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詩歌のゆりかごとしての通勤|働く日々の歌 3|澤村斉美

会社勤めをしながら、日常を短歌に詠む歌人である澤村斉美さんによるエッセイ。この連載では、仕事・労働にまつわる様々な短歌を読み解きながら、私たち一人一人の日々の労働と日常について考えていきます。
短歌が好きな人だけではなく、いまを生活しているすべての人に読んでもらいたいエッセイです。
*月1回更新。

 日曜の夜から月曜の朝にかけてのSNSには、労働をうらむ声があふれる。「働きたくない」「労働は悪」「むり」……タイムラインという川にぷく、ぷく、と上りやまない呟きの数々。私も「さあ、今週もがんばろう!」とはりきるタイプでは決してないので、人のことをとやかくは言えない。が、うらめしげな声の数々を読んでいるうちに、「さて、行くか」という気になってくる。気持ちが言葉になってしまえば楽になるということか。そうか、みんなSNSで「いやだ」という気持ちを言葉にすることによって、この朝の自分をなんとか立ち上がらせているのだ。流れていくタイムラインに向けて思わず祈る。皆さん、よい朝になりますように。普通に働いてこられますように。かなうならば、いいことがありますように。

山羊には山羊のわれにはわれの労働が春の光のなかに待ちおり
                                                後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』(2023年)

 職場に向かう心を詠う一首。「われ」は淡々と職場に向かいながら、どこかにいるだろう山羊のことを想像している。山羊にも山羊なりのすべきことがあって今日を生きるだろう、そして私には私の今日の労働が待っている、と。山羊と「われ」が並ぶことで、「労働」の姿が実にシンプルに浮かび上がる。つまり「ただ今日のすべきことをする」。その一点で、山羊と「われ」の生が結び合い、春の光のなかにある。そこに労働についての余計な感情や価値判断はなく、ただ春の光が、今日一日を生きることをやさしく温かく肯定している。こんなふうに労働の一日を始められたなら上々だ。これからは私も、朝の通勤時には心に山羊を呼び出してみようか。どんな山羊だろう。群れで飼われている家畜の山羊か、牧場につながれている山羊、あるいは山岳に生きる孤高の山羊。イマジナリーな山羊の生を思うと心が安らぐ。
 この歌の作者である後藤由紀恵は大学の事務職員として働く。歌集『遠く呼ぶ声』には、働く歌が多く収録されており、通勤の歌では「どこへでも行けるからだは雛の日の陽ざしの中を職場へとゆく」という一首もある。「雛の日」だから3月3日ごろ。やはり、職場へ向かう姿が春の陽ざしのなかにある。

 職場へ行き、職場から帰る。通勤とは不思議な時間だ。私は会社員だからなおのことそう感じるのかもしれないが、組織に所属して働く「私」は、組織で働く用の身体的、心理的「装備」をして、素の私とはちょっと違う人になる。片道1時間ほどの電車通勤をしているが、その通勤の間は「装備」がまだ整っておらず、素の私でも働く私でもない、どっちつかずの魂がぼんやりと運ばれていく。

立ちて眠り座りて眠る通勤の車内は時にけむりの時間
                                                後藤由紀恵歌集『遠く呼ぶ声』(2023年)

 そうだ、「けむりの時間」だと思い当たる。通勤のあの時間は「けむりの時間」なのだ。つかむべき「私」がいない。何者でもない「私」が揺れながらただ運ばれていく。通勤電車では眠る人が本当に多い。ここに詠われている通り、立っても眠り、座っても眠る、ただただ眠い人たちばかりだ。みな疲れていて、寝不足もあり、電車の揺れがよく効くということなのだろうけれど、「眠る」ということは、何者でもない、どっちつかずの「私」の一種の具現なのではないか。どっちつかずの「私」はこの世から浮遊している。「私」が一時的にスイッチオフになっているわけで、それを具体的な行為にすれば「眠る」ということになるのかもしれない。

 どっちつかずの「私」がするのにちょうどよい行為が、眠ることのほかにもう一つある。詩を読むことだ。15年ほど前、小池昌代編著『通勤電車でよむ詩集』(2009年、NHK出版生活人新書)という詩のアンソロジーを、私は通勤電車の中でよく読んだ。なんて秀逸なタイトルだろうと思った。今でもそう思う。新書という形態からして、忙しい人が仕事鞄にひそませることができ、古今東西の詩を手軽に読めるようにするというすばらしい狙いが伝わってくる。そしてもう一つ、なんといっても「通勤電車」と「詩」という取り合わせがおそろしく的確だ。通勤電車に運ばれていく魂の、何者でもない、ぼんやりとした「私」にこそ詩の言葉はしみる。

 この詩集から、例えば朝の通勤電車で、カヴァフィスの「イタカ」という詩を読む。

イタカに向けて船に乗るなら
頼め、「旅が長いように」と、
「冒険がうんとあるように」
「身になることもうんとあるように」と。
ライストリゴン人、
片目のキュクロス、
ポセイドンの怒り、
ああいうものにビクつくな。
 (中略)
祈れ、「旅が長くなりますように」と。
「未知の港にはいる楽しい夏の朝が
何度も何度もありますように、
フェニキア人の貿易港に幾度も行けますように」。
 (中略)
イタカを忘れちゃいけない。
終着目標はイタカだ。
しかし、旅はできるだけ急ぐな。
何年も続くのがいい旅だ。
 (後略)
            「イタカ」
                                            コンスタンディノス・ペトルゥ・カヴァフィス
            中井久夫訳
               小池昌代編著『通勤電車でよむ詩集』より

 一日の始まりを、つまり今日という旅の始まりを鼓舞するように、静かに語りかける一篇だ。「さて、私もがんばるか」とごく実際的に励まされてしまうほどに私の感受性は単純である。一方で、「未知の港にはいる楽しい夏の朝が/何度も何度もありますように」という平明で美しい詩句が、心のなかでいつまでもかがやく。その詩句は、「私」の、ぼんやりとした、何にも支配されないところでかがやき、あたたまり、生きることを肯定する。詩の言葉のしみ方とはそういうものである、と、私は通勤電車の中で知ったのだった。

 もう一つ、仕事を終えて帰る夜の電車の中で、エミリー・ディキンソンの詩を読む。

わたしは「死」のために止まれなかったので――
「死」がやさしくわたしのために止まってくれた――
馬車に乗っているのはただわたしたち――
それと「不滅の生」だけだった。
 (中略)
それから――何世紀もたつ――でもしかし
あの日よりも短く感じる
馬は「永遠」に向かっているのだと
最初にわたしが思ったあの一日よりも――

                                 「わたしは「死」のために止まれなかったので――」
                                   エミリー・ディキンソン
           亀井俊介訳
               小池昌代編著『通勤電車でよむ詩集』より

 「わたし」は、「死」ののちの長い長い時間、「不滅の生」を生きている死者である。「馬は「永遠」に向かっているのだと/最初にわたしが思ったあの一日」は、死について諦念する言葉としてあまりにも美しい。夜の電車の中でこの詩を読むと、一日を終え、また一日分死に近づいたことを感じる。しかし、私はそれが嫌ではない。
 一日の熱を帯びた疲れがすっと引き、体は少し涼しく、ゆりかごの揺れにも似て電車はゆく。通勤は詩歌を生み、詩歌を読む私を育てる。眠っていい。「私」を手放して、深く眠れ。詩歌のしみこむ土となるまで。

澤村斉美(さわむら まさみ)
1979年生まれ。歌人。塔短歌会編集委員。第52回角川短歌賞受賞。歌集に『夏鴉(なつがらす)』『galley ガレー』がある。新聞社の校閲記者として会社員歴17年。
【X】 @sawamuram0507