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異形の『般若心経』論


なぜ般若心経なのか

般若心経を扱った書物は星の数ほどあります。それは仏教徒にとっては必読文献であるかのように位置づけられていますが、特に大乗仏教徒にとっては浄土系と法華系を除いて基本的な文献になっているようです。
それだけではありません。ビジネス書としても頻出するし、自己啓発本の中では長年繰り返し登場する地位を占めています。
そんな般若心経は売れ筋一番の人気本のジャンルにありますが、実はなぜか仏教を否定するような内容なのに重要経典の位置にあるという不思議があるのです。
この短い経典の中に記されているのは、およそ仏教経典としてはあるまじき内容なのです。

般若心経は仏教でない?

かいつまんで説明しますと、仏教の基本中の基本である四諦(苦集滅道)が否定されています。六根(眼耳鼻舌身意)、六境(色聲香味蝕法)の十二処、六識(眼識から意識まで)を加えた十八界も無いとしています。また無明からはじまる十二支縁起も否定されます。また老死も否定され、知慧も否定、むろん、五蘊も否定されます。これでは仏教の基本概念はすべて否定されていることになるではありませんか。
それに経典なのに釈迦が主人公ではなく観自在菩薩が主人公になっています。
肯定されているのは空と阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼうだい)(最高の悟り)のみで、それを得るためには般若波羅蜜多によるのだとします。
そして真言(マントラ)という呪文を唱えましょうと。
こんな経典を崇めるのはおかしいと思いませんか?
本来はそういう経典なのに全く逆の評価に満ちています。
仏教経典なのに仏教を否定する経典という逆説になっています。
例えばヴェトナムの臨済禅のティク・ナット・ハン師は般若心経を大変評価しています。『ティク・ナット・ハンの般若心経』(野草社)の帯文には「般若波羅蜜の智慧は、世間的常識を超越する、究極の真理であり、仏教のもっとも崇高な洞察です」とこんな最大の評価を与えています。
しかしながら数多あるこれらの般若心経本はテーラワーダの長老であるアルボムッレ・スマナサーラ長老によれば「日本における般若心経文化だ」と揶揄されています。揶揄するどころか、『般若心経は間違い?』という本の内容は、もっと強烈で、邪教とまでは言わないが、とうてい仏教とは考えていないようです。虚無主義、神秘主義とその言葉は強烈で、仏教の中では異端だと言いたいようです。
それなのに、内容もわからずに珍重されているだけではなく、写経したり唱えられたりしている。そして般若心経グッズなるものがたくさん出回っている。決してその文化を否定するわけでは無いけども般若心経は間違っていると言いたいのでしょう。苦々しく思っているのかもしれません。
ほとんどの般若心経論は自分にとって都合の良い部分だけをとって解釈しているといってもいいようなもので、ほとんどが我田引水、肯定的に受け入れであって、それなのに仏教のお経の代表のようなものとして「ほら般若心経にもこうあります」と権威付けに使っています。ほとんどの人々はその内容の所々しか知らないのに読誦し、写経し珍重するのです。

般若心経は来るべき書

こういった評価や自分の自説補強のために引きつけた解釈とは別に、まだまだわかないだけではなく、これはひょっとしたらすごいテキストかもしれないという新たな発見があったので、その一端について触れてみたいとおもいます。
もちろん、これもお前の自己都合の解釈だろうと言われればその通りなのですが、般若心経の手放しの絶賛論でもなく、こんなのは仏教じゃないとするトンデモ本だという立場でもない、まだ、本当のところはよく分かっていないテキストとして提示したいと思います。
でも、そこに、我々に突きつけられている「何か特別なものがある」という直観はぶきみです。


別稿で「霊的開眼とはなにか」の原稿を書いていてその核心が、これは般若心経が示している地点と同じかもしれないと気づいたのです。そしてそれは単にここに真理が描かれているという発見だけではなく、古典としてのテキストでもなく、まだまだ、探究の余地があって、私たち人類はまだそこまで行き着いていないという発見の書でもあるという気づきでした。
それは「救済がなくなってしまった後の議論」になります。

手短にその要点を述べると般若心経が空の論理を扱っていることは、ほぼ承知されていると思いますが、その空は全てであって後半の呪文の部分もそうだということをさし示します。また仏教の基本である縁起思想までも否定しています。縁起も空だということです。
そしてこれは〈私〉の中で起こる現象だといっているので、いわゆる外界で起こる真実ではなく内的世界で起こっているということになります。
そしてそこにはあっけらかんとした空だという事実のみだと言っているのです。空の概念は、一般に考えられる空の世界(無と空は勘違いされやすいですが空は無ではないのです)、また空の論理だけではない、言葉で表現できない空であろうと思われます。また密教化した実体としての空でないことも明らかでしょう。だからと言って神秘的な空でもありません。
この説明では何のことかさっぱりわからないだろうと思うのですが、とりあえず結論を先に述べさせてもらいました。

その歴史

般若経典類の研究によると、紀元前100年頃から般若経典は作成されていくそうです。現在知られているところではサンスクリット文献が10種類以上チベット訳が12種類以上、漢訳に至っては42種類以上もあるといわれています。
漢訳にはまだサンスクリット文献では発見されていないものも漢訳されているので、もっと多数存在したかもしれません。
般若経典の制作はこの後1000年近く続いたといわれています。
その発展形は三枝充悳によると、次のように分類されています。

*三枝充悳『般若経の真理』(春秋社)

a:ある地域ごとにまとまって般若経となった。
b:異質のものを加えて増大し発展した。
c:逆に簡略化し縮小した。
d:難解な術語を避けて成立した。
e:内容的に換骨奪胎されたものが出てくる。

このようにまとめられています。
その長さも長大なものから小さなものまであって、般若心経と称する経典はいちばんよく知られているのが小本の般若心経で、もう一つ少し長くした大本の般若心経があります。大本はこの小本に釈迦が主人公になった構成であらわされたもので、おそらく小本の後に編纂されたものだろうと考えられています。
般若心経そのものはおそらく2~3世紀頃の制作と考えられていますが、先の分類で言えばcのように簡略化されて縮小されたものであるかのようですが、実はeであって内容的にも突出しています。いわゆる般若経典類のピークであったとともに全く別物になっていると言っていいでしょう。それほど特異な般若経典だといいえるのです。作成者はおそらくそんな事には全く気づいていなかっただろうし、またありがたがる人たちもそんなことには気づいていません。
経典的にはこの般若心経をピークに一気にタントラ化、密教化していくわけで、それが『理趣経』などになると、もはや別のモノへと変わっていくので、その変化のターニングポイントにあったことは間違いないように思われます。(その原因は、インドからの仏教の追放という事情があったのではないかと憶測しているのですが、まだそうだとはされていません)
内容的には般若波羅蜜多の知恵を得ることであり、般若はプラジュナーという語が音訳されますが、総合的に経験的に直観される智慧・悟りを意味しています。
波羅蜜多はパラミーターの音訳で、智慧の完成と言う意味です。

*一般的には波羅蜜というのは、六つあって六波羅蜜と言われますが、菩薩の修行項目と考えてもいいものです。完成させなければならない項目で、その一つが般若波羅蜜ということになります

これに「多」をつけたのは(…mitā)とサンスクリット文では抽象名詞をあらわしているもので、「空」の思想を基盤とする般若の悟りということが主題になるということです。抽象名詞になっていることに注意しよう。
そこには後半にもあるように、真言(マントラ)呪(ヴィデヤ)陀羅尼(ダラニ)へと総合しようとする傾向がみられます。
われわれが常識的に聞かされている般若心経とは何が違っていて、何が脅威なのかという事を述べないといけないでしょう。
それを述べないと意味がありませんから。

どこが違うのか

話がむつかしくなるので、冒頭の部分だけを述べておきます。(できるだけ、要点のみに限って)
玄奘訳の般若心経の冒頭に「観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切空厄」とあります。
(観自在菩薩が深く般若波羅蜜を修行していたとき、五蘊は全て空であると照見した。一切の苦しみ災いは救われる)というほどの意味になると考えられます。
五蘊は仏教用語で人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて分析した用語で、つまり仏教はこのようにカテゴリー化して分析したということです。
しかしサンスクリット文では、①この「度一切空厄」に相当する文章がありません。②また「照見五蘊皆空」と訳している文では一文になっていますが、実は二文になっているのです。
①、このことは一切の苦厄を除いて「度」されるなどということは書いていない。「度」というのは救済度の意味だから、救われるということです。
これは後半にある「能徐一切苦」を前に持ってきたと説明されることがありますが、それはおかしいでしょう。普通に読んで、ここでは主語は「空」であって、「能徐一切苦」の主語は般若波羅蜜多なのです。空と般若波羅蜜多が同じことになってしまいます。
専門の研究者によれば、これは玄奘の捏造だとされています。
「苦」は除くといっていますが「救われる」と言っていないのです。
「度」は救済度の意味だから、救いということです。
苦を除くと言っているだけで、救うとは言っていない。

「能徐一切苦」→Sarvaduḥkhaprśamanḥ

サンスクリット文ではこうあって「すべての苦を沈静化する」というほどの意味です。どこにもそれによって救済するとは言っていないということになります。
そもそも救済すると言えば、釈尊でなければならないのにこの経典では菩薩が主人公だという点に問題があります。つまり悟っていない。菩薩は悟りたいと修行する人のことを意味したので悟った人ではありません。もし救済するのが誰であるかと言えば、釈尊でないといけないことになるので、救済もないのが般若心経なのです。(同じことを後半でもくりかえします)

*原田和宗『「般若心経」成立史論』(大蔵出版)

また②についてはサンスクリット文では「観自在菩薩は彼岸に行くことを願い、いつものように修行していた時、それは五蘊であると見抜いた。そしてそれは空であるとわかった」というくらいの意味になります。
まず般若波羅蜜多によって人間のカテゴリーは五つで構成されていると見抜いて、それらは空だと分かった、またはそう見たということです。この二文であるということを1文に玄奘はしてしまったということになります要約すると五蘊は確かに空であると言っているようですが、ニアンスは違います。その前に指示代名詞で受けて二文になっているという事が重要です。

原田和宗が詳細に和訳しています。


聖者であるアヴァローキテーシュヴァラ(観察する自在者)というボーディサットヴァ(聖観自在菩薩)は甚深なる〈智慧の究極性〉(深般若波羅蜜多)のもとに[ボーディサットヴァの]実践項目を実践しておられたとき、観察したもうた:[人格主体としての自我があるのではなく、]五箇の諸基幹(五蘊)がある、と。それら(五箇の諸基幹)を自己本質の空なるもの(自己本質を欠如したもの/自性空)として視たもうた

原文は
Aryāvalokitśvaro bodhi-sattvo gṃbhīrāyāṃ prajñā-pāramitāyāṃ caryām caramāṇo vyavalokayati sma : pañca skandhās, tāṃś ca svabhāva-śūnyān pśyati sma.

とあります。

繰り返しになりますが、丁寧に文脈にかかわる部分だけに限定してみていくと次のようになるでしょうか。
Aryāvalokitは自在にみる、自分を見る、śvaroは見る(自分を)で、bodhi-sattvoは菩薩のこと。ゆえに「観自在菩薩」となるのでしょう。
gṃbhīrāyāṃは深く、深遠なという意味で、yāṃがあるので、locative(於格)でしょう。
prajñā-pāramitāyāṃはprajñāが智慧で、pāramitāyāṃが彼岸へ至る、智慧の完成、yāṃと変化しているので、locative(於格)でしょうか。そうだとすると「~おいて」の意味になります。
caryām caramāṇo はcaryāmは日常的に、日頃からの意味で、caramāṇoは行をする、修行するの意味ですから「日常的に修行する」の意味で、菩薩だからその実践項目ということになり、禅定も入るでしょう。
vyavalokayatiは「照見する、観察する、見る」の意味。
smaは動詞の現在形とともに用いられて、過去における状態・継続を示すのとされているので、過去から継続して照見したということになります。
pañcaは「五つの」
skandhāsは蘊で、よって五蘊のこと。本来は「肩」をさしますが、仏教のカテゴリーと考えていいでしょう。色受想行識のことです。
tāṃśは指示代名詞で「それは」の意味。
caは接続詞で「と、そして」
svabhāva-śūnyānはsvabhāvaが「本来的、本体的、自性として」の意味で、śūnyānは空のこと。śūnyā+nで強調表現になっています。つまり「空だ」と強調しての意味になります。そこで玄奘は「皆空」と訳したのでしょう。「自性としては空だ」ということ。
pśyati smaはpśyati が「見る、探す」意味で、‐yati とあるので、能動態のsg、3人称か? 能動態は他動詞のことだから、目的へ向かうことを意味するので、「空だと見た」ということになります。また、ここでも、smaがついているので、過去から継続して見ていたということになります。

とりあえず、もう一度問題の部分に注意して日本語にしてみると以下のような意味になるでしょうか。
「自分を自在に見る菩薩は、深遠な彼岸へ行く智慧において、日頃の修行をしていた時、照見した。(過去から継続して見ていた)人間存在は五蘊であると。それは、そして自性において空だと見た。(過去から継続して見ていた)」

日本語としては、すこしおかしいですけれどもそのような意味です。どこにも、救済なんて意味は出てきません。また、たしかに五蘊皆空という意味にもとれますが、そんなことは言っていないのです。さきに、人間存在は五蘊からなっていると見抜いて、そして、それは空だと見たのです。五蘊のカテゴリーは十二処と関連してインド哲学の中でも特異なもので、ほとんど他の哲学は物資と精神に分けるのに、五蘊は微妙に二つが入り組んでいます。特異なカテゴリーだと言っていいのです。そして、それから空だと述べているので、すでに当然のこととして五蘊であるかのように言っているわけではなく、はじめに五蘊と発見したというのです。
まして、それは観自在菩薩が深い修行をしていた時に見抜いたのだと言っているのです。(そこが重要)

*桂紹隆・五島清隆『龍樹「根本中頌」を読む』(春秋社)

かつ、救済はないと言っている。いや、「ない」とは言っていなくて、言及していないだけです。ではなぜ玄奘は「度一切苦厄」と入れたのでしょうか。真下尊吉は『サンスクリット原典から学ぶ般若心経入門』(東方出版)で、後半に「能徐一切苦」とあるので、「ここへ持ってきたと考えられます」と述べている。繰り返しになりますが、「能徐一切苦」は一切の苦を除くとは言っていなくて、苦を沈めるというのだし、その主語は般若波羅蜜多であって空ではありません。この文章の文脈では直接対応しているのは空だとなるのではないでしょうか。空と般若波羅蜜多が同じなら、同じ言葉を使えばいいので、そうでないのは、やはり無理があるでしょう。なぜなんだろう。おそらく玄奘は救済のお経として解釈していたのです。すっきりと空がわかれば救われるとスッキリさせてしまった。そこで、この経典の最高に素晴らしいところを消してしまったのです。
百歩下がって救済はないとは書いていないとしても、少なくとも玄奘の「度一切苦厄」はない。
救済なんてないのです。
救済つまり救いもないと言っています。そう読めます。
しかし、救いがないというのは、救ってほしいのに救いがないと言っているわけではなくて、そもそも救いなんていうものがないと読めるのです。なぜなら、苦すら無いのですから。「無苦集滅道」とあります。
だからといってニヒリズムに陥る必要はなくて、単に事実としてそうだということです。

*救済度というのは、衆生救済度のことだから、一般的な理解としては、現世で苦しみ悩んでいるすべてのものを救済し悟りへ導くこととされているので、「苦を除くことは救済じゃないか」と言われるでしょうが、現世において苦がなくなることなんてないのだという認識に立てば、苦を鎮めるというのは無くすわけではないという点で、救済ではないと読めるのです。

瞑想体験とつながっている

この事態は、般若心経の原典にあるということだけではなくて、私のつたない瞑想体験とも一致します。瞑想していたある接心で、救いなどというものはないのだと直観しました。それは虚しいわけではなくて、私は単に生まれきて死んで行く存在だとわかったということで、そうじゃないかと薄々は感じていたので、確かにそうだと確信したのです。さみしいけれどそうなんだろうと感じると。
私だけではなく、みな同じなんだと、かつすべての人々だけでなく、森羅万象すべてであって、路傍の石ころだって同じだとわかったのです。
単に人間と石ころではスパンが違うだけで、同じなのだと。石ころだって、いずれは原子に分解され、素粒子に分解されます。人間はもっとスパンは短くて、死ねば燃やされ、二酸化炭素と水になります。残った骨も原子に分解され、それも素粒子に分解され、宇宙過程のなかに消えていくでしょう。

*宇宙過程というのは、そんな言葉があるかどうかわかりませんが、自然過程のことです。もっとスケールがおおきいと思うので、宇宙過程とつけてみました。

何ら不思議なことはありません。生きとし生けるものだけでなく、山も川も宇宙の生成物だろうと同じものであったのです。
そう、直観したとき、その直観と般若心経は一致することに驚いたのでした。
でも、救いがないというのは辛いよね。たしかに、それが腑に落ちることはないかもしれませんが、それはそうなのです。
般若心経はせめて、真言(マントラ)を唱えろと言います。呪文でもなんでもいい。〈言語的無想〉のことばを発語せよと
シニフェが衰え、シニファンが巨大になる発語のことです。

*井筒俊彦『意味の深みへ』(岩波文庫)

般若経典類はこのあと『理趣経』へとむかって、密教化していきます。『理趣経』の有名な第3段で宇宙の生きとし生けるものをことごとく殺害しても絶対に地獄に落ちたりはしないという行が出てきます。(これは前半でもふれました)そのためには教えを心に留めて読経をするならばであって真言の威力を誇っています。
密教に集約していかないとしても、この般若心経はなんなのでしょうか。何かまだまだ重大な事実の彼岸に向かっているかのようです。密教化しないもう一つの方向があったのではないでしょうか。


何度も立ち返ってくるテキストのようで、戻ってくることが求められる必要な文献のように思われます。人を殺してもいいのかという問題を突きつけてきます。
こんなに恐ろしいテキストなのに、人々はそれを知ってか知らずか珍重しています。おそらく本当のところはこれは恐ろしい真実を扱った経典だという事は感づいているのでしょう。そこには何かあると特に日本人たちは感づいているようです。軽くあつかう救済などではない何かが。
すでに仏教ではない異端のトンデモ本なのか、それとも救いの次にあるビヨンドThe救いを求めてのものなのか、来るべき書物なのかまだ分かりません。


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