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ソフトディバイスの歴史 連載第1回「そもそもは、プロダクトデザイン事務所だった」

この記事は、ソフトディバイスの創業者である高橋賢一が、社内報の連載記事向けに執筆したものです。ソフトディバイス の成り立ちから、高橋が代表を退きフェローとなるまでのストーリーが高橋の視点で語られています。

1984年

ソフトディバイス の創立は1984 年。この年はapple 社がパソコンとしては初めてGUI を採用したMachintosh を発売した年である。

GUI パソコンが初めて世に出た年にソフトディバイス が生まれたことは、運命的なものを感じる人もいるかもしれないが、これはたまたまである。だがこのような歴史の流れに乗っていたことは確かで、1984 年にはすでに数台のパソコンを使っていた、というより遊んでいた。

オタク趣味としてのパソコン

NEC からTK80 というマイコン(16 進のキーボードと7SEG の表示をワンボード上に組んだトレーニングキット)の発売が1976 年。そのころ勤めていた東京のデザイン事務所で「マイコンクラブ」なるものを作って会社で購入してもらったTK80 でマシン語で遊んだりしていた。

個人的にはAPPLEII の海賊版を組み立てたり、秋葉原通いして数台のコンピュータを自作していた。でもこの頃は、パソコンはオタク(当時はネクラと呼ばれていた)の趣味の対象でしかなかった。インタフェースという言葉も一部の研究者しか使っていなかった。もちろんデザイナーでパソコンに興味を持つ人もほとんどなく、インタフェースがデザインの対象になることなど、ほとんどだれも想定してはいなかった時代である。

オタク趣味とインタフェースが交差する

京都に戻ってきて始めた個人事務所は、複合機と製図台とパソコン数台が高密度に詰まった職住一体の下賀茂の1Kのアパート。当初は、工作機械、オーディオ機器、家具、車、バイク関連のプロダクトデザインおよびグラフィックデザインが主な仕事であった。

プロダクトもグラフィックもすべて図面やスケッチで指定するアナログな方法で、パソコンはまだ使えるレベルではなかった。所有していたパソコンは、事務所の経理、住所録管理、スケジュール管理と趣味のプログラミングなどに使っていたのみで、デザインに直接関わりのある使い方ではなかった。
そのうちにパソコンやアプリが普及し、画面デザインやアイコンのデザインなどの仕事などを依頼されるようになってきた。

当時パソコンを使えるデザイナーもほとんどいなかったので、普及してきた情報システムの画面デザインが大きなニーズを生んでいた。でも当初は静的なグラフィックで、紙への印刷のかわりに画面に表示するだけの画面デザインであった。

そのうち対話的なシステムも出はじめ、操作手順やボタンの配置の設計は、プログラミングを趣味にしていた僕にとっては、趣味の延長に近いものだった。こうして、従来のプロダクトデザインやグラフィックデザインに加えて画面デザインや対話システムの設計が事業内容に加わった。

Knowledge Navigator、未来への予感

インタフェースやエクスペリエンスという概念をはじめて実感したのは偶然であった。アメリカの学会などに参加したソフトウエア工学の研究者が、海外のビデオを京都工芸繊維大学での研究者の集まりで上映するという噂を聞きつけて、お願いして潜り込んで見たのがAppleが1987年に発表したKnowledge Navigator であった。(これが何かはYoutube などでも確認してください。)

インタフェースデザインへのめり込んでいったのは、そこにデザインすべき新しい課題、領域を見つけたからである。オタクの趣味とデザインと未来への予感が重なり合い興奮したのを覚えている。そしてソフトディバイスはインタフェースデザインへと大きく舵を切った、それは1987年の後半から1988年前半である。

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