートの主張は炎上するだろうな」と思ったものが、やっぱり予想通りどこかの物書きの怒りの炎に薪をくべることとなり、都度盛大に燃え上がったりもする。

元来、物書きという人種は、自身の考えを正しいものだと強く思い込み、それを頑なに譲らない偏屈で主観的で感情的な人種が多いものだ(ものすごい勢いでブーメランが頭に刺さる音)。

そんな人々が繰り出す創作論の内容もまた同様に極端で、偏屈だったりするのは当然といえば当然で、しかもそういう人種がいちばんこだわりのあるテーマで議論を交わすのであるから、炎上するのは必然といえば必然である。

そうやって炎上している様子をちょっと遠めから「いやあ大変ですなあ」などと、どこぞの物見遊山の旦那といった風情で、少しばかり底意地の悪い気持ちと共に左うちわで見物しつつ、周囲の野次馬たちと共に適当に持論をかぶせるのも粋なものである。

だが、ふと背後を振り返れば、火の粉が降りかかった我が家が盛大に燃えていて慌てふためく、なんてこともよくあったりして、なかなか油断ならない。まあとにかく、色々ひっくるめて愉快である。

創作論は極端だからいい

各人の創作論は、それぞれ何らかの体験や知識に裏打ちされたものでもあるだろうから、私としては、どれほど極端な内容でも、一概に否定したくはない。むしろ極端な創作論を唱える物書きの作品を読むことを楽しみにしている。

そういった作品というのは、やはりどこかしら「壊れて」いることが多い(存外に普通だというケースもあるけれど)。壊れている作品は、万人にはウケないかもしれないが、独特の魅力があるし、その壊れっぷりによって、読者を危険で混乱した読書体験へと導いてくれるという点で、とても貴重である。

インターネットは創作物の凸凹を奪うのか

しかし、最近危惧しているのは、以前自分もツイートした、以下のような問題である。

つまり、インターネットを通じて創作に関する情報や知識が共有されることで、尖った創作的態度の角が取れ、丸くなり、平準化してしまうことである。優等生的な創作論が共有され、敷衍してしまえば、作品もまた優等生的なものとなり、巧さと引き換えに激しさは失われてしまう。

この現象は、今まさに現在進行形で起きていることのようで、自分が応募する小説賞などでは「上手い作品は増えたが、枠から飛び出るような作品が少ない」といった類の総評が良くみられるようになってきた。物書きとしても、このような作品の均一化の波に、必要以上に呑まれないように警戒したいところである。

今の時代、世の中をひっくり返すような、狂った怪作というものは、絶海の孤島とか、険しい山奥とか、隔絶された世界で暮らす人が書き上げるものなのかもしれない。インターネットを産まれてから一度も使ったことのない、現代人が書いた小説なぞ、読んでみたい気もする。まあ、この願望をインターネット上で吐露したところで、空しいだけなのだが。(了)

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