【連載】すべてのひとに庭がひつよう 第2回|私という庭師のつくりかた|石躍凌摩
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第2回|私という庭師のつくりかた
(一)
かねてから、私はずっと何者でもなく、また何者にもなりたくはなかった。そのような私にとって、自己紹介というものは長らく、そうして今でも、至難の業である。いったい、何を語ればよいというのか。知らずに生まれて、気づけば生きていたというのに、この生のどこに、ひとは掴みどころを見出すのか──このような気分は、今となっては随分と鳴りをひそめているが、なおも私が何者でもないということは、この生の根本的な気分をなしている。
そうしてこれから、私は庭師である、と語ろうというのだから、いったいどの口が語っているのかと思う向きもあるだろうか。だが、事実、自分が庭師として誰彼に紹介される場合には、まるでそれが他人事のように感じられる自分もいて、またあろうことか、あなたも庭師ではないか、きっとそうに違いない、と吹聴する庭師としての自分もたしかにいるのだ。
私は庭師である、ということは、果たしていつからそうなのか。社会的には、それは修行のために造園会社に勤めはじめた2020年の夏か、あるいは独立して方々の庭に働きはじめた2022年の初夏か──いずれもつい最近ということになるが、そうではなく、私が庭師であるという自覚はどこから生じたものなのかと考えてみれば、それは2014年の春にまで遡る。
当時、私は花屋に勤めていた。母の日のあまりの多忙さから逃げるようにして、ものの数ヶ月で辞めてしまうすこし前の──ソメイヨシノはもうみな散ってしまって、あとは紅い蕊ばかりに新葉のちらほら芽ばえる頃でもあっただろう、けれど当時の私には、それが見える筈もなかった──その朝、花屋の出勤のために最寄り駅までの道を自転車でいそいでいた私は、ここをすぎればついたも同然のくだり坂で、思いがけず、見たことのない花に遭遇する。
あっけにとられ、うしろ髪をひかれつつも、時間に追われるままそこを通りすぎてから、やっと巡ってきた花屋の休憩時に「四月、赤い、花、木」と検索窓にかけてみて、そうして識ることとなったハナミズキ──それ以前には「薄紅色の可愛い君のね」とうたう声にしかきいたことのなかった花──が居並んで咲く坂道は、母校の小学校の真横にあって、私はどこへ行くにもそこを通ったものだが、くりかえされたその道ゆきに、私がハナミズキを見とめたのはこのときがはじめてだった。これほどあざやかな花いろを、いったいどうして見のがすことができたのか、と「むごいものしれなさ」(*2)が先ずあった。花が咲いてきれいだなんてなまやさしいものではなかった。いつものありふれた安心の風景が、そこでひき裂かれるようにして、私は花に咲かれたのだった。その衝撃と美にあてられた瞬間は、いまでも鮮烈にこの身に生きている。
それからというもの、私はゆくさきざきで、ハナミズキに咲かれることになった。ここにも、あそこにも──そうして、私は思ったのだ。「名を識ることとは、つまり咲くこと」(*2)なのではないかと。そうして図鑑からなにから手あたり次第にあたって、花の名を識ることに躍起になっては、つど「識りおぼえるたびに咲きほこる世界の、からくり」(*2)をあじわった。ところで、このことは、私ひとりにかぎったことではないのではないか。つまり、名を識ることとは咲くことであり、さらにいえば、世界は言葉を得ることによって変わるというのは、私にかぎった個別性ではなく、むしろ人間にひらかれた普遍性なのではないかと思うことがたびかさなって、ついに翌年春、植物の名前と、その写真と、わずかな文章だけで構成される植物図鑑『微花』の創刊に至る。
──なぜ、植物図鑑か。それは、私が偶然花に咲かれてから、はじめて読むことになった植物図鑑の多くが、頁をひらけば情報も写真も素晴らしい密度で、とにかく植物について余すことなく伝えることを旨につくられていたのだが、植物に興味のないひとにはかえって届きづらいだろうというところに、私が長らく植物に興味のない年月を過ごしたことの原因を見てとったから。むしろ私は、名を識ることとは、つまり咲くことであるという世界のからくりが、そのままかたちになったような植物図鑑を夢想していた。情報は潔く名前だけで──名前さえあれば、今ならネットでいくらでも情報を引き出せるのだから──、写真については距離と構図と誌面における配置に工夫をこらし、花を花らしくすること。たとえば『ジャポニカ学習帳』の表紙のように、花にかぎりなく近づけば、花のうつくしい色や形はそれだけ鮮明に感じられるかもしれないが──植物図鑑の写真もまた、多くはこうしたものである──花を好きでないひとが、花に近寄る理由はないだろう。そうではなく、その花が、そこに在るということが──ロラン・バルト的にいうなら、<それはかつてあった>と──最も感じられる距離からうつしとられた写真がいいだろう。そうしてうつしとった花が、ひっそりと咲いているような花であれば、誌面においてもひっそりと配置する。このことによって、現実に埋没するようであった花々は次々に異化され、読者はそれらを明視するに至るのではないか──そのような植物図鑑は、見渡すかぎりどこにもなかった。ないのであれば、つくればいい。そうしてつくったものが『微花』であった。
(二)
何が私を庭師たらしめているのか? それを考えてみようとするとき──何気ない会話にそのことをきかれるたび、あるいは庭に向きあうなかでふっと自らに問いかけたくなるとき、ただひと言「庭が好きだから」と言えたなら、どれだけ楽であっただろう──いつも思い起こすのは『微花』だった。
この文章は、2015年の春に創刊した『微花』が、季刊誌として夏、秋、冬と季節を一周した際に寄せられた、後に『人類堆肥化計画』(*4)を書くことになる東千茅による書評である。今となり、あらためてこの文章を読み直してみれば、やはりここが私という庭師の出自であったと腑に落ちる。というのも、私はこの地点から庭を眺めては、つど拭いがたい違和感に苛まれることをこそ、庭づくりの原動力としているから。つまり──どうして日常の景色はこうも豊かであるのに、庭はこうも不毛なのだろうか、と。
ハナミズキに咲かれて以来、私はいわば悔いあらためた者のように、自ら窓の制作に着手した。この世界を明視するためには、それがどうしてもひつようだった。その窓から見ることになったのは、私がこれまで見すごしてきた草花が、今や目前に、ただそこに存在していること──果たして、それだけではなかった。
私はそれらがただそこに在ること自体に感嘆するようにして、それらを見つめる自分の存在そのものへの感嘆をも呼びさまされたのだった。つれて自分が何者であるとか何をしたいのかという以前の、今こうして生きていることの物凄さにとらえられ、そもそも私が生きているとはどういうことなのか、とあらためて自分に問いかけた先で、この生の根抵には、植物との関係、ひいては自然との関係がなくては生きられないという現実が横たわっていることを、あらためて深く意識することにもなった。
そのことを庭と呼ぶ(*5)に至るのは、後年『動いている庭』を繙くそのときまで待たねばならなかったが、ここから私は生きなおそう、そうして、この生をより生きようとこころみはじめたことはたしかであった。
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