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今、なぜヨーガなのか、瞑想なのか


ヨーガないし、瞑想は、かつてのブームは下火になりつつあるも今なお健在で続けられている。しかし、今なぜヨーガなのかというと、それに応え切れるのは数少ない。少ないと言うよりも、そもそもそんな問いに関心はないみたいだ。瞑想は後で触れるとして、ヨーガに関しては、「そこに山があるから登るんだ」式の楽しいからやっている、続けているというのがほとんどだろう。

手近にあるマニュアル本、三和由香利『200のポーズがわかるYOGA図鑑』(
高橋書店)によると「はじめに」で「ライフスタイルとともに、日々変化する自分と向き合い『自分のヨガ=ライフ』を豊かにするため本書をご活用頂き、自身の可能性を広げて頂ければ幸いです」と記している。この後ヨーガはそもそも古代インドの伝統で、心を身体を整えるための修行法であったとかの常套句が並んでいるが、要は、ヨガポーズのマニアル書になっている。
自分の可能性を広げていただければというのは、アーサナのできる、できないの可能性であって、現在において何であるのか、なぜ必要なのかについては語っていない。

ヨーガはインドの深い哲学だとも言っても、自身の形而上学があったわけでもなく、ひたすら身体技法だったヨーガにそのようなものは無かったのかもしれない。『ヨーガ・スートラ』になって、サーンキャ(古代インドの哲学の一派)の形而上学を取り入れて理論体系を作っていったが、本来はひたすら身体技法だったように思える。

ヨーガの達人たちが、この世界に残したものは、禅家の達人たちが残したような語録などより数は少ない。むしろそれらは、カーリカ(偈)と呼ばれる短文として残っているようで、ヴェーダからの一文、ウパニシャッドからの一文、バカバットギータ―の引用などに代理されているが、それはすべてステレオタイプのものだ。「ヨガ」のビジネスを犯す気は無いけれど、ヨーガを何のためにするのかの言説で目新しいものはない。

そう考えれば、先の文言は、より一般的かもしれない「日々変化する自分と向き合い」と言うところにあるのだろう。
ヨーガはそんな難しいことを考えるより、身体を動かす事は楽しい。そして身体技法であったから、まずはアーサナの身体能力の競い合いであるようだ。このアーサナができて、あれができないというようにだ。それは他のスポーツと同じように、身体能力の競い合いの感をなしている。

瞑想になるともう少し複雑で、多種多様な瞑想があるけれど、目指すところはこころの平安であったり、安らぎであったりするけれど、脳の集中力が増すとか、回転が速くなるとかの功利的なものもあるけれど、これもいわば身体能力の向上に関係している。脳だって、身体だからだ。

そこにはなぜ今ヨーガなのか? なぜ今瞑想なのかなと問うていないと言っていいだろ。

いや、ないどころか、どこを見ても心の安らぎになり、英知を得るなり、そこら中にこれらの文言が満ちているのだろう。英知と言っても何なのかはあいまいだ。
それらは常套句であって、誰もがヨーガとは瞑想とはそういうものだと思っている既成観念なのだ。

そうじゃないといったヨギーがいる。タンテス・ダイジ*だ。『ニルヴァーナのプロセスとテクニック』(森北出版)で「いわゆる人格円満だとか、身心の健康だとは何の関係もない」と言ってのけた。

*ここで、訂正しておかねばならない。これまでダンテス・タイジと表記していた。今回発見したのは、タイジ→ダイジなのだ。読み間違いとは恐ろしいもので、一回間違うと疑うことをしない。なぜ俗名が雨宮第二なのか不思議に感じていたのに、「第二」を「だいじ」と読むいうことだったのかと分かった気がした。でも、ネットでみると、ダンテスは過去世の名前の一つで、ダイジはインドクリシュナ神の実在のモデルという紹介もある。由来はともかく、この本にダイジと表記されているので、完全なミステークでした。次回より表記を改めます。

心の安来なんて関係ないし、健康に良いということもないと言っている。
それでは何なのかと言うと、「絶対の自己自身、ニルヴァーナ、神であることに目覚め」ることなのだと言う。
単語の上では「ニルヴァーナ」なり「神」「絶対の自己自身」だったりするけれど、その事態そのものは、これらの単語からは漠然としている。言葉では言い表せないのかもしれない。
しかし、ダンテス・ダイジの推薦する道元や久松真一(絶対無の理論)、般若経典、クリシュナムルティなどの文言から推測するなら、それぞれの著作の影響下にあるだろうと思える。道元と神が同時に出てきたりするのはそのせいだろう。
そのような言葉上のバイアスを取り除いたと考えても、ダンテス・ダイジは何を見たのだろうか?
著作を丹念に探っていくと、〈真理への覚醒〉というものではなかったかと思える。

ここで一足飛びにとんで、ヨーガ瞑想が今必要としているものは、〈この情況における覚醒〉であると考えてみると、そう捉えると、そこで何かが飛び出してこないのか、という希望が見えてこないだろうか。

しかし、『ヨーガ・スートラ』などの古典を引っ張り出してみると、そこには個人の解脱であり、この情況であったり社会性のような文言などは出てこない。かつ、そのような社会政治的な視点は見当たらない。そんな社会性などどうでも良いというように見える。あくまで個体の解放や平和であって、個体以上のものを目指しているわけではない。もともとヨーガは個人的なものであった。それが社会性に向かうときは、平和であり、安らぎであり、救済という形でしか語りえない。

そのダンテス・ダイジでさえ『マネージメント、タブレット、プロローグ』(森北出版)を読むと、巻末に人類の課題について、次のように落とし込んでいる。

私達とは、何をさておき、私自身ということの根本前提の暗黙の了解を否定して、私とは何かを、まったく新しく究明し直さなければならないのである。
これが、この終末の時代の全人類的な最重要問題なのだ。
私の正体を見破り、
神に目覚めるのだ。

私の正体を見破ることだと述べている。それが神だというが、別に神でなくても良いので、そこは神に強くこだわらないでおこう。すると、そこに見えてくるものは、私の正体を見破るための身体技法としてのヨーガと瞑想が見えてくるのではないだろうか。
もちろん私の正体とは〈私〉のことであって、今ここで息づいている、この〈私〉のことだ。自分の脳で考え出した属性を待つ「私」ではない。誰かのために演技して立っている「私」でもない。人称代名詞としてのⅠでもない。認識主体として立っている主体でもない。ただただ属性もなく、一個の生命体として知る存在としての〈私〉のことだ。
「私自身というこの根本前提の暗黙の了解を否定して」とダンテス・ダイジも述べている。我々は、私自身はこういう人間だという暗黙の了解を担っている。それを自己と呼ぼうと自我と呼ぼうとつまりはエゴ(ego)のことだ。それなくしては、社会性も何もあったものではないけれど、それを前提に立っていては決して見破ることができない。
しかし〈私〉を発見するなら、そこは大きな違いが見えてくるだろう。当然あくせくして悩むことも、それは「私」のときの話だと見えてくるし、そんな世辞に悩まされることもない。世間の事など賢く、対応すればいいだけのことだからだ。世界の問題は尽きないけれど、自分のできることなど、たかがしれているので、自分のできることだけをすれば良いのだとわかる。

端的に言おう。なぜ今ヨーガであり、瞑想なのかと言うと「〈私〉の発見」にあると。

このように私は落とし込んでみたが、もう一人佐保田鶴治の見解を見てみよう。佐保田はヨーガは宗教だと言っている。しかし、この宗教という意味は、我々が一般的に使っているような教団とか、宗派という意味ではなくて、個人の信念ないし、生きていくためのバックボーンのようなものだとしている。いわゆるリィリジョンReligionではなくて、むしろフェイスfaithに近くディヴォーションdevotionという意味に近い。しかし、ヨーガは、自分の外部にある一神教的な神というよりも、もう少し違っていて、身体性の中から発見していくようなものに見える。

ともかく、その人の信念になり、大切にしている教えということで、それをヨーガの実践の中で、そこに働いている偉大な力、宇宙そのものの生命力そのものの発見にあるとしている。それでもわかりやすいところに落とし込んでいくのは、「健康」であったり、「生き方の指標」であったり、の文言になっている。

佐保田の主催したヨーガ禅は体操を毎日行えというようにアーサナに落とし込んでいるようだ。
要約すると、健康とともにヨーガ、本来の解脱(霊魂の自由)という宗教的な目的を果たすものだと結論しているように思える。
私としては、それはそうなんだろうが、先にも述べたように、自分の幻想性からの解放であって、本来の私に気づくことではないかと指摘しておきたい。

ヨーガと呼吸法と瞑想は三点セットのようだけれど、ヨーガには八支則とあるので、この八つが必要なのだろうけれど、とりあえずは、この三つで身体を動かし、刺激を与えて〈私〉を発見することにあると、結論付けたいと思う。

ところが、既に結論が出てわかっているなら、ヨーガなどの身体技法をやらなくてもいいじゃないかという反論が出てくる。それはそうなのだ。結論が出ているのにまだするというのは、やはりまだ発見していないものを見つけたいからなのだ。それを求めてのヨーガでないとつまらないだろう。

発見してから後の事はそれからの問題だ。

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