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それは誰の怒りか


「分不相応なんじゃないか」

テラスハウスの木村花さんの事件後の怒涛のツイートを見て思ったことです。

「正義中毒」がTwitterのトレンドになりました。自分が正義だという思い込みが、他者への不寛容を生むということらしいです。

最近、SNSを中心に自分の意見を自由に発信する人が増えている一方で、問題も現れ始めているように思えます。Twitterでは誹謗中傷が飛び交い、また他県ナンバーの車荒らしも問題になりました。いわゆる自粛警察と呼ばれる現象です。確かに自分の正義視点での他者の言動評価が問題の根底に共通して存在しています。


おそらくここで問題なのは、「それは誰の怒りなのか?」ということです。言い換えれば、どこからどこまでを「自分ごと」として捉えるべきか?ということです。

テラスハウス木村花さんのニュースが流れた日、様々な種類の呟きが滝のように流れ出ました。事件を悲しむ人、誹謗中傷のツイートを消す人、それを非難する人、非難する人をまた非難する人。しかし私は、その全てに同じ種類の気持ち悪さを感じる。それは何なのか。

それは、皆に共感されるような社会的に是とされる道徳的な怒りを、あたかも自分の個人的な怒りであるかのように発言しているところ、そこに気持ち悪さの原因があるような気がするのです。

本来怒りは極めて個人的な感情だと思います。何に怒りを感じるかはその人の置かれた状況、考え方、育った環境などに大きく依存するからです。だからこそ、怒りを周囲に見える形で発散することにはリスクが伴う。共感されないかもしれないというリスクです。何でそんなことで怒るの?と聞かれるリスクです。それを了解した上で、我々は怒りを表明する必要があります。

その意味で、誹謗中傷やその非難のツイートに見られる怒り(のようなもの)は、それら個人的な怒りとは別のものだと言わねばなりません。それは意見を言っているように見えて何も言っていないのと大差ない。なぜなら、それらは共感ありきの怒りだからです。誰かが誹謗中傷ツイートを消した。これは「社会道徳」的に誰が見ても正しくない。だから、自分が怒りの体裁でもって批判しても、誰も自分のことは批判できない。そうしたある種のずるさが見え隠れするように思えるのです。

さらにタチが悪いのは、自分にとっての「社会道徳」が、本当に社会にとっての道徳なのかそれとも自分個人にとっての道徳なのか、その判断を往々にして我々は間違えるということです。当たり前だけれども、私たちは私たちの見方で世界を見ています。しかし自分の意見を絶対的な正義だと確信してしまったとき、この前提がすっぽり抜け落ちる。共感されることを免罪符に、心ない意見を表明してしまう。

有名な自己啓発本の1つに、「7つの習慣」があります。その中に出てくる概念に、「影響の輪」と「関心の輪」というものがあるんです。

影響の輪というのは、自分の力が及ぶ範囲のことです。自分の気持ちや考え方などがこの輪の範疇にあります。

関心の輪というのは、その名の通り自分の関心が及ぶ範囲のことです。身の回りの人の気持ちや自分への意見などが入ります。

通常、影響の輪は関心の輪の中にすっぽり入るような形になります。問題は、「関心の輪には入っているけれども影響の輪には入っていない」部分です。この部分は、注意しなければならないと著者コヴィーは言います。なぜなら、影響の輪の範囲にない部分について自分がコントロールしようとしても、何も生み出さないからです。

しかし、この部分について時間を割いている人は非常に多いように思われます。先ほどの社会問題に対するツイートがその最たる例です。本来、TV番組の登場人物の動向など、視聴者である我々にコントロールなどできません。できないからこそ面白いとも言えます。しかし、現実には多くの人が有名人の不倫など、どう考えても自分の影響下にないことを正そうとしている。

これは、ブログをnoteという形で発信する自分にも当てはまることです。私は自分の意見をブログ上で表明する。しかし、それはあくまで自分の気持ちや意見を知ってくれたら良いな、くらいのものであるべきだと思うのです。決して反対意見を頑なに否定したり、誰かをコントロールしたりしようとする類のものであってはならないと思うのです。これから、読書感想文という形で様々な個人的な意見をつらつらと書かせて頂きますが、その点をきちんと心に留めておきたいと思います。

著:テッド





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