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なぜ草野マサムネさんは無表情で歌うのか

こんばんは。曲をカバーすることの難しさを日々痛感しているソーダ ・ヒロです。

おかげさまでYouTubeチャンネル登録者数が150人を超えました。本当にありがとうございます。多い数ではないとは思いますが過去の自分に比べるとかなりの前進です。大変感謝しております。

このブログでは自分の音楽活動での成長のために様々なことを考察して参りました。事実もあればほぼ空想のようなものもあります。

ただ、自分の体験を裏付けとして「あの時のそれはこういうことだった」と一つ一つ自分が納得できる考え方にも出会いました。

最近では“歌唱”に関しての気づきなども書かせていただく中で、いただいたコメントや考察を深掘りしていく中で新たな発見もありました。

そうしたことを経て、今回のタイトルにもあります、
「なぜ草野マサムネさんは無表情で歌うのか」について自分なりの意見を書いてみようと思います。

前半はスピッツとの出会い、スピッツの好きな点、後半に上記タイトルの考察の流れで書いていきます。

これは完全に僕の個人的な考察でしかないですが、もしよろしければ見てみて下さい。

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スピッツとの出会い



スピッツは僕が敬愛して止まないアーティストの一組であり、唯一オリジナルアルバムを買い続けているアーティストでもあります。

出会いは小学6年の時、テレビから流れてきた『楓』に幼心ながらに心を撃ち抜かれ、音楽への興味が芽生えた最初のアーティスト

中学生になってお小遣いが始まって初めて買ったアルバムがスピッツの『隼』でした。

そこから新作も旧作もお小遣いが貯まると買いに行き、徐々にスピッツの音楽に触れる機会が増えてきました。

スピッツの魅力はスピッツに触れる方によって様々にあると思います。

スピッツの魅力


一つにはもちろんあの楽曲センス。僕が小学6年で心を撃ち抜かれた『楓』をはじめ、様々な"名曲"と呼ばれる作品の数々は草野マサムネさんの作家性の高さが生み出したもの。
メロディといい歌詞といい、真似したくてもできないピュアな願望や欲望が渦巻くなんとも魅力的な世界観。たまらなく好きです。

そしてまた一つは"パッケージ"
ジャケットもそうですが、スピッツとしての"デザイン"の仕方が秀逸で、スピッツを所有したくなる欲に駆られるのも、スピッツとしての方向性をデザインとして表現されているからこそ"憧れ"や"かっこよさ"という価値を生み出し、スピッツのCDを持っていることやスピッツを聴くこと自体、その人のステータスを上げる魅力があったと思います。

そして"考え方"。草野マサムネさんは「裏道を行く」という名言を残されていますが、ニッチでサブカルなマイノリティ的要素を持った音楽観のままそれを世間に認めさせた稀有なグループだと思います。そうした"姿勢"にも強く憧れを抱きました。

そしてそして、なんと言っても草野マサムネさんの"歌声"。どこまでも澄み渡るハイトーンボイスで、その中に含む『幼さ』『切なさ』『儚さ』は楽曲の魅力を最大限表現する最大にして最高の武器だと思います。
ハードロックに傾倒していた時代もあったようで、アコギの爽やかな曲が人気を得ていく中で葛藤もあったと聞きます。
でもそれはあの声がそうした楽器構成の中でよりいかんなく魅力を発揮していた、とも言えます。
音楽シーンの中で良い意味で異彩を放つあの歌声は、決して真似できない唯一無二の世界観をもった歌声です。



なぜ草野マサムネさんは無表情で歌うのか


そうした中で、草野マサムネさんが歌唱の際、ほとんと表情が変わらない、もう"無表情"と言っていい涼しい顔で歌う姿が印象的で、熱く声を張り上げながら歌うミュージシャンもいる中で、どうして草野マサムネさんはあれほどに表情を出さないのか。

シャイで緊張しいだということも当然あると思います。そうした"地"の性格から来るものもあるとは思います。

なので、ご本人が意図してるかは分かりませんし、結果論的な僕の考察になりますが、

草野マサムネさんの無表情というのは、
聴き手の感情を乗せる良質な"器"になっていると思います。



感情を出さない歌唱は聴き手の感情の“器”になること


様々なアーティストがおり、様々な表現方法をされていると思います。
銀杏BOYZの峯田さんのように、大波みたく感情を目一杯に叫ぶ方、そうした方の音楽にはパワーを感じて、その人の人間性やドラマに魅了されたいとこちらは思います。また、こちらの感情を引っ張り出されるような強烈な力があるとも思います。

反対に、感情をあまり出さず、言い方はあまり良くありませんが、"淡々と"歌う表現の方、それが草野マサムネさんやキリンジの堀込泰行さんのような方や、ユーミンもそうかもしれませんね。あまり感情を歌声に乗せない表現をされる方の音楽には、聴き手として聴き手側の感情を思う存分好きに乗せられる、という心地よさと幸福感があります

そうした時、その歌声というのは人肌をもった良質な"器"であり、また、"歌う"という行為において、その手前の"楽曲"に全ての感情や理想、願望、欲望を詰め込んだ、ある種『全身全霊で作り上げた完成されたもの』であるので、あとは歌う上ではそうした感情を忠実に再現するため、ピッチやリズムをきちっと歌う、ということのみに注力した結果のようにも捉えられます。

そのため、歌うことに歌い手の感情を込めなくても自然と聴き手に伝わり、「どうぞこの曲にあなたの記憶や感情を乗せてあなたの曲にして下さい。」というメッセージすら孕んでいるようにも思えます。



歌い手の感情は“雑音”



歌唱に感情を乗せない聴き手にとって聴き手の感情を乗せる“器”になっている時には、もはや『歌い手の感情』というのは聴き手にとっては単なる"雑音"になってしまうのかもしれません。歌い手の感情が邪魔して聴き手が自由に自分の感情を委ねられなくなるのです。



草野マサムネさんが無表情で歌う考察の結論


こうした要素を踏まえた上で、草野マサムネさんが無表情で歌う、ということは、聴き手に「あなたの感情の器になります。どうぞあなたの感情を委ねて下さい。」というサインでもあると、僕は勝手に思ってしまいます。



自分の歌声の特性に合ったスタイルがあるはず

きっと僕はそうしたスタイルの音楽が好きなのだろうと思いますし、
逆に自分が表現者側に回った時、前者(=感情を爆発させるタイプ)のスタイルをとるのか、後者(=聴き手の器になるタイプ)のスタイルをとるのか。

きっとその答えは、これまでの活動の中で自分が無意識に表現したものに対する聴き手の反応がそのまま答えになっているのかもしれません。

きっとどちらのパターンも試したと思います。どちらの時にお客さんから良い反応が返ってきたのか。自分の持つ特性がどちらにフィットしているのか。

一つ答えが出たのなら試してみよう、新たな結果を得てきっと前進できるはず。

ではまた!


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