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【後編】困難から立ち直る底力はどこから来ているのか? 母親からの「1番じゃなきゃダメ」の重圧を乗り越えて 〜外資系コンサルを経てクラファン企業とベンチャー企業の二足のわらじで活躍する東大理学部出身・中山貴之さん

東大生を中心に「この人はどうやって育ってきたのだろう」と思う相手とその養育者にインタビューを行う”育ち方プロジェクト”。

今回インタビューした中山貴之さんは、福富(育ち方PJ主催者)が大学時代に所属していた環境問題解決サークルの同期。「自分の意志をはっきり持っていて熱く、しかもユーモアのある魅力的な人」。当時、福富は中山さんに対してこのような印象を持っていたという。

現在は研究者を支援するクラウドサービスを提供する企業と、クラウドファンディングサイトを運営する企業の2社に所属している中山さん。そのような企業で働く社会貢献意欲や、昔から変わらない魅力的な人柄がどう育まれたのかを探るべく、話をきかせてもらうことに。

後編では、一度つまずいても何度も立ち直る精神力の源と「一番じゃなきゃダメ」と言われ続けたプレッシャーとどう折り合いをつけたのかに迫る。

中山・貴之(なかやま・たかゆき)
READYFOR株式会社、株式会社Inner Resource 経営企画。
山形県出身。東京大学理学部卒業、同修士課程を修了。A.T. カーニー株式会社を経て現在はREADYFOR株式会社と株式会社Inner Resourceの2社に携わっている。

(前編はこちら)


困難をバネにする力はどう養われたのか

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ー前編では、多忙のあまりメンタル不調に陥った中山さんが、休職中の2ヶ月でたくさんの人に会っていたというお話を伺いました。私(福富)はメンタルをやられて会社を辞めた時、別の地域で結婚して子育てするという、ひっそりと生きる形をとりましたが、中山さんが前向きなモチベーションを保てたのはどうしてでしょう…?

もちろん自分を責める気持ちはありましたけど、仕事の方もうまく引き継ぎができたし、早めに撤退した分、傷が浅かったというのはあるかもしれない。それに、昔からピンチをなんとか乗り越えるみたいな経験は何度かあったので、今回のことも死ぬ時に振り返って「よかった」と思えるようにしてやろうという感覚はありましたね。

ーピンチを乗り越えるとは、たとえばどんな経験ですか?

高校時代に放送部の朗読で全国3位というのも、地区大会の段階ではあまりいい成績じゃなかったんですよ。兼部していた水泳部の試合の応援で声を出し過ぎて喉がガラガラの状態で臨んだのもあって。「そんなレベルの態度で出られても迷惑だ」と顧問の先生にめっちゃ怒られたんですが、それから本番までの1ヶ月、めちゃくちゃ頑張って結局全国3位に入れた。

あとは、実は大学入試のセンター試験もあまりうまくいかなかったんですよ。でも「ああ、またこのパターンだ」と思って2次試験で取り戻す、みたいな。社会人になってもそういうことはちょこちょこありました。会社の忘年会で鳥の着ぐるみを着たけどめっちゃ滑って、でも「こうやると滑るんだな」と学んで別の機会に活かすとか。

そういえば小学生の頃、父の仕事の関係で転校も2回くらい経験しているんですが、その時はそれなりに苦労したはずだけど結果的に「友達がいっぱいできてよかった」という振り返りになってますね。

ー失敗や困難を次に活かしたり乗り越えたりという経験をたくさん積んでいるから、メンタルをやられた時も「もうダメだ」とはならなかったということでしょうか。

そうですね、失敗体験もいっぱいありますけど成功体験もちゃんとありましたからね。子どもの頃も家ではほとんど褒めてもらえなかったですけど外では褒めてもらえることが多かったですし。それに「学んでいる時こそ人は楽しいのだ」という、例の速聴のCDの影響も大きかったと思います。

ー成長やチャレンジに対するポジティブな価値観のインストールの立役者が速聴のCDだったというのはとても興味深いところです。多くの人は家族や先生や友人など、身近な人の影響を受けることが多いように思います。

たしかにあらためて考えると例の速聴のCDの影響力は大きいですね。なんだか怪しく聞こえますが(笑)。

「1番じゃなきゃダメ」の重圧につぶれなかったのは勉強するのが楽しかったから

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ー中山さんにとって身近な存在だったであろうお母様には、「1番になれ」と言われて育ったということでしたね。

はい、覚えているのは幼稚園くらいの頃からかな。公文式の教室に通っていてけっこう先に進んではいたのですが、僕よりデキる子が何人かいて、いつも教室で2番だったんですよ。僕なりに頑張っていたんですけど「1番じゃないじゃん」って、母親には全然褒めてもらえなかったと記憶しています。中学生の時も学年テストでいつも2番だったので褒めてもらえず…。

ー当時、そのことについてはどう感じていらっしゃったのですか…?

いや〜、「1番じゃないから頑張らなきゃな」と思っていましたね。今思えばなかなかなことを言われていたなと思いますが。まあ、でも学年で2番や3番って外ではじゅうぶん優等生なんで、家の外では褒められることばかりでしたけどね。だから家より外にいる方が楽しかったですね。

ーちなみにお父様からも「1番になれ」と言われていたのですか?

いや、父親からは言われませんでしたね。

ーお父様はどのような存在だったのですか?

正直、ちょっとなさけない印象なんですよね。というのも、父は東大を3回受験して合格できずに別の大学に行った経歴があって、それがコンプレックスだったみたいです。そのことで母が父へキツい発言を繰り返していたことや、父と母の関係もあまり良くなかったこともあり、その印象を正直今も引きずっているところはあります。

ーそうでしたか…。「1番になれ」の重圧の強いご家庭だと、生活面をはじめ他の面でも厳しかったのではないかと想像するのですが…?

その通りですね。「勉強しなさい」以外に、起きる時間や食事のことなど、わりと一挙手一投足に口を出されました。もちろん、母は僕のためを思って言ってくれていたのだとは思いますが、禁止事項も多かったので、早く家を出たいなと思っていました。

ー正直、グレてもおかしくなかったかなと思うのですが…。

山形で育ったんですけど、山形って平和なんですよね。都会と違ってグレるロールモデルもないんですよ。中学校で「便器にトイレットペーパーのロールが突っ込まれていました」という内容で学年集会が開かれるレベルですから。「タバコの吸い殻が落ちていました」とかではないですよ。タバコだったとしても可愛いもんだと思いますけど。

ーなるほど…。では中山さんは幸いにもグレず、勉学や部活に邁進していたという感じですか。勉強は好きでしたか?

楽しかったですね。すごく嫌な言い方ですけど、小・中時代は点を取ること自体はそんなに難しいことではなかったから。
だから点を取るのが楽しいというよりは、純粋に「知ることが楽しい」という感じでした。読書も好きだったから教科書も読み物感覚で、4月に新しくもらった教科書をすぐに全部読んでしまうような子でしたね。
中・高の学年テストでは1番を取ることは難しかったけど、今考えれば、それくらいの方が頑張る理由があってよかったかなと思う。

ー前向きですね…。お母様からの「1番になれ」のプレッシャーよりも自らの知的好奇心の方が勝っていたから勉強を頑張ることができたのかもしれないと思いました。ところで、習い事や塾なども積極的に通われていた感じですか?

いや、習い事は幼稚園の時の公文式と、小学生になってからは水泳と、近くのスポーツセンターでテニスもしていたかな? あとは将棋の道場くらい。母方の祖父が将棋を教えてくれて、楽しくて道場も通っていたんです。

塾は高校受験のために通ったくらいだから、小さい時は普通に外で友達と遊んでいましたよ。鬼ごっことか、ごく普通の遊びです。小1でドラゴンクエストにはまってスーパーファミコンをやり過ぎて視力が落ちてからはゲームは禁止されましたが。

ー目が悪くなってゲーム禁止、子どもあるあるですね。ところでおじい様、おばあ様とは親しくされていたのですか?

同じ市内に住んでいたので、よく遊んでもらっていましたね。母方の祖父母でしたが、すごく甘やかしてもらって、怒られた記憶が一切ないです。
なんでも、僕の母親を厳しく育て過ぎたと反省していたとかで。それに孫ともなると責任感がなくなって純粋に可愛がれたのかなと思います。

東大受験のモチベーションは「親元から離れたい」

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ー受験経験についてお伺いさせてください。高校受験が初めての受験ですか?

いえ、実は幼稚園と小学校を受験したらしいんですけど、2回とも落ちたらしいです。山形大学附属幼稚園と小学校。どっちも国立なので試験とは別に抽選があるんですけど、親が言うには「抽選で落ちた」と。本当のところはわかりませんけどね。
で、中学はもうめんどくさかったので受験はせず、高校は推薦で山形東高校という公立の進学校に行きました。田舎なのでそんなに選択肢はないですけど。

ー公立でも推薦枠があったのですね。何の推薦ですか?

ふんわりいろいろ系ですね。英語の弁論大会に出たり、水泳も補欠ですが一応東北大会に出たり、なんか作文のコンクールで賞をとったりとかいろいろあったので…。

ー進学校から東大を受験されるのは自然な流れだったのでしょうか。東大を受験しようという明確な理由はあったのですか?

いや、ない(笑)。うちの高校から毎年何人か受かっているから、上位なら受験するのが普通みたいな雰囲気はありました。そこ、東大ってずるいなと思うんですよね。他の大学と違って学部と学科の振り分けが進学後だから、「高校で1番取れるんだったらとりあえず東大行っとけ」ってなりますよね。最強の方法戦略だと思う。

本当は京大もいいなと思ってたんですよ。なんかかっこいいなと。東北から遠いので親からも離れられるしな、と。でも高校の先生から「うちは関西の大学の受験指導に対応していないから」と言われて東大にしたんです。

ー無事、東大に合格されたわけですが、お母様はどのような反応でしたか。

母から褒められたことって、中学の学年テストでたまに1番をとった時と、高校の放送部時代に朗読の全国大会で入賞した時だけだったんですけど、東大に入った時も褒められましたね。

ー中山さんが勉強をするモチベーションはお母様の期待に応えるためというよりも、勉強が楽しいという気持ちだということでしたが、東大受験を頑張ったのも、ご自分の意志だったのでしょうか…?

いや、正直、強迫観念はありましたよね。是非はさておき「東大に落ちたら父親みたいになる」という意識は深層心理にあったと思う。あとは、親元から離れたいという気持ちが大きかったかな。東北大だと山形から近すぎて離れられないから。

ー東大に進んでからは、ご家族との関係は変わりましたか。

東大に合格してからは「自分の手に負えない」と思ったのか、母からは特に何も言われなくなりましたね。そこから先は「健康に生きてほしい」としか言われていません。

ーそれがお母様の本当の望みなのかもしれないと思います。お話を聞かせていただき、ありがとうございました。

◆中山さんの「育ち方」ポイント
・速聴のCDから成長や挑戦に対するポジティブな価値観を学んだ
・読書が好きで「知ることは楽しい」という意識があった
・母親からは「1番じゃなきゃダメ」と言われるなど厳しく育てられた
・祖父母からは甘やかしてもらえた
・学校をはじめ外の世界では褒められることが多かった
・水泳部、将棋部、放送部など高校時代はいろいろな活動をしていた
・早く親元を離れたいと思っていた
◆インタビューしての感想

福富
中山さんと数年ぶりに再会したのは大学時代の共通の知人の結婚式のときでした。「今、こんなインタビュープロジェクトを進めてるんだけど、協力してもらえない?」と聞くと「あ、ぜんぜんいいっすよ〜。」と快諾いただきました。
とはいえ、とても多忙な中山さん。1度にまとまった時間を取れなかったため、仕事の合間を縫って2回に分けて取材させていただきました。
中山さんの大学時代の印象は、ポジティブなこともネガティブなこともユーモラスにに表現し周りの人を楽しませてくれる人。そして、「ぼくはこんなことがしたいんだ!」と情熱的に発信し芯のあるたくましい人でした。なので今回幼少期のお話を初めてうかがって、正直なところ、ご両親のエピソードには驚きました。人によっては感情やエネルギーを抑圧され主体性を失うケースにつながるのではないかと。
また、取材中「実は、メンタルやられて2ヶ月休職してたんですよ〜」とあっさりとお話しし、当時の状況を包み隠さずお伝えくださったことも印象的でした。
失敗や逆境をバネにして上昇していく強さを感じさせられる取材でした。

村上
インタビューを開始してすぐに「飄々とした人だな」という印象を持ちました。また、福富から聞いていた「自分の意志をはっきり持っていて熱く、しかもユーモアのある魅力的な人」という情報に紐づくエピソードがすぐに出てくるかと思いきや、意外や意外、しんどい幼少期を過ごしてきたことが明らかになり、一瞬戸惑いました。
ですが、人によっては”苦労話”と表現できそうなエピソードも深刻ぶらず、隠し立てもせず、フラットに淡々とお話くださったことから、辛い体験や失敗を自分の力できちんと乗り越え、昇華してきた人ならではのパワーというか、底力のようなものを強く感じた取材でした。
客観的に見ても厳しい教育方針のお母様に育てられたことは確かだったと思いますが、その背景にあったであろう切実な思いも冷静に受け止めていらっしゃるのだろうなと感じます。自ら道を切り拓き、自分らしく生きていく中山さんの強さと優しさを、心から尊敬します。

インタビュー/福富彩子、村上杏菜
執筆/村上杏菜
文字起こし協力/川合香名子、中尾愛

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