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いまにつながるSTORY②とにかく濃かった学生時代、そして人生のどん底で

私はふだん、個人や小さな会社の経営者さん向けの仕事をしています。

インタビューライターやブログSNSの添削アドバイス、プロモーションサポートを通し、"その人のありのままのストーリーを届けるお手伝い"ができるのが醍醐味です。

そんないまの私がどう形づくられたのか、何回かにわけて綴っていくストーリーの2回目。

長めですが読んでいただけたら嬉しいです。

大学では濃い人間関係にどっぷり&卒業はギリギリ!


大学受験の帰り道、1つのパンフレットをもらいます。
それは大学から独立している自治寮のパンフで、少人数で何でも自分たちで決めて生活していくと知り、一瞬で「入りたい!」とワクワクしながら応募を決めました。

入寮面接で「あなたにとって”生きる”ってなんですか?」という質問をされびっくりすると同時に、飾らずに深い話をできる場に改めてワクワク。
1学年3~4人、全部で13人と、密な人間関係必須な寮でした。

小さなもめごとはありつつ、4年間の寮生活はめちゃくちゃ楽しかった!!

時間を気にせずダラダラしゃべったり、誰かの部屋で朝まで飲んでたり。
とにかく関わる時間が長い!

現役の学生だけでなく、近くに住む院へ進んだ先輩や、時々遠くから来寮する先輩も含め、どの人も話すと何かしら面白い話が聞ける

内容は体験、家族、専門、夢、恋愛…などなど。本当にくだらなかったり、思いもよらず深かったり。

集団生活のわずらわしさもあったけど、それよりも「こんなパラダイスはないな~」と思いながら暮らしていました。

自分が上級生になると、新入生が寮になじめているか、後輩たちが何か困っていないか、なんとなく目を配り、気になればとことん話を聞く。

元カレ元カノでもなく、家族でもなく、親戚でもない、でも絶対的にお互いが応援してる、どんなひどい状況になっても、どんなアホなことをしたとしても、ばかだなとか絶対大丈夫って言い合える。

寮生、特に同期の存在は楽しい思い出、かつ、大きな大きな人生の支えでもあります。

寮生活と同じかそれ以上にどっぷりハマったのが大学のオーケストラ。

クラリネットを吹きながら、1、2年の頃は演奏会当日の裏方として指揮者や各係、各パートとの調整役も担いました。

当時、練習場が24時間使えたので、夜中の12時から練習したり、合奏後にみんなで飲みに行ったり。

高校以上に時間が自由だから練習も飲みも延々とできてしまい、寮同様、どうでもいい話から真面目な話まで、音楽にとどまらずたくさん話して、とっても濃い人間関係の中で過ごします

こんな感じでオケに時間を使い、自由過ぎたため、大学4年は単位取得に必死になるはめに。

何でもする覚悟で最後の試験期間は駆け回りました。
助けてくれたのは学部や寮の同期と、先生たち(追加課題を出してくれました)。

無事なんとか卒業ー!!
今思い出しても冷や冷や(笑)。

ちなみに友人からは「まさか一緒に卒業できるとは思わなかった」というお祝いの言葉をもらったくらい、火事場の馬鹿力で突破しました。

なじんでない人、苦しそうな人を見ると仲良くなりにいく

人から助けてもらうことの多かった私ですが、環境にどこかなじんでいなかったり、世の中をナナメに見ていたりするような人がいると、放っておけず、積極的に関わって精神的に支えたい!と思ったことが何度かありました。

その人が気持ち的に適応できず今この場を楽しめていないのを感じると、もったいないと思うんですよね。

「せっかく生まれてきたんだから、縁あってこの場に一緒にいるんだから、『世の中捨てたもんじゃない』『ここって楽しい』と思えるほうが絶対楽しいはず!」と。

お節介だけど、気づけば勝手に動いていました。

その人のことを少しずつ知って、私のことも知ってもらって仲良くなって、それをきっかけに世の中楽しいって思ってもらえたらいいなと。

そして思い返すと小学校や高校でも、男女関わらず、その場になじんでいない人がいれば話しかけて仲良くなるのはしょっちゅうでした。

「楽しい」「仲良く」は私にとって大事なキーワードです。

「中小企業の経営者の相談相手になりたい」と就職先は帝国データバンクへ


就職で、企業の財務状況や取引状況などを調査して社会の取引のベースを支える帝国データバンクへ。

調査員になれば、大企業だと経理などの部門、中小企業ならその経営者とやりとりをして、信頼を得られればその経営者の相談にも乗れるというのが魅力で。

祖父母が小さな紳士服の仕立屋をしていたので、中小企業の経営者の相談相手になれたらと思ったものの、入社してみると調査員は基本男社会かつ年功序列で順番待ち。

調査員になる女性の先輩もいたけれど、あまりにハードで何人も体調崩す様子を見て、自分が調査員になるのが現実味がないと感じ始めます。

一方で内勤は、比較的のんびりしていてみんないい人だけど、やっぱり自分と似たような人が多かった大学時代と比較すると、話が合う人が少ないと感じていました。

そうするうちに「精一杯仕事したい、自分を活かしていると言える仕事がしたい、バリバリやっていきたい」という気持ちがつのり、当時仲のよかった同期の転職に刺激を受けて、転職活動をスタート。

未経験でもいいと雇ってくれた中小企業向け財務系コンサルティング会社へ入ることになりました。

転職後、激務とパワハラと我慢癖でうつ病で休職と復職を約1年繰り返す


入社した時はもちろんやる気いっぱい。

本当は数字が超苦手だったので、内心ドキドキしつつ、頑張らないといけない環境にワクワクしてもいました。

最初の頃はデータの加工やグラフ作りで高く評価してもらい、北海道へ月に何度も飛んで客先でヒアリングしたり、チームで仕事したりと、とても充実。

資料作成の他、従業員の方たちと仲良くなってヒアリングする役割も担っていました。

平日は地方の客先、土日は東京の事務所で資料作りをして、数ヶ月に数日間休みをもらうスタイルがこの後1年近く続きます。

その間に、だんだん未経験では対応できないことが増え、上司からの指示も意味が理解できず、でも相談できる雰囲気でもなく、とにかくやらないといけない状況。

夜中まで作業して、頓珍漢な資料を作っては馬場詰め(=かなり威圧され怒られる、怒鳴られる)されて、心身ともにどんどんすり減っていきました。

でも「パワハラだと訴えたら上司は困るし、それは採用を決めてくれた上司に申し訳ない。それより問題はこんなに役立たずな自分、自分のせいだ」と次第に自分自身を追いつめていました。

会社が存続できるかどうか瀬戸際という客先も多く当然かもしれないのですが、事務所にいると必ず誰かが馬場詰めされてる声を浴びるのも、かなりしんどくて。

シビアな仕事だから仕方ない。間違えば大変な損害が出るかもしれないんだから仕方ない。この環境おかしい!なんて思ってはいけない。
とストレスにさらに見てみないふりをしていました。

でもある日、職場でちょっと声をかけられただけで涙が止まらなくなってしまい、もう自分で制御できないほど追いつめられてるとやっと気づきました。

そのまま病院へ向かい、抑うつ状態(いわゆるうつ病)と診断されて翌日から休職に入ります。

変わらず支えてくれた人たちに感謝


うつで休職し始めると、それまでと同じような活発な人付き合いができなくなりました。

休職したばかりの頃はぼーっとしてしまう日も多く、誰かと一緒にいてもうまくコミュニケーションが取れない時もあったかもしれません(うろ覚え)。

でもそんな私を、それまでと変わらず夕飯に誘ってくれた寮の同期・オケの同期には今も本当に感謝しています。

絶対によくなるから、焦らないで大丈夫
今は本当の姿じゃないでしょ、大丈夫、根拠はないけどそのうちいい旦那さん見つかる気がする(笑)」
と、つかず離れず支えてくれました。

そうして変わらず交流を続け、回復を信じてくれることが本当にありがたかったし、「彼らがピンチの時は絶対私が助けるぞ」と今も思ってるくらいです。

見捨てないでいてくれた友人たちは、うつになった私だけでなく過去のいろんな顔を知ってくれていたからこそ、絶対大丈夫だと言ってくれていたのだと思います。

だから私も、立ち止まっている人やなんか上手くいってない人がいたら、その人をよく知って、背中をおしたい
最初の一歩を見守りたい

人が人を信じる力の威力を、身を持って体感したからこそ今度は私がと思います。

(いまにつながるSTORY③に続きます)

ここまでお読みくださってありがとうございました。
続きはまた、今度!


気長にお待ちいただけたら嬉しいです。

▼いまにつながるストーリー①はこちら

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