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星の味 ☆9 “永遠に幼きもの”|徳井いつこ

  やみにきらめくおまえの光、
  どこからくるのか、わたしは知らない。
  ちかいとも見え、とおいとも見える、
  おまえの名をわたしは知らない。
  たとえおまえがなんであれ、
  ひかれ、ひかれ、小さな星よ!

 ミヒャエル・エンデの物語『モモ』の冒頭にそっと添えられている詩には、「アイルランドの子どもの歌より」と書かれている。
 世界じゅうで、日本でも長く歌い継がれている「きらきら星」に似ているような……?
 時間泥棒に盗まれた時間を、人間に取り返してくれるモモ。あの不思議な物語を思い返すたび、まぶたに浮かんでくるのは、夜の闇のなかにぽつんとすわっている女の子の姿だ。

「友だちがみんなうちに帰ってしまった晩、モモはよくひとりで長いあいだ、古い劇場の大きな石のすりばちの中にすわっていることがあります。頭の上は星をちりばめた空の丸天井まるてんじょうです。こうしてモモは、荘厳なしずけさにひたすら聞きいるのです。
 こうしてすわっていると、まるで星の世界の声を聞こうとしている大きな大きな耳たぶの底にいるようです。そして、ひそやかな、けれどもとても壮大な、えもいわれず心にしみいる音楽が聞こえてくるように思えるのです。」

 「星の世界の声を聞こうとしている大きな大きな耳たぶ」。
 なんという言葉だろう。
 このとき、モモは嵐の前の静けさのなかにいる。
 時間を「物」として扱い、計測計量できるものしか現実と見なさない「灰色の男たち」との闘いにまだ巻き込まれていない。モモを助け、導く「カシオペイア」という名の亀もまだ現れていない。
 亀に星の名前が冠されていることについて、エンデは『エンデのメモ箱』のなかでこんなふうに書いている。

「(亀のかたちは)のっそりと渡り歩く角質の頭蓋とうがいにほかならない。頭蓋も世界の神話のなかで重要な役割を担っている。『エッダ』(北欧の神話)によると、星が輝く天空は原・氷巨人の頭蓋が形成している。」 

 ここで語られているのは、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応だ。人間のなかに頭蓋としてあるものは、大宇宙のなかでは星空であり、亀はさらに小さい小宇宙として、それをもち歩いているというのである。
 こんなふうに象徴を読むこと、事物について、いったいなんの表現だろう?と自問してみること。言い換えれば、世界に「耳を澄ませる」ことは、エンデが不断に続けていた大事な心の作業だった。

 『エンデのメモ箱』は、生前に出版された最後の本だ。
 彼の書斎の箱の中には、紙きれや原稿用紙、演劇の入場券、その他さまざまなメモがつまっていて、小説の書き出しや場面、新しい物語のアイデア、創作スケッチなどが書きつけられていた。
 その一部をまとめた本書には、小話あり、箴言あり、詩や独白、考察あり……。まるで詩人作家の内的宇宙をのぞき見る思いがする。
 取りだして、ぱらぱら拾い読みすると、その日そのときの自分に響き合う箇所が見つかる。
 今朝、くっきりと像を結ぶように心に残ったのは、「“わたし”の持続性」と題された何気ない小文だった。
 「十歳にもならなかったのではないか。わたしはまだ小学校に通っていた。」という文章から始まるそれは、登校の道すがら毎日、目にしていた食品店の情景を語る。

「ある日、わたしはそこを通りすぎながら、これからの人生で、わたしはどうなるのか、十年後や五十年後も今ここにいる同じわたしであり続けるのか、それとも別人なのかと、ふと考えた。そのとき、これからの人生でくり返しこの瞬間を思い出そうと、わたしは心にきめた――注意深く頭にきざみこんだ詳細(たとえば朝日が射していたこと)全部とともに思い出すのだ。」

 そうすることで、わたしがわたしであり続けていることの保証が得られる、と子どものエンデは考えた。「もしわたしが別人になっていたら、(外からの助けなしでは)むろんこの決心をもう知らないはずだからである。」
 なんとおかしな思いつきだろう。このうえなく新鮮、かつ真剣だ。
 ここには「太古からの子どもの問い」とエンデが呼んだものがある。
 わたしはどこから来たのか?
 わたしはなぜこの世にいるのか?
 わたしはどこへ行くのか?

 『メモ箱』のなかで最も長い“メモ”である「永遠に幼きものについて」と題された原稿(国際児童図書評議会東京会議での講演)には、「偉大な哲学者、思想家たちは、太古からの子どもの問いを新しく立てたにほかならないのです」と書かれている。
 死を目前にしたエンデが、わざわざこの原稿を『メモ箱』に含めた意図は、読み進むうち程なく了解される。
 「なぜ子どものための本を書くのか?」というテーマの会議において、彼は「実はわたしは子どものために書いているのではまったくないのです」と打ち明けるのだ。

「わたしがかつて子どもだった、その子どもは今日でもまだわたしのなかに生きています。その子どもからわたしを切り離す、つまり大人になるという、そんな溝はありません。

かまいません。認めましょう。わたしはおそらく本当の大人にはついにならなかったのだと思います。これまでの生涯を通じて、今日、本当の大人と称されるものになることを、わたしは拒みつづけてきました。つまり魔法を喪失し凡庸で啓蒙された、いわゆる“事実”の世界に存在する、魔法を喪失し凡庸で啓蒙された、あの不具の人間たちです。そして、このとき、わたしはあるフランスの詩人が言った次の言葉を思い出します。まったく子どもでなくなったときには、わたしたちはもう死んでいる。」

 熱い言葉だ。二度も繰り返される「魔法を喪失し凡庸で啓蒙された」という形容詞には、強い意志が感じられる。
 おのずから『モモ』が想起されてくるのは、あの物語が「永遠に幼きもの」と「魔法を喪失した不具の人間たち」との闘いを描いていたからだ。
 くしゃくしゃの巻毛、大きな黒い目、つぎはぎだらけのぶかぶかの服を着た小さなモモの特別な才能は、相手の話にじっと聞き入ることだった。人間だけではない、夜空にも耳を傾けるのだ。
 モモが「大きな大きな耳たぶの底」にすわって聞いていた「星の世界の声」とは何だったのだろう?
 それを知る鍵は、時をべる存在であるマイスター・ホラとモモとの対話のなかにさりげなく埋められている。

「もしあたしの心臓がいつか鼓動をやめてしまったら、どうなるの?」
「そのときは、おまえの時間もおしまいになる。あるいは、こういうふうにも言えるかもしれないね。おまえじしんは、おまえの生きた年月のすべての時間をさかのぼる存在になるのだ。人生を逆にもどって行って、ずっとまえにくぐった人生への銀の門のさいごにたどりつく。そしてその門をこんどはまた出ていくのだ。」
「そのむこうはなんなの?」
「そこは、おまえがこれまでになんどもかすかに聞きつけていたあの音楽の出てくるところだ。でもこんどは、おまえもその音楽に加わる。おまえじしんがひとつの音になるのだよ。」

 星空と音楽と……。
 死の向こう側にエンデが見ていたものが、ここにある。


星の味|ブックリスト☆9
●『モモ』 ミヒャエル・エンデ著、大島かおり/訳、岩波書店
●『エンデのメモ箱』 ミヒャエル・エンデ 著、田村都志夫/訳、岩波書店
(*引用文中には、現在は避けるべきとされる表現が見受けられますが、差別助長の意図はないと判断しそのまま掲載します。)

星の味|登場した人☆9
●ミヒャエル・エンデ

1929年、南ドイツのガルミッシュ生まれ。小説家。父はシュールレアリスムの画家エドガー・エンデ。演劇活動のかたわら、さまざまな戯曲、詩、小説を生みだす。最初の小説『ジム・ボタンの機関車大旅行』でドイツ児童文学賞を受賞。主な作品に『モモ』『はてしない物語』『鏡の中の鏡−―迷宮』『魔法のカクテル』『自由の牢獄』など。65歳で逝去。


〈文〉
徳井いつこ Itsuko Tokui
神戸市出身。同志社大学文学部卒業。編集者をへて執筆活動に入る。アメリカ、イギリスに7年暮らす。手仕事や暮らしの美、異なる文化の人々の物語など、エッセイ、紀行文の分野で活躍。自然を愛し、旅することを喜びとする。著書に『スピリットの器――プエブロ・インディアンの大地から』(地湧社)、『ミステリーストーン』(筑摩書房)、『インディアンの夢のあと――北米大陸に神話と遺跡を訪ねて』(平凡社新書)、『アメリカのおいしい食卓』(平凡社)、『この世あそび――紅茶一杯ぶんの言葉』(平凡社)がある。
【X (Twitter)】 @tea_itsuko

〈画〉
オバタクミ Kumi Obata
神奈川県出身/東京都在住。2000年より銅版画を始める。 東京を中心に個展を開催。アメリカ、デンマーク、イラン他、海外展覧会にも参加。2017年スペインにて個展を開催。カタルーニャ国立図書館に作品収蔵。
・2006年~2010年 ボローニャ国際絵本原画展入選(イタリア)
・2013、2014、2017、2019、2023年 CWAJ現代版画展入選
・2016年 カダケス国際ミニプリント展 グランプリ受賞(スペイン)
【オバタクミの銅版画】 http://kumiobata.com/
【X (Twitter)】@kumiobata
【Instagram】@kumio_works