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ソフトディバイス の歴史 連載第6回「北山へ。そして世代をつなぐ」

この記事は、ソフトディバイスの創業者である高橋賢一が、社内報の連載記事向けに執筆したものです。ソフトディバイス の成り立ちから、高橋が代表を退きフェローとなるまでのストーリーが高橋の視点で語られています。

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2002年、北山のオフィスへ

SDTとの約7年の合併時代を経て、SDは堅調な成長を続けていた。マンションの大きな部屋を複数賃貸していたがそれでも手狭になり、全員が見通せる広いワンフロアーのテナントスペースを探し始めた。数年後の2002年になってやっと現在の北山のオフィスに移転することができた。

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賃料のリスクや高額の敷金などの心配があったにもかかわらず、事業は順調でメンバー数、クライアント数、そして売り上げも拡大していた。デザイン界での知名度もさらにあがり、全国の大学から就職やインターンシップの希望者が訪れた。大学や学会とのつながりも緊密になり、学生、デザイナー、企業の見学なども増えていった。大文字のパーティの会場も広くなり、対外的なイベントも盛大になってきた。現事務所に移転後の約5年間、メンバーの入れ替わりやクライアントの変化もあったが、経営も安定してきた。当時非常勤で通っていた大学および大学院は7つもあった、プロジェクトからも遠ざかり、事務所はディレクターたちに任せることができた。
僕は役割を終えたと感じた。決心をした。退任だ。近いうちに大学講師などをメンバーに引き継ぐこと。学会や研究会の活動も引き継ぐこと。経営や人事権を新しい社長に引き継ぐこと、などいろいろ段取りをして、現役を退くことにしたのだ。

新体制へ

SDは情報化の進展と歩を共にしてきた。技術的な知識やノウハウも取り込んで他のデザイン事務所とは一線を画した進化を遂げてきたように思う。SDがインタフェースデザインを標榜し始めて25年以上になるが、未だに他に競合する同業者はほとんどない。プロダクトデザインやグラフィックデザイン事務所が日本中に林立するまでには、それほど長い年月を必要としなかったことに比べるといかに奇異なことだろう。常にスキルや知識、ノウハウを進化させる必要があり、他の事務所が追随しにくかった一因はそこにあるのではとないかと思う。
さらに加速する時代の変化に対応して進化を継続させてゆくには組織の若返りが必要になる。社員の平均年齢を一人で押し上げていた社長が交代すべき時期が迫っていると感じた。個人の名前を冠していない事務所名にした理由を活かす時を迎えた。

敢えて「気付いたら居なかった」に。

すべてを新しい体制に移行するためには5年ほどをかけた。しかも、全く個人的な理由だができるだけそっと消える。いつの間にか気づいたら居ないというソフトリービングにしたかった。まあまあうまくいったかな?
やり残したことや、SDが今後どのようになってほしい、どうあるべきなどに関しては、いろいろな思いもあるが。みんなの未来はみんなにおまかせ。。
現役を退いてからも、ラボの開設、イントラの進化、新しい人材の補充、就労ルールの変化などSDが前向きに変化しつつ進化しているさまは頼もしい。
ここから後のヒストリーは現在の在籍メンバーに綴ってもらうことにしたい。

これまでSDの歴史をざっくりと眺めてきたが、たぶん忘れてしまったことや記憶違いの点が多々あると思う。気づいた人は訂正追加しておいてほしい。
次回以降いくつかの側面で記憶を手繰ってみたい。1つは業務内容や成果の変遷。2つ目は事務所の場所や環境の変遷、3つ目はメンバーに関するエピソードや変遷。あと3回くらいの予定です。

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