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創作|そらいろホットケーキ

そらいろホットケーキ


1.そらいろホットケーキ

 あの夏の朝も、ふんわり甘いホットケーキのにおいがしていた。

 お母さんが出て行った朝、わたしは3歳だった。
 朝といってもまだ夜明け前のうすぐらい時間。わたしはトイレに行きたくて目がさめた。
 タオルケットをけとばして起き上がり、ふすまをあけてトイレに行こうとすると、玄関にいるお母さんの後ろすがたが見えた。
 あれっ、とわたしは思った。お母さんはいつもおねぼうだったから。

 お母さんは大きな花柄のワンピースを着て、おしりをこちらにむけ、ハイヒールをはこうとしているところだった。そのすぐそばに、ぱんぱんにふくらんだ大きなかばんがあった。

「お母さん」
と、わたしはよんだ。
「あら未来、目、さめちゃったのね」
ふりかえったお母さんのくっきりした口紅の色にびっくりして、わたしは泣いた。
 お母さんが、どこかに行っちゃう。わたしをおいて、こっそりどこかに行こうとしている!
 きれいにお化粧したお母さんにしがみついてわたしはわんわん泣いた。お母さんはこまったようにわたしをだき上げ、背中をとんとんとたたいた。

 どれくらいそうしていただろう。
 泣きつかれて時々うとうとしたりもしながら、それでもわたしがいつまでも泣きやまないでいると、
「ホットケーキを焼きましょう」
と、お母さんは言った。
「すわってなさい、すぐできるから」
 わたしは食卓の椅子によじのぼった。ひじかけのついているのっぽの椅子。お母さんはエプロンをしめ、キッチンに立った。

 カチャカチャと材料をまぜる音、カシャカシャと粉をふるう音、へたくそなはなうた。フライパンが火にかけられ、つづいて、ぬれぶきんでフライパンをさますジュッという音がした。
 それから、そうっとボウルからフライパンにたねが流し込まれ、ホットケーキの焼けるふんわり甘い匂いがただよってきた時、わたしの目から涙がこぼれた。
 お母さんが行ってしまう。

「はい、どうぞ」
 コトン、とテーブルにお皿が置かれた。ほかほかのホットケーキの上で、四角いバターがとけかかり、お母さんはその上からメープルシロップをたっぷりかけた。
 涙のせいで、ホットケーキはぼやけて見えた。夏の朝の光のせいで、部屋の中はみんな空色だった。うすい色にふんわり焼けた、ホットケーキも空色だった。
 そらいろホットケーキ。

2.卵をわって

 毎朝卵を12個わって、といておくのがわたしの仕事だ。

 お母さんが出て行って、6年たった。今、わたしは、おばさんと二人で暮らしている。おばさんは、お母さんの妹だ。
 亡くなったおじいちゃんとおばあちゃんの残してくれた家に、わたしたちは住んでいる。古い二階建ての木造で、一階の大部分がお店と調理場、調理場の奥にちょっとした茶の間があり、そこと二階が、わたしたちのすまいになっている。

 わたしは毎朝だいたい6時半ごろに目が覚める。おばさんは朝ねぼうだ。
 わたしは一人で、顔を洗ってパンを焼き、テーブルにお皿とコップをならべる。パンが焼けたらお皿にとり、バターとジャムを半分ずつぬる。飲み物は牛乳。
 おばさんは牛乳をそのまま飲むのが好きじゃないみたいだけど、わたしにはたっぷりの牛乳を飲むように言う。冷蔵庫にはいつも新鮮な牛乳が入っている。

 食べ終わるころ、柱時計からハトが飛び出し、ポッポーと7回鳴く。7時だ。わたしは食器を流しに運び、歯みがきをして、着がえる。くつ下をはき、髪をとかしていると7時半くらいになる。
 ランドセルに入れておいた持ち物をチェックしているころに、ようやくおばさんがあくびをしながら起きてくる。眠そうにコーヒーメーカーをセットしているおばさんの横を通って、わたしはお店に続くガラス戸をあける。サンダルをはき、コンクリートのたたきになっているお店の調理場におりる。

 朝の調理場はしんとしている。木の窓わくにはまったすりガラスから白っぽい光がさして、窓の外では本物のハトがのどかに鳴いているのが聞こえる。外に梅の木があるのだ。
 わたしは大きな銀色の冷蔵庫から卵のパックを取り出して調理台に並べ、台の下から、ひとかかえもある大きな銀色のボウルを出す。冷蔵庫とかべのすきまにしまってある、わたし専用の踏み台もセットする。卵のパックをあけ、手をあらう。そして卵をとり、からをいれないように注意しながら、ひとつずつ、わって行く。

 毎朝卵を12個わって、きれいにといておくのが、小学校にあがってからのわたしの仕事だ。おばさんがそう決めた。
 最初のうちは大変だった。強くぶつけすぎてぐちゃぐちゃにしてしまったり、からを両側からぱかっと開くときに、かけらをボウルにいれてしまったり。おばさんは毎朝腕組みをして監督のように横に立ち、わたしに集中力がなくなったとみるや、調理場から追い出した。

 わたしは今ではひとりで、なんなく12個の卵をわることができる。いつかは両手にひとつずつ持って、同時にぱん! とわるのにもあこがれているけど、まだわたしの手は小さくてそれはできない。
 卵のからをまとめてすてて、手をあらうともう8時だ。また柱時計からハトが飛び出す前に、わたしは急いでランドセルを背負い、
「行ってきまーす」
と、声をはりあげる。ねぼけまなこのおばさんがコーヒーをすすりながら、わたしに行ってらっしゃいと手をふる。

 月曜日から金曜日の間、朝の9時半から午後3時半まで、おばさんはここでホットケーキの店をひらいている。
 きっかけは6年前、お母さんが出て行って泣きやまないわたしに、毎日毎日ホットケーキを作らされたからだという。
「毎日毎日ホットケーキばかり作っているうちに、いつの間にかお店をはじめていたのよ」
と、おばさんは言う。本当かうそかはわからない。

 お店の名前は「ナカタホットケーキ」という。
 昔、おじいちゃんとおばあちゃんはここで「ナカタ食堂」という店をやっていた。その看板を半分だけ無理やりはりかえて、ホットケーキ、と書いてある。
「だってそのへんはきちんとしないと。食堂だと思って入って来られたらこまるでしょ、わたしはホットケーキしか作れないんだから」
と、おばさんは言う。

 客席はカウンターとテーブルあわせて10席ぴったり。テイクアウトもできる。
 メニューはコーヒーと紅茶とほうじ茶と、食べ物はホットケーキ。ホットケーキだけ。ぶあついふわふわのものを2枚かさねてある。
 トッピングにはバターとメープルシロップとハチミツと白砂糖が用意してある。
「わたしはだんぜんメープルシロップだけどね」
と、おばさんは言う。

 ありがたいことに、ナカタホットケーキはけっこう毎日にぎわっている。
 おばさんにきいたところによると、オープンした朝にはまず、夫や子どもを送り出してひとやすみする主婦の人たち、それから、散歩を終えたおじいちゃんやおばあちゃんたち、それからお昼休憩の人たちがやってくる。
 午後には学校を終えた子どもたち、時間の自由な大学生たちで、小さな店がほぼ満席になることもある。
 もっと長い時間営業すれば、と言われることもあるらしいけど、
「子育て最優先」
と、おばさんは言う。わたしのことだ。

 学校から帰ってくるといつもいい匂いがする。
 お店をのぞくと、おばさんはわたしのぶんのお皿を手渡してくれる。
 うすく小さく、小判型につくったわたし用のホットケーキがのっている。小さく切ったバターとたっぷりのメープルシロップ。
 わたしはそれを食べながらカウンター席のはしっこで宿題をする。宿題が終われば遊びに行っていいことになっている。

 夜、夕ごはんを食べ終わり、クイズ番組を見ているような時間、時々、店の小窓をコトコト叩く音がする。わたしは店に行って、小窓の中から
「はーい」
と、返事をする。
「いつものありますか」
と、相手が言う。
「何枚ですか?」
と、私は聞く。いつもだいたいそのあたりでおばさんが店に来る。
「3枚だってよ」
とか、
「6枚だって」
とか、お客さんの注文をわたしはおばさんに伝える。

 こんなふうに夜に買いに来るひとのために、おばさんは、店を閉めたあと、残ったたねでまとめてホットケーキを焼いておく。毎日というわけではない。あくまで、お店を閉めて、その日につくったホットケーキのたねが残っていればの話。
 昼のお店の売れ残りのたねだから、少し安い値段で売る。閉店のときにたねがすっかり残っていない時は、つくらない。そういうときは、
「すいません、今日はないんです」
と、言う。夜のお客さんはがっかりする。でもおばさんはそのためにたくさんたねをつくったりしない。
「いつもいつもあるわけじゃない、というのが、ふつうで、いいんじゃないかと思う」
と、おばさんは言う。

 注文の枚数をつつんで、おばさんが小窓をあける。
 お客さんの顔ぶれは、いつもだいたい決まっている。家族へのおみやげにするサラリーマンのおじさん、きれいなお化粧の女の人、毛玉のついたカーディガンをいつも着ている、学者風のおじいさん。
 昼のお客さんと夜のお客さんは、ちょっとふんいきがちがって、おもしろい。

 おばさんは、お母さんの妹だ。
 おばさんは、お母さんのことをまりちゃんと呼ぶ。わたしのことは未来とよぶ。おばさんの名前は、さと子という。
「どうしてお母さんは出て行っちゃったの?」
と、聞くわたしに、
「いつかお母さんにきいてみたらいい」
と、おばさんは言う。
 お父さんについては、きいたことがない。
「わたしもよくわからないの。だってまりちゃんに聞いていないから」
と、おばさんは言う。
 おばさんは嘘をつかない。

to be continued
続きます…

この作品は、14年ほど前に書いたものです。
長らくパソコンの中に眠っていましたが、このたびnoteという場に出させていただくことにしました。
そんなに長いものではないので、数回(全5回を予定)に振り分けて、下記マガジンにまとめて参ります。
いつもの生活エッセイとは異なりますが、どうぞこちらもお付き合いいただけましたら幸いです。

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