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佐保田鶴治の般若心経論

行きがかり上から、佐保田の般若心経論を読んだ。これは『ヨーガの宗教理念』(平河出版社)に所収されているもので、巻末の第四章として入っている。この本自体が、それぞれ別の論文ないし講演を採録しているので、それが一つのまとまりを持っているものなのかどうかわからないのだが、この四章もおそらく文体からすると講演なのだろう。

私は「異端の般若心経論」をすでに書いているので、その主張に関連つけて述べてみたい。
 

この拙論は、般若心経を〈来るべき書〉として、まだまだ人類の未来にとって、可能性のある書と解釈しているが、まさにそれに寄り添うかのように先取りしている。それが、ヨーガに関心を持っているから見えてきたものなのか、それとも佐保田が先を行っていたのかどちらかなのだろうが、時代を先取りしていたと私は感じた。この本の出版が1976年なので、かれこれ50年ほど昔であり、私は大学生だった。そのころは暗中模索もいいところで、なにもわからなかったといっていい。その頃の佐保田の印象としては、学者の割にははっきりしたもの謂いと共に、この人はポリシーのある人だと感じていた。それもヨーガ研究者なのであったから、ぼくら仏教研究者からは、ちょっと胡散臭いというのが、正直な印象だった。

それが50年過ぎると、まったくそうではなく、いや佐保田は時代を先取りしていたという感がいなめない。われわれは後からやってきたのだ。
その証拠は、この論文からいうと真我=空と言っている点にもあらわれている。

既に仏教の空概念をバラモンの真我(アートマン)と同一視しているところにある。

当時の仏教学としての公式見解は仏教というのはバラモンの真我(アートマン)というものはなくて無我だという論調で、ま反対の主張だと理解されていた。仏教はバラモン教を批判していたのだというのが原則だった。その時代に真我=空と言ったのは佐保田ぐらいだったのではないだろうか。
よく考えてみるとわかるように、バラモンは「我」ですよね、仏教は「無我」なんですということを言えば、バラモンの土俵で反論していることになり、いずれバラモンの考えに吸収されてしまう。ゴータマ・ブッダはそんなことを言ってはいない。そもそも、我(アートマン)があるとか無いとか言わないのだ。そんなものはあるともないとも言えないという立場だった。
それを「無記」というけれど、まさに答えなかったのだ。

その証拠は、仏典の中でも最古層と言われている『スッタニパータ』の五章で、ドータカというバラモンから転向してきた弟子が、ゴータマにバラモンをバシッと論難してくださいと述べるシーがある。これに対してゴータマは「わたくしは、いかなるひとであれ、この世間において論難しては反論する論議にかかわるひとを、解脱させ自由にすべく努力することはないであろう」(荒牧典俊 他訳)と述べる。

(ここで解脱が出てくるのは、バラモンを論破して解脱させてくださいとドータカが述べているからで、それに答えたものであるからだ。)

平たく言うと、そんなことはどうでもいいから、学道修行するというなら、学道修行にはげみなさという。
一見すると、議論を回避しているように見えるけれど、そうではなく、同じ土俵の上に乗らないのだ。でも、ドータカは改宗者だから、バラモンを離れた理屈を求めてくるのである。まだ、バラモンの土俵上にあるのだ。
このことはなにも、この2500年ほどの昔のことではなく、今もちっとも変っていないのであり、現在でもさも当然のごとく日本の大乗仏教の法話でも語られている。
つい先日も、バラモンは「我」なんですね、仏教はそれに対して「無我」なんですと鬼の首でも取ったように語っている住職に出会った。
ことほど左様に、この説は既成観念として定着している。

そんな中で、佐保田は真我=空といったのはまさに慧眼であったと思う。

現在では真我=無我という解釈が提出されているが、それすらまだまだ理解されていないのだけれども、その先をいくかのような主張が提出されている。

*永井均「自我、真我、無我についてー「気づき(サティ、マインドフルネス)」はいかにして可能か」『世界の独在論的存在構造』(春秋社)付録

そうはいっても、当時の時代性からは避けられなくて、例えばそれは西洋批判であって、「西洋には知識があるが智慧がない」という、あの言い方で、当時は流行った物言いであった。哲学も哲学そのものではなく、宗教哲学だけを哲学と呼んでいる。宗教哲学こそが人間の深い存在を示していて、これこそが哲学の名に値すると考えているのだ。現在からみれば、哲学そのものの概念が変わってきているので、「分析哲学」など屁理屈になってしまうのだろうか。

ともかく、現在ではそんな宗教哲学でも、言語思考によってつくられたのもであるから一つの幻想だという考えにあって、西洋も東洋もないという立場にある。いや、それどころか完全に西洋流の学問、思想、科学に席巻されているのだろう。

そのことはさておいても、佐保田のいう「宗教」なる概念は先のエッセイでも触れているように、教会とか教団というような組織的な宗教ということを意味していなくて、むしろそれぞれの個人的な信念(ビリーフbelief)を意味しており、その人の生き方のバックボーンになるものだと言っている。

*そのエッセイは

いやいや、そんなあいまいな言い方ではいけないだろう。もうすこし、佐保田鶴治の言説から見てみよう。
「ヨーガが宗教である」と言っている定義は次のようだとある。ヨーガが宗教であるとの反対意見の根になっているのは二種の誤解にあるとしてしている。一つはこの場合の宗教とはどういう意味かということであり、二つ目はヨーガの体操は宗教であるということを明らかにする必要があるとして、以下の文言がある。長いので、直接対応する部分だけを引用してみる。(ぜひ、204ー210頁までを読んでください)

ヨーガを宗教であると主張する際の宗教とはなんであるかということにつて解明しよう。
この場合の宗教とは、「自分自身に帰ろうとする方向を持った人間意識の努力のこと」である。
(中略)
ヨーガは宗教であるという場合の宗教とはまさにこの瞑想、三昧を意味しているのである。
最後に、ヨーガの体操は瞑想への準備であるだけでなく、瞑想を中心要素としてることを注意しておこう。

『ヨーガの宗教理念』206-210頁

このように、ここでいう宗教という意味は、自分自身に帰ろうとする努力のことであり、私の言葉で言い直せば、〈私〉の発見である。また、ヨーガの体操というのは、たんなる体を動かすということではなく、そのまま瞑想なのだということだ。しからば、〈私〉を発見するために瞑想をせよという私の主張と同じ考えであるともいえる。
このことは非常に現在的で、今は個人の宗教心こそが宗教でしかないので、集団宗教はたんなる共同幻想にすぎないというのが、現実だろう。集団宗教はどんどん衰退していくが、個人の宗教心を満たしてくれるものが、現れないというのが危機であり不幸なのだ。
集団化、組織化しない宗教が求められていると言ってもいいかもしれない。

その点、ヨーガは個人の身体技法に特化しているので、組織化されず人里離れた山奥で実践されていたとするなら、まさにこの宗教なのだ。

今回ヨーガに接する機会があって、いろいろ読み漁っていて気づいたのは、ヨーガはけっこう仏教にちかいということと、ヨーガから見ることによって、仏教に関して気づいていなかった点がはっきり見えだしたことだ。
おそらく、佐保田もヨーガに接することで、般若心経の本質の解釈ができたのだと思える。

佐保田は冒頭で述べている。

心経の講釈は大流行で、ベストセラーになったものもあるという。今さら私などがしゃしゃり出る幕では無いと考えていたのであるが、それらの講義を少しばかり読みあさってみて、どうも恐ろしい見当違いの評価と解釈がその大部分であるのには驚き入った。

『ヨーガの宗教理念242頁』

解釈の間違いの一番大きな点は、前半の空概念について述べているところを重視して、後半の呪文(マントラ)を述べているところを無視するという点にあると明言していることだ。これは正しい。
現在でも、事態はそれほどかわっていなくて、同形異曲の般若心経本ばかりだ。

空の説明がなされている部分について佐保田は次のように記述している。

一般にこの部分がこのお経の中心と考えられていて、先生方はここの部分の説明に力こぶを入れて、縦横無尽に解説されるのであるが、それは見当違いも甚だしいといわなければならない。この部分は大乗仏教一般にとっては大切な理論展開といえようが、心経が書かれたそもそものねらいはここにあるのでは無い。空の理論を展開するのは金剛般若経あたりの役目であって、今さらこんなちっぽけなお経を説く必要がどこにあろうか。

同243頁

このように切って捨て、実は後半の部分こそが本領なのだと述べる。

明呪(マントラ)の提示―この部分こそ、このお経の説かれた当の目的であって、このお経の作者は、この明呪を信心あつい仏教徒の大衆に唱えてもらうことを念願としたのである。その明呪が経の最後に提示されることによって、このお経の経題の主旨は明らかになっているのである。この点がハッキリつかめていないことには、いかなる明論卓説も、心経の解説としては、迷論臆説になってしまうのである。

同頁

この点についてはまさにその通りで、現在では真言宗の学僧がこのマントラを正しく扱っているぐらいだろうか。
しかし、マントラというのは言語機能の中でも、シニファン(意味するもの)とシニフェ(意味されるもの)中で意味するもの100%で意味されるものは0%なものだから、単に音にして口から出しているに過ぎない。
このような言語の使用もあるのだろうけれど、そこに特化したお経だともいえるので、この経典からどんどん密教化(つまりタントラ化)していったのは、理解できる。

私の解釈は先のエッセイに任せておいて、初めに掲げた真我=空をどのように書いているのを見てみよう。

真我というものは「ある」ということばをつけることのできないものであって、あるとも無いともいえないものであるからとも考えられる。ともかく、個人的存在の基礎になるべき我を否定するのはブッダ教説の真意ではないと言わねばなるまい。(p-269)

同269頁

あるともないともいえないところは言いようがないので、これを仏教では「空」といったのである。だから大乗仏教の哲学で空というのは真我のことであると言ってもよいうと思う(p-269)

同269頁

このようにあるが、バラモンの教説では、アートマンは実在するとなっているので、あるともないとも言えないということではない。しかしながら、たしかに存在はするけれど実在するとは言えないだろう。
謂わんとするところはわからないわけではないが、これは佐保田独特の解釈になるだろうか。それでも、ことの事態としては正しくて、バラモンがアートマンは実在するというけれど、誰もが知るわけではなくて、アートマンを知るためには、バラモンの祭式に努めよというのであるから、祭式をしないとわからないし、分かるのはバラモンだけだというので、一般大衆はせっせとバラモン祭式を行うだけなのだ。
一方、ヨーガでは身体技法を実践しないことにはつかめない。
またそれは言葉であらわせないのであるから、言葉にはならないのである。

このような佐保田鶴治の般若心経論への視角というか評価が、ヨーガを考える上でのメルクマールになるかもしれない。

最後に、真我と共に霊魂という単語も出てくるのであるが、これがもうひとつわからない。信じているとも述べる。信じることもフィクションの一つであるから、それに気づかないのは、宗教というか、信念というか、神というか、そういうものを信じられた時代であったのかもしれない。(ここで使っている「宗教」も「信念」も先の語使用とは違っていることに注意してください)

別に、ニヒリズムに陥るわけではないけれど、そんなに安穏に信じることはできない。霊魂なんて無いというのではない。あるともないとも言えないということなんだろうけれど、そう信じたい、そう信じたいからそう信じるというのが本当のところなんだろうが、それでは真実ではない。

私は、地獄に堕ちてもいいから真実を知りたいと思ってきた。

それを伝えることができたら、最高なんだけれども。

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