【連載】異界をつなぐエピグラフ 第3回|ホラーの帝王にしてエピグラフの王|山本貴光
第3回 ホラーの帝王にしてエピグラフの王
1.どう見てもエピグラフ愛好家
世の中には、エピグラフをこよなく愛するもの書きがいる。これまでも、ときおり「この人はもしかして……」と感じることはあったものの、逐一確認したりはしなかった。
だが、このたび『エピグラフの本(仮題)』をつくるにあたって、あれこれの本からエピグラフを探して集めてみたところ、「これはやはりどう見てもエピグラフ愛好家ですな」という一群の人びとが浮かび上がってきた。
というのは、同書の発案・編集者であり、本連載の姉妹編「エピグラフ旅日記」を執筆中の藤本なほ子さんが、どしどし調査を進めてエピグラフを採集したことで見えてきたのだった。
藤本さんのエピグラフ採集は、傍で見ていても凄まじく、発見したエピグラフのリストは、こうしているいまもどんどん長くなっているところ。その作業の全貌については、最終的になんらかのかたちで皆さんにもお伝えできればと念じている。
今回は、そんなエピグラフ愛好家について眺めてみよう。その人の名を、スティーヴン・キングという。
2.「ホラーの帝王」は無類のエピグラフ好き
スティーヴン・キングといえば、1974年のデビュー作の『キャリー』をはじめとして現在に至るまで、およそ半世紀にわたって精力的に執筆を続けるモダンホラー小説の名手だ。『シャイニング』『ペット・セマタリー』『IT』他、映像化された作品も多いので、そちらで観たことがあるという向きもあるだろう。『スタンド・バイ・ミー』『グリーンマイル』『刑務所のリタ・ヘイワース』などのように、ホラーに限らない作品も手がけている。
ところでこの「ホラーの帝王」は、無類のエピグラフ好きでもあるようなのだ。まだ全ての作品を網羅的に調べられていないので中間報告になるが、エピグラフを確認できた作品には次のようなものがある。なお、原書で確認したものには「*」を付し、邦訳がない本については原題を音写した上で英語表記を添えてある。また、邦訳で原書を複数に分冊している場合については原書のタイトルを示して、邦題を補う。というのも、そうした作品集では本全体に対してエピグラフが添えられており、分冊された邦訳では扱いがややこしくなるからなのだった。とは、それこそややこしくて恐縮です。
・『呪われた町』(1975)
・『シャイニング』(1977)
・『ザ・スタンド』(1978)
・『恐怖の四季』(『ゴールデンボーイ』『スタンド・バイ・ミー』、1982)*
・『タリスマン』(1984)*
・『スケルトン・クルー』(『骸骨乗組員』『神々のワードプロセッサ』『ミルクマン』、1985)*
・『IT』(1986)
・『ミザリー』(1987)
・『トミーノッカーズ』(1987)*
・『FOUR PAST MIDNIGHT』(『ランゴリアーズ』『図書館警察』、1990)*
・『ニードフル・シングス』(1991)*
・『ドランのキャデラック』(1993)*
・『不眠症』(1994)*
・『デスペレーション』(1996)*
・『アトランティスのこころ』(1999)*
・『書くことについて』(2000)*
・『リーシーの物語』(2006)
・『悪霊の島』(2008)
・『Just After Sunset』(『夜がはじまるとき』『夕暮れをすぎて』、2008)*
・『アンダー・ザ・ドーム』(2009)
・『11/22/63』(2011)
・『ドクター・スリープ』(2013)
・『ミスター・メルセデス』(2014)
・『心霊電流』(2014)*
・『ファインダーズ・キーパーズ』(2015)
・『わるい夢たちのバザール』(『マイル81』『夏の雷鳴』、2015)
・『任務の終わり』(2016)*
・『眠れる美女たち』(オーウェン・キングとの共著、2017)
・『アウトサイダー』(2018)*
・『イフ・イット・ブリーズ(If It Bleeds)』(2020)*
・『レイター(Later)』(2021)*
・『ビリー・サマーズ(Billy Summers)』(2021)*
──と書きながら、キングの著作リストをつくっているような気分になってくる。
ご覧のように、1970年代から2021年に至るまで、ここに並べただけでも32の作品がある。また、一つの小説のなかでも章ごとにエピグラフが置かれているようなケースもある。「無類のエピグラフ好き」と書いたわけもお分かりいただけると思う。
3.自由自在の引用術
キングのエピグラフは、そのほとんどが他の作品からの引用のようだ。小説、哲学書、歌詞、諺、発言など、引用元もいろいろで、ヴァリエーションも豊富。それから、引用の長さについてはどうかといえば、
のようにとても短いものもある(これはロックバンドのAC/DCの曲”Stiff Upper Lip”から)。そうかと思えば、後ほどご紹介するようにたっぷり1ページに及ぼうかというものまで、長さもまちまちで、三つ、四つと複数の引用を並べることも少なくない。本ごとによくぞこうもいろいろと、と思うほど自由自在にエピグラフを駆使している。
ついでながら、キングはエピグラフの他にも小説の本編が始まる前に、著者からのメッセージのような文章を置いたりすることもあって、どうも異質のテキストを組み合わせるのが好きなようだ。
本来であれば、エピグラフを確認できた全キング作品について、その出典やジャンルや傾向などを列挙してお目にかけたいところだが、残念ながらそこまでの準備は整っていない。
というわけで、ごく大まかに概要をお伝えしたところで、具体例を見てみることにしよう。
4.『シャイニング』の場合──エピグラフに至るまで
例えば『シャイニング』(1977)はどうか。スタンリー・キューブリック監督の映画版もよく知られている作品で、人によってはタイトルを見ただけで、主役のジャック・トランスを演じたジャック・ニコルソンを思い出すかもしれない。
原作の小説は、本文が始まる前に、いくつかの要素が置かれている。せっかくの機会でもあるので順に見てみよう。ここでは邦訳版(深町眞理子訳、文春文庫Kindle版、2008)を例にする。Kindle版ゆえにページ数をお示しできず恐縮である。
さて、はじめに「扉」のページがある。「シャイニング 上」とタイトルがあり、「スティーヴン・キング/深町眞理子訳」という具合に著者名と訳者名が添えられている。
次のページには、「*この電子書籍は縦書きでレイアウトされています。/*読む際のご注意、お断り等についてはこちらをお読み下さい。」などと、キングが書いたのではない文章が挿入される。
ついでながら、少しだけ立ち止まっておくと、この表記をどこに入れるかについては、いくつかの考え方がありうると思う。
私は扉より前に置いて欲しいと感じる。というのは、本を開いて扉ページに差しかかったときには、すでにその本の世界に足を踏み入れている気分になっているからかもしれない。映画になぞらえるなら、予告や劇場での注意事項の説明が一通り終わって、スクリーンの幅が調整されて、いよいよ本編が始まるというのが、この扉だと感じるのだった。それだけに、ここで電子書籍についての注意書きが現れると、ちょっと興醒めというか、邪魔されたような気分にもなる。もっともこれは人によって感じ方がちがうと思われる。まったく気にならない人もいるだろう。
それはさておき、次に進もう。ページを繰ると「献辞」があらわれる。英語ではdedicationといって、この作品を捧げる相手の名前を示したもののこと。『シャイニング』では「深いかがやきを持つジョー・ヒル・キングに。」と記されている。これはスティーヴン・キングの長男(第二子)で、後にジョー・ヒルという筆名で作家になったジョセフ・ヒルストローム・キングのこと。ここに記された「かがやき」とは「シャインズ(shines)」の訳で、タイトルや作中にあらわれる「かがやき(シャイニング)」に掛けてあるのだろう。それにしても、小説を捧げられるとはどんな心持ちだろうか。
英語版ではこの直後に、本書の編集者であるウィリアム・G・トンプソン氏への謝辞も見えるが、ここで参照している邦訳版には見つからない。
これで本編が始まるかと思ったら、次にはこんな文章が現れる。
著者による注記(Author’s Note)だ。原文では「世界で」から「関係者は、」までの文章も4から6語ごとに改行されていて、中世ヨーロッパの写本の章末で、1行の語数が徐々に減っていくレイアウトを思い出す。キングは他の作品でも、なにかしらこんなふうにコメントを述べてから本編に入っていく場合がある。これには演劇の口上のような効果があるように思う。口上役が舞台にあらわれて、これから始まる演劇についてひとくさり背景や前置きを語ってきかせるあれのこと。これを英語ではprologueという。文字通りには、前に置かれた(pro)ことば(logos)という意味で、「前置き」とかそのまま音だけ写して「プロローグ」と訳されたりもする。
ここでキングは、作中の舞台となるオーバールックホテルは実在のホテルではないよと前置きしているわけである。こうした口上を嫌う人もあるかもしれないが、うまく使えば「これから物語の世界に入っていきますよ」という気分を高めてくれるようにも思う。
5.『シャイニング』の場合──エピグラフ1
さて、そしていよいよエピグラフのご登場。
『シャイニング』の冒頭には三つの引用が並ぶ。しかもそれがなんだか強烈なのだ。労を厭わず引用してお目にかけよう。まずひとつめ。
読んでみてもそうだと思うが、こうして書き写してみると、ことさらに長さが感じられる。邦訳でおよそ630文字に及んで、エピグラフとしてはかなり長い部類に入る。これはいったいなんなのか。
その前に、引用されている小説について概要を見ておこう。引用の末尾に示されているように、これはエドガー・アラン・ポー(1809-1849)の短編小説「赤死病の仮面」が出典である。1842年に雑誌に発表されたもので、一種のパンデミック小説だ。
ある国に「赤死病(Red Death)」という疫病が広がって、人びとが死に国は荒廃していた。そうした状況で、プロスペロ公なる人物は千人の友人たちと共に宮殿の大伽藍にひきこもることにする。外から入れないのはもちろんのこと、内から出られないようにもして、食糧も備え、疫病から自分たちを隔離したわけである。
プロスペロ公は友人たちの無聊を慰めようと、七つの広間を使って仮面舞踏会を催す。それぞれの部屋の窓にはプロスペロ公によって広間を飾る調度にあわせた色のステンドグラスが嵌め込まれて、色とりどりの光で広間を満たしている。一番目の広間から順に、青、紫、緑、橙、白、菫と続くが、どうしたわけか七番目の西の端にある広間だけは黒い天鵞絨(ビロード/ヴェルヴェット)の調度に血の色のステンドグラスという組み合わせでいかにも不吉である。先ほどキングが引用したのは、この第七の広間に置かれた巨大な時計の様子を記した個所だった。
時計が鳴るたび、音楽と踊りを楽しんでいた人びとは、愉楽から引き戻されて動きを止める。時計の鐘が鳴るあいだ、動揺やおののきが人びとを捕らえる。この時計の音はなにを象徴しているのか、と考えてみることもできるだろう。例えば、黒を基調として血の色のステンドグラスから光がさす広間は、赤死病を連想させる。そこにある時計は、舞踏の楽しみに耽る人びとに、外界で猖獗を極める死の病を思い起こさせるかもしれない。それは私たちがときに感じる死の不安、自分もいつか死んでこの世を去ることになるという想像が不意に訪れる場面のようでもある。だがやがて人は、そうした思いを忘れて日常に戻ってゆく。
キングが引用した個所のあとはどうなるか。赤死病を思わせる仮面の人物があらわれて、プロスペロ公や人びとは恐怖に捕らわれる。仮面の人物は、青の間から黒い天鵞絨の間へと歩いてゆく。怖じ気を振り払ったプロスペロ公が短剣を手にその後を追う。だが、追いついたところで仮面の人物によって殺されてしまう。それからようやく殺到した人びとが、仮面の男を取り押さえるものの、仮面や衣装のなかにはなにもなかった。それは「赤い死」そのものだったというわけである。ついには大伽藍にこもった人たちもみな滅びてしまう。
あらましこのような小説だった。全文は、例えば西崎憲編訳『エドガー・アラン・ポー短篇集』(ちくま文庫、2007)などで読める(同書では「赤き死の仮面」)。
いま、行きがかり上、「赤死病の仮面」の筋を確認してみた。ただし、『シャイニング』をこれから読もうとする人がみな、ポーのこの短編を読んでいるとは限らない。キングとしても、それを期待しているわけではないと思う。
このエピグラフは、『シャイニング』で描かれる出来事と重なっている。小説は、コロラドのロッキー山の上にあるオーバールックというホテルが舞台で、ジャック・トランスという元教師で作家志望の男が職を求めてやってくる。冬場はボイラーを炊き続けなければならないこのホテルで、管理人として採用された男は、妻と息子を伴って住み込むことになる。
このオーバールックは、20世紀はじめの創業で、何度か持ち主が変わったあと、戦後になって大富豪のホレス・ダーウェントなる人物が大改装を施したもの。その際、ダーウェントは仮面舞踏会を催したらしく、ジャックはその招待状を目にする。仮面舞踏会の様子を想像するうちに、不意にポーの「赤死病の仮面」の一節が頭に浮かぶ。だが、ジャックは「輝くばかりに華麗な」このホテルは、ポーの小説の世界とはまるでかけ離れているじゃないかとその連想を振り払う。
小説のこのくだりに至って読者は巻頭で読んだときには意味が分からなかったポーからの引用を思い出すことになる。作家志望のジャック・トランスは、ポーのその短編を読んだことがあって、「仮面舞踏会」という言葉から連想した。だが、関係ないと思い直す。
他方で読者はどうか。もし「赤死病の仮面」のエピグラフを覚えていれば、ジャックたちが置かれた状況と重ね合わせたくなるかもしれない。なにしろ著者は実に長々と引用してみせていた。あれだけの分量を引用するのは、ひとえにそこに記された状況や文脈が伝わるようにするためだろう。時計が鳴り響く。人びとは音楽と踊りを止めて不安を感じる。時計が鳴り止む。人びとはまた舞踏会に戻る。そしてまた時計が鳴る……。日常の営みのあいまに、それを停止させるなにかが割り込むということが繰り返される様子を、あのエピグラフは示していた。
そう思って『シャイニング』を見てみると、ホテルには亡霊どもがいて、ジャックたちに干渉しようとする様子が目に入る。日常の世界と超常現象の世界とが重なりあう、キングお得意の設定が、ポーからのエピグラフに示唆されているようでもある。
もうひとつ言い添えれば、ここでは少し奇妙なことが起きている。『シャイニング』本編の手前に置かれたポーの文章が、小説内にも現れる。見方を変えると、スティーヴン・キングが自作に引用した「赤死病の仮面」を、作中のジャック・トランスも読んでいる。その様子を描いた『シャイニング』を読む私たち読者も「赤死病の仮面」を読むことができる。つまり、ポーのこの小説が、一方ではエピグラフとして小説外に置かれ、他方では小説内にも登場する。これによって、小説外の世界(私たちが生きている現実世界)と小説内の世界(ジャックたちが活動している虚構世界)とが同じ世界であるような感覚が生じてくる。小説の内外をつなぐエピグラフとでも言おうか。
さらに想像を逞しくするなら、「赤死病の仮面」を通じて、大伽藍にこもるプロスペロ公が、オーバールックホテルにこもるジャックたちに、さらには『シャイニング』という小説の世界にかたときこもる読者たちに重なって見えてこないだろうか。
6.『シャイニング』の場合──エピグラフ2と3
さて、エピグラフは三つあると述べた。残る二つも見ておこう。それはこんな引用である。
とても短い。というよりも、最初のエピグラフがとても長いというべきか。
二つ目のエピグラフは、スペインの画家、フランシスコ・デ・ゴヤ(1746-1828)の版画集『気まぐれ(Los Caprichos)』(1799)のエッチングに添えられた言葉が出典。『シャイニング』の英語版では”The sleep of reason breeds monsters.”と英訳が記されていた。参考までに記せば、ゴヤの版画に示されたスペイン語は”El sueño de la razón produce monstruos.”で、英訳はほとんどそのまま直訳しているのが分かる。
東京富士美術館がウェブサイトで公開している画像をお借りすると、こんな構図。人が机に突っ伏して寝ている。その背後ではフクロウのようなコウモリのような生き物たちが群れて蠢いている。足元にいるヤマネコのような動物も含めて、いずれもなんだか人間と同様に意識をもった存在であるように感じられるのは、表情のせいだろうか。ともあれ、理性が眠り込んでしまえば、想像力はそうしたありえないものを生み出してしまう、という次第を絵にしているようだ。
本文を読み始める前にこのエピグラフを目にしても、それが『シャイニング』にとってどんな意味を持っているのかは予想がつかない。読んだあとでなら、これは次第に狂気に蝕まれてゆくジャックを示唆しているように見えてくる。
それから三つ目のエピグラフは、「俚諺(Folk saying)」とのことで、原文は” It'll shine when it shines.”という面白いかたちをしている。「シャイン」は、訳文で「かがやき」と訳されている「シャイニング」と重なる。「かがやき(Shining)」とは、ジャックの息子ダニーが持っている超能力のことで、襲い来る危険から身を守る術でもあった。
7.予示型のエピグラフ
そんなわけで、『シャイニング』の三つのエピグラフを少し検討してみた。
こうして見ると、二つ目と三つ目のエピグラフは、それぞれジャックとダニーに対応しているようだ。それに対して一つ目のエピグラフは、オーバールックという舞台の置かれた状態という、もう少し大きなものに対応していると言えそう。
もちろん先にも述べたように、これはあくまでも『シャイニング』を読むなかで思い浮かぶ解釈であって、冒頭のエピグラフを見た時点で分かることでない。読者の体験という観点から整理すればこうなろうか。
・エピグラフを目にする(この時点では意味は不明)
・本編を読み進めるにつれて、エピグラフの意味が見えてくる
もう少し正確に言えば、エピグラフを目にした段階でも、その文章が何を言わんとするのかは分かる。ただ、小説本編にとってどのような意味を持つのかという点では不明だ。そして、小説を読み進めたあとでは、エピグラフが小説の舞台や人物と対応しているらしい様子が目に入る。
こうしたエピグラフを、「予示型のエピグラフ」と呼ぶことにしよう。内容を予め示したり示唆したりしておくという意味だ。そんなことを言えば、どんなエピグラフも予示型なのではないか、と思うかもしれない。実際のところはどうなのか、次回以降も見ていくことにしよう。
それにしても、キング先生はなぜにこんなにエピグラフが大好きなのか。