【読書メモ】人新世の「資本論」

格差増大、環境危機、、、現在の資本主義が全体にとって持続可能な幸せを実現していなさそうなイメージを持っている方は多いと思います。

この書籍は、脱成長コミュニズムというイデオロギーによって、現状を脱却するべき(しなくてはならない)という主張をしています。

その切り口が鮮やかで、マルクス主義をよく知らない人でも分かりやすい内容になっています。

以下、要点トピックです。細かい誤謬や、認識違いはご容赦、ご指摘ください。

環境危機と格差社会

現代は、地球温暖化だけでなく、多国籍アグリビジネスが乱開発を進める熱帯雨林での火災、重油流出事故、尾鉱ダムの決壊による河川汚染、自然資源の収奪等、環境危機が枚挙にいとまがありません。

それらの多くはグローバルサウス、南半球で顕著です。

その理由は主に北半球の先進国の豊かさの代償として、労働力搾取や自然資源収奪、環境負荷の押し付けを、後進国のグローバルサウスが受けているためです。

ドイツの社会学者ウルリッヒブラントとマルクスヴィッセンは、この先進国のライフスタイルを帝国的生活様式と呼びました。

私たちはこの犠牲をグローバルサウスに外部化してしまっているので、普段は見えません。多少の寄付で忘れてしまっているのです。

間接的に我々は確実に加害者としてグローバルサウスの惨状を見なくてはなりません。

地球の資源は有限なので、押し付けた皺寄せが、とうとう先進国にも可視化するようになってきています。

つまり、環境危機は待ったなしの状態です。

資本主義の限界、脱成長の勧め

こうした現状を変える思想として、グリーンニューディールに見られる気候ケインズ主義が現れました。

持続可能な社会を実現するための気候変動対策技術の発展を積極的に支援するべきだとする思想です。

こうすれば資本主義の目的である経済成長を損なうことなく(むしろ発展のチャンスとして)、持続可能な社会になるだろうという期待が込められています。

しかし筆者はこれに疑問を呈しています。

経済成長をしながら環境対策をして(気温上昇1.5度未満という)成果を出すのは困難であると、環境学者のヨハンロックストリームは伝えています。

そもそも、経済成長の圧力によって経済規模が大きくなると、消費量が増えます。持続可能な新技術により削減された環境負荷の分をその消費が補ってしまいます。

結果として、相対的な環境負荷は新技術で「削減」出来たとしても、絶対的な環境負荷は削減できませんし、事実、現在まで成果を達成できていません。

すなわち、環境危機から脱却するためには、経済成長を諦める脱成長という思想しかないのです。

グローバルサウスには飢餓や社会的インフラのない生活をしている人々が多くいますが、世界的に見て、公正な資源配分が出来ていれば、経済成長をせずとも社会の繁栄をもたらすことができます。

例えば、食料についていえば今の世界の総供給カロリーを1%増やすだけで、八億五千万人の飢餓を救えますし、現在電力を利用できない人口十三億人に電力を供給しても二酸化炭素排出量は1%増加するだけです。
一日1.25ドル以下で暮らす十四億人の貧困を終わらせるには、世界の所得のわずか0.2%を再分配すれば、足りるというのです。

資本主義はそもそも、私的所有を目指す格差を生じさせる思想なので、再分配を適切に実施するのは至難の業です。加えて、永久に経済成長することを求められ続ける思想なので、原理的に格差を拡大させる方向のエネルギーしか持ちません。

資本主義自体が環境負荷を与えざるを得ない思想なのです。

しかしだからといって、脱成長という考えはは、ソ連の社会主義、共産主義の失敗から「凋落」というイメージがついてしまっています。

ソ連型の社会主義ではなく、さらに資本主義と脱成長の折衷というのもダメで、資本主義に挑む形の、自由で平等、公正かつ持続可能な脱成長を論じなくてはなりません。

その帰着がコミュニズムです。

コミュニズムの勧め

「コモン」という、アントニオネグリと
マイケルハートというふたりのマルクス主義者が提起して一躍有名になった概念があります。

コモンとは、水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主的に管理することを目指す道です。

ソ連型社会主義のように、あらゆるものの国有化を目指すのではなく、資本主義のようにあらゆるものの商品化を目指すのでもありません。

コミュニズムは地球全体をコモンとして、みんなで管理しようという考えです。

マルクスは資本論で資本主義を批判しており、共産主義、社会主義を一貫して主張している印象がありますが、掲げる思想は認識が深まるにつれ、早晩で主張が少しずつ変わります。

初期は資本主義の延長で生産力が上がっていけば、いつか資本主義の問題が解決されると考えていました(生産力市場主義)が、資本論ではそうではなく、持続可能な、社会を作るため、私的所有を撤廃したエコ社会主義を提起しました。

しかし、著者は、マルクスには晩年の主張があるということを述べており、それこそが脱成長コミュニズムであると主張しています。

経済成長を追い求める生産力市場主義型の、ソ連のような共産主義とは完全に決別し、「持続可能な経済成長」を放棄しました。

この脱成長コミュニズムは決して、「農村に帰れ」とか、「コミューンを作れ」というような話ではありません。(マルクスは繰り返し、資本主義がもたらす技術革新のような肯定的成果を取り込むべきと述べているとのこと)

今、市民はどうするべきか

気候ケインズ主義に見られる、加速主義は持続可能な成長を追い求める主義です。

しかしこれは未確定の未来に対する賭けで、現実逃避にほかなりません。

政治主義はリーダーを、投票で選び、あとは任せるという主義ですが、これは結局選挙戦に矮小化し、イメージ戦略に終始し、階級闘争が失われます。

そして、資本の力を超えるような法律を施行できません。政治は経済に対して自律的ではなく他律的です。

ゆえに、資本と対峙する社会運動を通じて政治的領域を拡張する民主運動が必要なのです。

フランスの黄色いベスト運動は市民議会の発足に寄与しました。

資本主義とコミュニズムの対比

資本主義はその本質が、私的所有を目指すもののため、絶対量の決まっている地球資源の私的所有を主張するものなので、地球にいる誰かにとっては、必ずその渇望を引き起こします。(資本主義は希少性を人工的に引き起こす)

ですがコミュニズムであれば、使用価値は人によって変動しないため、資源の希少性を生み出すことなく、地球資源の潤沢さをフルに使用できます。

また、資源を公共化することで、一人一人がその公共の富に対する持続可能性に関心を持ち、無駄を作ることなく運用するという方向性を形成することができます。

そしてこの活動はGDPにはあらわれません。

脱成長コミュニズムでするべきこと

筆者は脱成長コミュニズムによる、実行するべき具体的なアクションとして以下を挙げています。

○使用価値経済への転換、大量生産・大量消費からの脱却

○エッセンシャルワークの重視

→資本主義を捨て、本当に必要な仕事だけを重視して無駄を無くそう

○労働時間の短縮

○画一的な分業の廃止による労働の創造性の回復

→人間らしさを取り戻し、効率よくクリエイティブな思考を巡らそう

○生産過程の民主化による経済の減速

→クローズドな技術をオープンにしてインフラ技術を我々一人一人の管理下におこう

私見

資本主義、新自由主義がもたらす格差の不公平感や、トップ層の腐敗に辟易している我々日本の特に若い世代にはとても響いて理想的な主張に聞こえます。

ただし、この主張の目指す環境危機の打開には、この危機感やイデオロギーが、社会全体に広がらなければなりません。

本書の最終章では、脱成長コミュニズムの萌芽となる社会運動や活動は既に各地で見られ、希望はまだあるという結びとなっていますが、それではやはりなかなか全体にまで広がるのは難しいという印象です。

資本主義の恩恵と理屈に染まりきってしまった後では、経済成長を捨てるというのは相当に勇気のいることなのだと思います。

だからこそ、一人でも多くがこういう考えもあるのだとまずは知る必要があるのだと思います。

この記事が参加している募集

#読書感想文

188,210件

#最近の学び

181,334件

サポート頂けたことは、巡り巡って必ず、あなたに届きます!