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ソフトディバイスの歴史 連載第2回「なぜ京都に?」

この記事は、ソフトディバイスの創業者である高橋賢一が、社内報の連載記事向けに執筆したものです。ソフトディバイス の成り立ちから、高橋が代表を退きフェローとなるまでのストーリーが高橋の視点で語られています。

そもそもなぜ京都に?

生まれは大阪、大学は京都、初めての就職は東京。でも事務所は京都。独立するつもりで東京から関西に戻ってきて、まずは京都に下宿。独立の意思は固かったが、まだクライアントもなく、京都の知人の事務所に就職。そのあと吹田の、これまた別の知人の事務所にしばらく世話になっていたが、ついに自宅に複合機、製図版(当時のデザイン事務所では必須の設備)をそろえて1984年、京都下賀茂に個人事務所ソフトディバイスの看板を掲げた。最初のクライアントは松下電産(今のパナソニック)。そのためクライアントは大阪。バイクや京阪で打ち合わせに通う毎日であった。関西では、プロダクトデザインの事務所は大阪に集中し、京都にはプロダクトデザインのクライアントになる企業もほとんどなく、クライアントの数が増えてきてもほとんどは大阪だった。

大阪からのほどよい距離

でもやっぱり京都。最初は単に青春を過ごした地、川が流れ山が近く、大都会よりはゆったりした時間の流れるところで暮らしたかった。実際は事務所を始めると寝る時間もない忙しい毎日が続いた。昼は打ち合わせで動き回り。夕方以降に作業を始める毎日。古都の風情を楽しめるどころではなかった。大阪に引っ越ししたらという声も多かった。しかし、仕事が軌道に乗ってくると京都に居ることのメリットを生かせるようになってきた。

大阪のクライアント近くに事務所があれば、こまごました作業の依頼や呼び出しを受けることもある。ソフトディバイス は少し離れていることでまとまった規模や、打ち合わせがそれほど頻繁でない仕事を依頼される傾向が出てきた。

大学とのつながり

卒業した大学やデザイン系の大学が近くにあったことで、バイトが集まりやすく、事務所はいつも多くの学生でにぎわっていた。彼らにとって、フル装備のパソコンや、パソコンを活用したデザイン業務に触れられる場は他になかっただろう。卒業してそのまま社員になった人も多い。一般には、まだパソコンに習熟した卒業生はいなかったため、習熟したバイトが社員になってくれることはありがたい人材確保になった。

京都工芸繊維大学は一時期、国内のインタフェース研究のメッカで、その分野の著名な先生方が多くおられた。そのためインタフェース関連の情報や人との接触機会が多くあった。仕事の合間に、京都で開催される学会や研究会のイベントに参加する機会も多かった。事務所に先生方が出入りすることも多かった。

京都までわざわざ来ていただくこと

京都以外や海外のクライアントが、打ち合わせの場として京都を選ぶ機会も多くなってきた。仕事の規模が大きくなると終了するまで何度も打ち合わせが入る。そのたびに京都への旅行を楽しみにするクライアントも多かった。また開発環境が事務所にあることでクライアントが事務所に来ざるを得ない場合も多かった。このことは交通費や移動の時間の大幅な削減につながった。

ゲストに京菓子を提供する「おこしやす」サービスは、このようにわざわざ京都に足を運んでくださるお客様へのおもてなしである。季節に合わせて作られる京菓子は、京都と季節を感じさせ、打ち合わせの合間の話題提供にも一役かっている。

京都の歳時を活用した大文字パーティも、社内外の人々の交流の機会として京都ならではのイベントになっている。

創立当初には電話、FAXのみであった通信手段がインタネットに切り替わってゆくに伴い成果物の形態もデジタルに変わり、関係者との時間と距離も縮まってきた。京都に居ることのメリットとディメリットの差も縮まったかもしれない。

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